生ぬるい地面に滑って、体を打ちつける。
地面はすっかり、生ぬるく柔らかいものに覆われている。
顔を拭い、体を起こす。
目の前の惨状は相変わらずだ。
これを地獄と呼ばないなら、何を地獄と呼ぶのだろう。
足元の肉塊がくちゃり、と粘性の籠った悲鳴をあげた。
本当の絶望に対面すると、泣くこともできないものらしい。
袖で顔を拭う。
列車の窓は内側から赤く曇っていた。
唐突に、頭上に光が差した。
列車の照明は切れてしまっている筈なのに。
その光の中から、何かが降りてきた。
後光を背負い、清潔で、高貴で、神秘的で、美しく。
この環境にそぐわない何かが…
これが噂に聞く神様だろうか?
神様と思しき神秘的な存在を見ても、私の脳は恐怖さえ感じなかった。
感激も、感動も、恐怖も、痛みや辛さもない。
あるのは絶望と呆れだけ。
連れや仲間を探す気も起きなかった。
ただ、私はぼんやりとそれを見つめて考えていた。
痛覚を排除するインプラントなんて発明したバカは、一体誰だったのだろう、と。
疲労、苦痛、不快、恐怖。
これらの感情を可能な限り避けようとするのは、命と感情を持つ生き物にとって当たり前のこと。
だから、ヒトがそれらを人類から根絶しようと考えたのは当たり前のことだったのかもしれない。
私たち人類は、ずっと“天敵”に脅かされてきた。
奴らは奴らの豊かな生活のため、私たちを侵略してきていた。
もちろん、私たちも豊かな生活のため、奴らを侵略していた…らしい。
そんな人類の明確な“天敵”に勝利を収めるため、私たちの文明は生物学と道徳そっちのけで、実益最重視でつき進んだ。
天敵をより殺すため。天敵の影響を受けないより良い環境を手に入れるため。
どの国のどんな人間も、他国や天敵との戦いのため、最低限の戦闘能力を手に入れた。
こうして、人類の戦争の歴史は激化した。
他国と利権を争って戦い、天敵と戦い…
あちらこちらで悲劇が生まれた。
…そしてこれも、この世界にありふれた悲劇の一つに過ぎなかった。
人と人との戦争に巻き込まれたこの列車は、気づいたら痛みを感じない人たちが、敵味方乱れて殺し合う、戦場となっていた。
……そして私は今、戦場の終幕に1人残された。
…ところに、神秘的な何かが降りてきた。
おそらく、神様とやらが。
この車両に、この血みどろの世界に、あまりにも不相応で格式高く、清潔すぎて、思わず怒りを覚えてしまうような、絶対的で完璧な神様とやらが。
神様が。
神様が舞い降りてきて、こう言った。
「 」
なんと言ったのか、私の脳は理解を拒んだ。
瞼が重くなり、目を瞑った。
意識が赤く霞んだ。
瞼の裏に、清潔な神様の後光が焼き付いている。
煙草に火をつける。
赤い火口から細い煙が上がる。
誰かのためになるならば。
誰かのためになるならば、不道徳な行動はどこまで許されるのだろうか。
薄汚れた白衣を羽織り直す。
診察台の上に置いた針と鉗子が、照明に照らされて怪しく光っている。
人の気配はしない。
無理もない。
僕が今やっている研究について来てくれる人間など、そうそういないだろう。
俺の専門は精神科、生命倫理の畑の人間だ。
精神に問題を抱える患者を治療したり、終末医療を受ける患者の相談を受けたり…普段はそんなことを仕事にしている。
まあ、難しい仕事だ。正解がないのが特にキツい。
抱えるものが大きすぎて、医者の不摂生を体現するように精神を病んで、患者側として職場に通うことになる同僚や部下も少なくない。
煙を燻らす。
細い煙が、揺らめきながら天井へ登っていく。
倫理や正義については何度も論じてきた。
生命とは何か、道徳とは何か。
それは、大学時代から何度も問うてきたお馴染みの自己問答だ。
そういう人間だから、容易く一線を越えられたのだろう。
もしくは、マトモに見えた俺も、既に狂ってしまっていたということか。
目がシパシパと乾く。
近頃、睡眠時間が取れていない。
潰れて辞めていった医者たちの埋め合わせと、件の研究に追われて、しばらく仮眠すら取っていない気がする。
そういや、昨日鏡で見た自分の顔は、随分とクマが酷かった。
戦場や無法地帯に_それこそ誰かのためとはいえ_生きた人間を送り込むことは、倫理的にずっと問題に問われていた。
人間に暴力という選択肢が残されている限り、誰かが手を汚し、秩序を守らなくてはいけない。
だが、それには心身共に莫大な危険と負荷がかかる。
無事に帰ってきたとて、精神を病んで、平和を享受出来なくなる人間もたくさん出る。
それは、先進国の少子化が深刻化し、精神病の患者が急増した現代で、一躍、人類達の頭を悩ます筆頭問題となった。
そこで、極秘の計画が持ち上がったのだ。
内容は簡単。人に変わる兵士を作り出す計画だ。
だが、機械やAIではダメだ。
奴らにはコストが掛かるから。
人間が昔から今までも、これからも、人間が兵士として使われてきた所以の一つに、コストが少なくて済む、ということがあるのだ。
人間は、勝手に生殖で増え、自然と意思疎通できるようになる。
プログラムを組み、金属を加工し、体を組んで膨大な時間をかけて出来上がる機械よりもよっぽど手軽で、即戦力になる。
たとえ生命が複製できないただ唯一の存在だとしても。
機械を量産するより、ずっと効率的なことには変わりない。
機械を発明したとして、それは人間の兵を無くすことには繋がらない。
…だから、僕たちが目をつけたのは死体だった。
生きている人間の次に、自然発生する人体だ。
死体を従順な何かとし、戦場やトラウマになるような場所に送り込まれる人間を根絶する。
これが我々の…僕たちの研究だ。
簡単ではない。現に長い月日が経ち、チーム最年少だった俺が最年長となっても、まだゴールは見えて来ない。
…そんな中、何千人の人間が戦場に送り込まれたことだろう。
溜息をつく。
青灰色の煙が、溜息に色をつける。
縫い目が露わな死体は、目を開きそうにない。
誰かのためになるならば。
生きる人たちのためになるならば、こんな死への冒涜も許されるのだろうか。
分からない。
煙草が短くなってきた。
灰が足元に散る。それを踏み躙る。
青白い蛍光灯が、仄暗い冷めた目で、こちらを見下していた。
西の空が赤く染まる。
今日も無事に村まで帰って来れた。
仕事仲間のシェパードが、豊かな長毛を靡かせて、こちらを見つめている。
今日の仕事は終わりだ。
今日も1匹の遜色もなく、羊たちを送り届けた。
雇い主に羊の群れを渡し、報酬を貰い、仕事仲間の頭を一撫して別れを告げる。
杖を持ち直し、帰路に着く。
雇い主がこちらに向かって唾を吐き、扉の奥に消えていくのを目の端で捉えながら、僕はまっすぐ歩き続ける。
杖の、緩やかにカーブした持ち手に下げた鳥かごが、ゆらりと揺れる。
正確には、鳥かごの中の鳥かごの中の鳥かごの中の鳥かごの中で狭苦しそうにもがく、漆黒の渦巻きが、揺れる。
厳重に鳥かごの中に押し込められた、この小さな漆黒の闇渦巻きは、狭い狭い鳥かごの中、二対の黒い羽根を交互に羽ばたきながら、ぐるぐるとこの世の負のエネルギーを蓄えている。
これは厄災だ。
かつては僕たち人間を脅かした、“魔王”と呼ばれていた者の、悪意と魔力と力の核。
つまり、人間社会にとっての厄災。
魔王は二年前、勇者によって倒され、肉体を失った。
だが、魔王と勇者の決戦の決着によって表面化した、魔王の無念、勇者とその仲間たちの無念と奪われた平和な生活に対する負の感情を吸った魔王の核は、佇み続けた。
一応、勇者の仲間の聖職者が、最期の力で、厄災の核を抑え込んだらしい。だから、厄災の核はこれほどまでに小さいのだ。
仲間を失い、幸福という犠牲を払って帰還を遂げた勇者は、一年前に国王に疎まれ、他国の人々からは危険視され、無念の死を遂げた。
英雄とはそういうものなのだ、と、僕たちは思った。
…参政権を持つ民には、為政者に納得できるカバーストーリーが流布されていそうだが。
ともかく、そんなこんなで放置された厄災の核。
これを僕が見つけたのは、仕事の最中のことだった。
いつものように、村民や雇い主に半ば追い出されるような形で羊の群れを受け渡され、高原へ向かったいつもの朝。
僕は、二対の羽根で悠々と飛ぶ、この核を見つけたのだ。
僕にとって…周りから畏怖と軽蔑の目で見られ、聖職者からは敵視される僕たち羊飼いにとって、これほど魅力的な拾い物はなかった。
この僕たちにとって厳しい、酷い社会を破壊できる兵器を手に入れたも同然だ。
だから僕は、それを鳥かごの中に拾い上げた。
消滅させなかったことを恩に着せ、しばらく鳥かごの中で飼い殺しにすることにした。
コイツのおかげで、僕の精神はすっかり安定した。
いざとなれば手がある。
それに、コイツのおかげで魔物も肉食獣も寄って来ない。
仕事がだいぶ快適になった。
鳥かごは僕に自由と余裕をもたらしてくれた。
鳥かごの中で、闇渦巻きは、もがいている。
ヤツは逃げたいらしい。逃すものか。
この鳥かごの中にいるコイツは、僕の幸せの青い鳥なんだから。
ヤツの気を削ぐため、鳥かごを揺すりながら帰路に着く。
聖歌なんかも口ずさんでやる。
黒い二対の羽根の動きが鈍る。それでいいんだ。
空が赤く染まっている。
今日もぐっすり眠れそうだ。
ラクトアイスを齧る。
久しぶりに母校に来た。
部室にはまだ、見覚えのある新聞記事がラミネートされて貼られている。
もう何年も会っていない顔が、幼さの残る私の顔と一緒に写っていた。
固い、下手な笑顔で。
あの日、目標と勝利の前には、私たちはただの駒だった。
役割を全うすること、課された勝利を掴むこと。
ここではそれが、私たちの存在意義だった。
私は弱かった。
誰よりも一番アマちゃんで、ヘタクソで、意気地なしだった。
だから私は、みんなと対等ではなかった。
常に一番下の、守られるべき鎹でしかなかった。
私をどうにか守って、上の大会へ連れていくという意識のもとで、私たちは結束した。
私はまるで、愛玩動物でしかなかった。
それでも。
それでも悲しいことに、私は人間に成りかけていた。
技術に見合わない自尊心と理想が、現実との摩擦で脳を焼いていた。
あの日。
私は仲間と感情を共有することはなかった。
私のチームに起こることは、常に私の預かり知れぬことだった。
涙さえ流さなかった。
ラクトアイスは固い。
噛み砕くと程よい淡白な歯応えが、口の中に残った。
あの日の私は…
仲間は仲間ではなく、一緒に戦った仲間は友人ではなかった。
私は、守られっぱなし、誰を脅かすこともない、ただのか弱いヒト科の何かでしかなかった。
それでも私は人間だった。
だから、もうあの時のチームメイトには誰にも会うことができなかった。しなかった。
携帯を持っていないのをいいことに、卒業と同時に、私は誰にも会わなくなった。
もう進学校も今の顔も近況すら知らない。
それでも。
今思えば、それも一つの友情だったように思うのだ。
苦しみと屈辱のその思い出に、微かに、懐かしさと温かさが混ざるのだ。
会いたくないの中に、優しかったが混ざるのだ。
全員の名前を、今でも覚えている。
全員の癖も、笑い方も、雑談のノリも。
忘れたはずの思い出は、まだ奥底に沈んでいる。
見ないふりした友情は、まだ奥底で燻っている。
そういう友情もあるのだ。
ラクトアイスを齧る。
淡白で、頑なで、甘さ控えめ。
噛み砕いた感触だけが強く残る。
そういう友情もあるのだ。
棒付きラクトアイスのような友情も。
夏の日差しが窓から差した。
底から這い出た思い出の中の景色が、そこにはあった。
くっきりと青色が貼り付いている。
快晴の、茹だるような暑さが揺らいで、太陽が地上を焼いていた。
揺らいだ暑さはいつまでも地面に縫い付けられて、陽炎と呼ばれて、そこに居た。
…ようやく、花が咲いた。
前に蒔いた種が、苗になり、蕾を綻ばせた。
葉に這い寄るナメクジに塩化ナトリウムをかけた。
花咲いて。
大輪のヒマワリは、太陽の方を向いて、堂々と一本立ちしていた。
けたたましいセミの波長と太陽の熱光線に祝福されて、ヒマワリはまっすぐに太陽を見つめていた。
花咲いて、
ヒマワリを抜くことにしたのは君だった。
一番立派に育ったヒマワリを、根ごと掘り出して、無邪気な笑顔を浮かべて君はヒマワリを抱きしめた。
私がこの地に降り立った時、同じ笑顔で君は言った。
「せめてこの種だけは育てさせて」
「花が咲いて、花が咲いたら…あなたにきっとぴったりな花だから」
だから私は待った。
この星で半年と数える期間を。
しょうがない。
だって一目惚れしてしまったのだ。
地球人とは存外無力で可愛らしく感じたから。
歪んだり慌てたりするのを眺めるのは、最高に可愛い素質がありそうな星だった。
ここまで強かだとは思っていなかった。
両腕に痛みが走る。気のせいだ。
もう私は故郷に帰ることはない。
花咲いて。君笑って。私の腕舞って。
私はこの青色の空に閉じ込められた。
ヒマワリのように、太陽のように、眩しくて大きな笑顔に捉えられてしまったから。
花が咲いたから。
愛とはなんだろう。
私はこの星の支配種族たる人を愛していた。愛でたかった。
なのにこんなことになるなんて。
巻きついた鎖。
地に縫い付けられた足。
ない両腕。
取り上げられた宇宙船。
頭上に蓋をする、悍ましい青色の空。
大輪のヒマワリを抱いた君の笑顔。
陽炎がゆらめく。
この茹だるような暑さは、私と同じ境遇らしい。
太陽はいつまでも燃えていた。
どこまでも、どこまでも、ヒマワリが続いている。
花咲いて。
こちらに顔を向けて。
けたたましいセミの波長が、いつまでも、いつまでも、空気を震わせていた。