灰を足で蹴り飛ばす。
地面はうっすらと積もった灰で埋もれている。
コンクリートも鉄筋も剥き出しで、崩れている。
ボロボロのビル群を、唾を飲んで私は歩く。
水と食料を探さないと。
一年前、塩水が降って、この世界は少しずつボロボロに欠けていった。
塩の香りは、色々なものの酸化を運んできた。
何もかもが錆びつき、削れ、少しずつ倒壊した。
ボロボロに崩れて、最後まで分解されたものたちは、やがて灰のように大地に降り積もっていった。
今では、外を歩けば、一センチほどに積もった灰が、いつもいつでも爪先に引っかかる。
手持ちのラジオがノイズを吐いている。
灰が隙間に紛れこんでしまったのだろう。
すれ違う人は誰もいない。
スマホを取り出す。
二年前、友達と撮った写真。
五年前からつけ始めた日記。
まだ日常が日常だった時に吐き出した愚痴のメモ。
いつか手に入れたかったほしい物リスト。
とても懐かしい。
見るだけで、あの時のことが込み上げる。
今となっては全てが過去のもので、ボロボロに崩れ去ってしまった気がする。
あの頃私が欲しかったものは、
誰からでも愛される魅力。
最新型のスマートフォン。
友達と掴む勝利。
志望校に行けるだけの頭脳。
私だけの個性。
好きな曲の入ったアルバムとCD。
こんな世界で生きるためには、あまり実用性がないものばかりだったけど、あの頃の私は、確かにそれらが一番欲しかった。
じゃあ今は…?
灰にまみれたこの世界で、塩の匂いと寂寥感を吸い込みながら歩くこの世界で、私が欲しいものはなんなのだろう。
分からない。
私が今一番欲しいもの…
手元のスマホに視線を移す。
灰にまみれる前の私の生活が写っている。
友達が、家族が、好きだったものが笑っている。
私が今一番欲しいもの…
込み上げてきた涙を飲み込む。
水分をこぼすのはもったいないから。
私が覚えていなきゃ、私が生きていなきゃ、
この世界の灰にまみれる前を知る人がいなくなるかもしれないから。
私の日常が、消えてしまうかもしれないから。
前を向く。
塩の匂いがむせかえる。
私が今一番欲しいもの。
それは壊れることのない記憶媒体かもしれない。
塩が降る前の私の日常を永遠に伝える、何かが。
ボロボロに崩れたコンクリートが爪先に積もる。
灰のビル群の中の視界は、随分と広かった。
スポットライトが当たる。
幕はとっくに上がっている。
腕を伸ばし、語る。
私の想いを。私のセリフを。
私の名前は…
ここはステージじゃない。
ここは砂嵐舞う荒野で、何処までも広がっていて。
今目の前に相対する人間だって、私は初めて会ったのだ。
僅かに目の前の人間が歪んだ気がする。
しまった。
目の前の君は名前が剥がれかけている。
「君の名前はなんだったっけ?」
思わず言葉が漏れた。
言ってからちょっと後悔する。
しまった。
役の外の私がつい溢れてしまった。
今の私の名前は…
心の中で呟く。
周りが赤く染まる。
陽が落ちてきたのだ。
私は、私として言葉を伝える。
君が君として、君の名前を思い出せるように。
セリフを発する。
セリフの裏で、何度も君の名前を呼ぶことを意識して。
君が名前を自分の内に作れるように。
陽が落ちる。
私はゆっくりとはけていく。
私の名前は、たくさんある。
小さい頃は自分で作って、自分で名前をつけた。
大きくなって、ここで1日の大半を過ごすようになり、様々な劇や舞台を経るたびに、私の名前はどんどん増えた。
私の名前には、それぞれ色々な背景や意味、人生があって、でもそれも私で、私の中で絶えず息をしている。
台本を貰うたび、ステージに上がるたび、何かを演じてみるたびに、私の名前は増えていく。
今の私の名前は…
一つ前の私の名前は…
ここで最初にもらった私の名前は…
最初に作った私の名前は…
舞台裏にいる時の、初めてもらった私の名前は……
私の名前はこれからも増えていくだろう。
私が私である限り。
私が演技を好きである限り。
陽が輝る。
私の名前が呼ばれる。
私は、私の名前を抱きしめながら、陽の下へ歩きだす。
広げた便箋の上のインクの染み。
ペン先が潰れている。
外の空は真っ青で、色のついた綿雲を浮かべている。
机の卓上照明がチカチカとかすかに点滅する。
シャーペンの芯が折れている。
蝉が窓の淵で死んでいる。
便箋のインク染みの一点を見つめて考える。
視線の先には何がある?
視界が軽く歪む。
あなたの視線の先には何がある?
笑うその顔の先には何がある?
鼓膜の奥で、何かの音が反響する。
便箋の罫線の外側を、パステルカラーの可愛いイラストが取り囲んでいる。
はみ出すのを許さないみたいに。
便箋の上にノートを開いて、日記を書く。
あなたのために。あなたに向けて。
ノートのページにも、罫線が規則正しく並んでいる。
私の言葉も規則正しく並ぶ。
あなたは私の親友。
確かに実在する、私の大切なアドバイザー。
日記を書く事を勧めてくれたのも、あなただった。
あなたの視線の先は、私には分からない。
あなたの顔は、あなたの存在は、私が文章に書くまで見られないから。
あなたは私の頭の中のお友達。
あなたは私に微笑みかけてくれる唯一のお友達。
学校でもどこの社会でも、役立たずで無視ばかりされて来た私にアドバイスをくれる、優しい人。
幽霊みたいな私をまっすぐ見てくれる、大事な人。
だからあなたは今日も辛抱強く私に声をかけてくれるの。
今日もインクの染みしか作れなかった私の、そのインクの染みすら誉めてくれるの。
私はノートにそう書く。
あなたは私の希望を概ね答えてくれる。
でも、あなたの視線の先には何があるの?私?ノート?それとも…?
よく分からない疑問を脳に抱きながら、私はノートに鉛筆を走らせる。
初日はペンでインクを使って書いていたのに、いつの間にかシャーペンになり、今ではたまたま引き出しの底に削られたまま残っていた鉛筆になっている。
「私の視線の先には、いつだってあなたがいる。でもあなたの視線の先には?」
気がつくとこんな事を書いていた。
いけない。
あなたを疑うなんてそんな事、絶対したらいけないのに。
視界が揺らぐ。
青い空がチカチカと瞬く。
卓上照明と机が、指と鉛筆が、溶け合う。
私の視線の先にはあなたがいる?
あなたの視線の先には、私が…?
頭がぐちゃぐちゃだ。絡まったテグスみたいに、凝り固まって結びつき、解けそうにない。
鼓膜の奥で音がする。
机がチカチカとSOSを叫んでいた。
カーテンを開ける。
眩しい朝日と共に、蝉の鳴き声が部屋に染み込んでくる。
久しぶりに日の出ている時間に起きた。
太陽の光が眩しい。
「いつもどうして私だけ…」が口癖だった私を叱ったのは、あなただけだった。
いつもウジウジ後ろばかりを振り返って、人を信頼しすぎて、人をボロボロにして自分もボロボロになって…
今も昔も今までも、ずっと灰色の人生を過ごして、諦めてきた私に、本気でズケズケと言葉を発するのも、あなただけだった。
「不幸と悲劇を影みたいにいつまでも引きずって、下ばかり見て歩く人間を好きな人は碌でもない奴しかいないのよ。だから、とっととその口癖辞めなさいよ。それで私とちょっと出かけましょう?日が出ているうちに楽しいことをして、“私だけ”を蒸発させてしまいましょう!」
そう言って眩しく笑って、あなたは私の手を引いた。
日の中で、あなたが笑って、私の手を引いて、いろいろなところに行って、いろんな話をして…
吐き気が込み上げる。
後悔が喉元までせり上がってくる。
あの頃に戻りたい。
私はなんて事をしてしまったのだろう私は取り返しのつかない事をやっぱり私はダメなのだあなたと一緒に過ごせる出来た人間ではなかった私はあなたに会ってはいけなかった
あなたは私だけには会ってはいけなかった私だけには慈悲なんてかけたらいけなかったんだ!
なんで、なんで私だけが
なんで、あなたが
あなたはもう居ない。
もう会えない。
私が、私が全てめちゃくちゃにしたんだ。
あなたは…あなたは私が…
私が……
…あなたは、
あなたは何処へ行ってしまった。
手に嫌な感触がまだ残っている。
日に当たるとあなたを思い出す。
最期に見たあなたが見開いた眼を。
あなたの怯えの滲んだ弱々しい身体を。
あなたはもう居ない。
何処かに行ってしまったんだ。きっとそう。
私のせいで。
私が握った刃物のせいで。
蝉がうるさく鳴いている。
夏も盛りの日差しが、私を照らす。
吐き気が込み上げる。
ごめんなさい…
目の縁を、生暖かい水滴が流れ落ちていった。
鮮血の香り。
甘酸っぱくて優しい腕の柔らかさ。
伸ばした指の間に残った、長く黒い髪。
上で交わされる、異様に声を顰めたやりとり。
遠い、遠い日の記憶。
まだ私が人でなかった時の。
遠い日の記憶。
潮のように眠気が引いていく。
静かに目を開けて、
まただ。またあの遠い日の夢。
しっかりしなくちゃ。
私には私の仕事がある。
着慣れたスーツに腕を通す。
何度も羽織ったジャケットは、動きやすいスーツ以上にまるで自分の身体の一部のように馴染む。
今日の仕事は、この辺りの組の諜報。
タチの悪い反社会勢力と名高い組だ。
タチの悪い、とはつまり、警察や政府の弱みや内部情報を手に入れ、悪用すると脅す力を持った、タチの悪い奴等のことだ。
奴等の握っている情報と情報を仕入れた情報源を探れ!というのが、今回、生まれながらの無戸籍諜報員である私に課された仕事だ。
ネクタイを締め、変装用具を纏める。
靴と暗器の調子を確かめて、スパイ用具を仕舞い込む。
私は物心ついた時から、国立極秘のこの施設で、戸籍の無い諜報員候補として育った。
猫の子のように人通りの多い場所へ捨てられ、コインロッカーに押し込められた私を拾ったのが、なんの因果かこの施設の人間だったのだ。
施設で教育を受け、訓練を受け、親ナシの私は、普通の子どもよりもずっと恵まれた環境で、養育された。
初めて仕事が回って来たのは12歳の時。
諜報に入る大人の諜報員の補助という名目で、親子として潜入調査をしたのだった。
施設はいつでも私に優しかった。
施設はいつでも私を尊重してくれた。
私は施設に恩がある。
だから、どんな仕事でもこなしてきた。
施設に拾ってもらった命と、いただいた知識と技術を用いて。
もちろん、この施設に来る前_普通の世界にいた時のことなど覚えていない。
覚えていないはずなのだが…
眠っていると、時折、遠い日の記憶が、夢のように脳の中を掠める。
どういうわけか、コインロッカーの苦しさでも、子猫のように捨てられた時の絶望でもなく。
産まれ落ちた時の、妙に凪いだ、甘い記憶が。
一緒に転がり出た、鮮血の香り。
甘酸っぱくて優しい、実母の腕の柔らかさ。
原初反応で握った指の中に残った、実母の黒い髪。
望まない子の誕生に戸惑い、周囲の目に触れぬように声を顰めて言い争う、大人たちの声。
空気の味。
なぜか甘く安らぐような、空気の味。
私が猫の子でも人でもなく、ただの厄介者だった、けれど初めて世界を見たあの日。
遠い、遠い、あの日の記憶。
懐かしくて、遠くて、なぜか安らぐその記憶が、
今も、私の海馬の隅に陣取っている。
息と一緒にその甘い雰囲気を吐き出す。
さて、仕事の時間だ。
産みの親よりも育ての親。
育ての親への恩返しの時間だ。
私は靴を履き、ドアノブに手をかける。
朝日がカーテンの隙間から、わずかに漏れ出ていた。