飛び起きる。
汗びっしょりで、貼り付いたシーツを押し除ける。
窓越しに、海の渦巻く音が響く。
バンッ!
窓の外から、掌を押し付ける音が聞こえる。
ぼんやりと壁のシミを眺める。
唸るような海の音が、窓越しに響く。
悪夢だ。
悪夢だった。
わけもなく苦しくて、息ができなくて、空が見えなくて
泡が上へ上へ消えていて…
底から、地響きのような何かが呼んでいた。
奥から、湿った白い腕が足首を掴んでいた。
悪夢だ。
汗は止まらない。
微かに体が震えている。
海の渦巻く音が、窓越しに響く。
バンッ!
バンッバンッ!
窓の外から、掌を押し付ける音が聞こえる。
枕元に置いた古本の、皮の表紙が擦り切れている。
ここで立ち往生することになって、何日が経っただろうか。
1日にも満たない気もするし、何十年も経った気もする。
バンッ!
窓の外から、掌を押し付ける音が聞こえる。
窓越しに、海の渦巻く音が響く。
悪夢だ。
海藻が足に張り付く感覚。
ずっしりと浮き上がらない身体。
水の重みに痛む肺。
そこにいる彼女も、そんな感覚だったのだろうか。
波が部屋を揺らす。
海が渦巻く音が聞こえる。
バンッ!
窓越しに掌を押し付ける音が響く。
彼女が海に落ちたのは、この海域に入ってからすぐのことだった。
トロール網を引き上げていた彼女は、風で大きく揺れた舟のデッキから投げ出された。
釣果や釣具もろとも彼女は振り落とされ、舟の中に響き渡るような叫び声をあげて、この部屋の窓の外へ落下していった。
どうしてこんなところへ迷い込んでしまったのだろう。
彼女が海へ落ちていくその時、私はそんなことを考えた。
私たちは、ただ、あの陰気で小さな港町に雇われた、しがない漁師だったのに。
そんな考えから気がついた時には、窓越しに見えるのは、渦巻く海と波だけになっていた。
私は、ぼんやりと壁のシミを数えて、ゆっくりと視線を滑らす。
錆びついたリールのように、鈍くのろのろと首を動かす。
窓の方に。
窓越しに見えるのは、彼女の顔。
恐怖と海藻の張り付いた青白い顔。
窓越しに見えるのは、幻覚の怪物。
苦しそうに喘ぐ、海の哺乳類の顔。
飛び出た目玉をぎょろぎょろと蠢かす、生気のない魚の顔。
海の渦巻く音が、窓越しに響く。
いつまでも。
いつまでも。
キジバトが翼を鳴らして飛んでゆく。
眼下の街並みは、朝の日差しと共に、忙しく、長閑に目覚め始めた。
穏やかな一抹の朝風が、ゆっくりと街の家々の隙間を吹き抜ける。
城壁のバルコニーの手すりに、朝露が光っている。
定刻を告げる教会の鐘の音が、穏やかな朝の中に響き渡る。
朝の祈念の刻を告げる音だ。
修道士たちの朝の祈念と一日の始まりを告げる音であり、そのまま労働民たちの一日の始まりの刻の音でもある。
私は朝の王国を眺めながら、小さく伸びをする。
先程の鐘の音で、宮廷人たちも目覚めたことだろう。
私たちにずっと貼り付いて世話を行う、侍女たちも、流石に今から準備があるだろう。
まだ一人で過ごす時間がある。
次の鐘で、侍女たちがやってくるだろう。
その後、貴族や官僚人が出仕して、朝の御前会議をして、今日は、今月付で城に上がる侍女の臣従儀礼があって…。
これからの予定を脳裏に描くだけで思わずため息が漏れる。
バルコニーのテーブルに置いておいたハンカチを取る。
一週間ほど前に、元騎士団長の戦大臣からお願いされてたハンカチの刺繍。
官司任命と出仕の記念品として、ぜひ私に刺繍をいただいて奥様にプレゼントしたい、と頼まれたのだ。
ほんのり桃色のリネンのハンカチは、すっきりと上品で、伯爵家出の奥様に、よくお似合いだ。
その薄桃色に映えるよう、赤い刺繍を入れていた。
完成間近まで縫い進めているので、この時間に仕上げてしまおう。
赤い糸を通して玉結ぶ。
この王国に嫁いで、もう一年が経つ。
暮らしぶりは、まあ、そこそこだ。
ご飯の美味しさや生活水準は、さして変わらない。
大変なのは業務だ。
貴族の娘と国王夫人では、仕事の量が桁違いだ。
宮廷人や城の雑務の指示、官司とその夫人家族との社交、外交相の労い、後継を成す準備に、出資や申立ての対応、労働民への労い…
さらに、夫_国王の歳が若くないせいもあり、新興の事業や法令改正の相談は、若く提案しやすいこちらの耳に入る。
国王は進んだ男女観の持ち主であり、私が官司や国民から、いろいろな相談事されることを黙認している。
そして、夜の寝室で、こっそりと御助言をなさる。
「気を引き締めよ。贔屓は権力の均衡崩壊に、権力の均衡の崩壊は我々支配者の死に繋がるでな」
「朕と其方は、平和を手にしたが、平和の光も影を写すでな、平和の維持とは難しきものよ」
「できれば朕は、其方と生涯を全うしたいのでな、くれぐれも頼むぞ」
そして、私と王は、疲れの滲む顔を見合わせるのだ。
赤い糸に導かれるように、戦の時勢の中で出会って、ここまで走ってきた。
先の大戦で、国王のさっぱりとした気質に惚れた私は、共に戦場を駆け、敵を退け、平和を掴んで、ここまでやってきた。
運命の針に導かれ、針に通る赤い糸に引かれるように、運良く、逞しく、なんとかこの地位を掴み取ったものだが……
世の女性たちは高貴な身に焦がれるという。
存外、楽でも気楽でもないわよ、と助言したいものである。
小さい頃読んでいたお伽話は、運良く王子様と婚約したところで皆話が閉じる。
その後の彼女たちは、いったい幸せだったのだろうか。
彼女らの何人が、平和な治世を末長く治められたのであろうか。
赤い糸に結ばれた相手と、このような刺激的で慌ただしい日々を、助け合いながら生きていくのは、なんだかんだ幸せなことであろう。
実際、心の内の裡から、私は幸せだ。
だが、その幸せは針の上の糸の如く、繊細で細やかな日常であり…
毎日続けば、朝がちと憂鬱にもなる。
今朝のように。
教会の鐘が鳴った。
そろそろ侍女が、今日の衣装と予定表を手に部屋へ来るだろう。
私は赤い刺繍糸を玉留めて、立ち上がる。
侍女を迎える準備をしなくては。
ガラガラと、荷車の音が賑やかだ。
街はすっかり目を覚ました。
これから、この国の、繊細な平和の一日が始まる。
私は朝の城下街に背を向け、城内へ向かう。
私たちの赤い糸の如き現実が待つ、華やかで儚い城の中へ。
キジバトの柔らかくこもった鳴き声が、私の背を押していた。
ビルの間に、狭苦しそうに入道雲が肩をすくめている。
ただ汗が、淡々と私の首筋を流れていく。
ヒートアイランド現象か、この街は年々暑くなるような気がする。
蝉の声より、人の話し声の方がよく聞こえる。
こんな場所では、夏の熱帯気圧を積み重ねた、堂々たる夏の風物詩の入道雲も、肩身が狭いのだろう。
今日も退屈な一日だった。
眠い目を擦る。
昨夜も、世間一般から見れば、刺激的で破滅的なことをしたはずなのに。
いざ罪を犯そうと入った時に、ただ部屋が異常に蒸し暑かったことしか感じなかった。
室外機の熱風が鬱陶しい。
罪悪感を感じない自分の心と、纏わりつくしつこい湿った空気に、若干の苛立ちが募る。
捕まるかもしれないのよ。
私は、冷え切った自分の心と脳に語りかける。
捕まったら、今まで築いてきた地位も努力も、それこそ雲のように、霧散してあっという間に消えてしまうのよ。
しかし、私の脳は相変わらず、ドライアイスが当てられているかのように冷めきって、心は雪の中の氷像のように、1ミリも動かなかった。
私は罪悪感を感じたい。
自分が他の人とは違うと気づいたのは、小学校に入ってからのことだった。
カワイソウ
ゴメンナサイ
ヒドイ
モウシワケナイ
アワレミ
ゼンアク
コウカイ
カナシイ
喧嘩や揉め事があるたび、道徳の授業があるたび、先生がホームルームでお説教をするたび、飛び交うその言葉は、実感も意味も理解できず、ただの記号にしか聞こえなかった。
どうやら、それらを理解できないことは、異常なことらしい。
ぽかんとした私を先生も親も叱った。
相談したこともあった。
友達、カウンセラー、親戚…。
でもどんな人も、困ったように眉根を寄せて、「もっと人の立場に立ってみると良い」とか、「道徳を頑張ろう」とか、「けしからん!」とか、「いずれ分かるようになるよ、周りの人を大切に、愛を持ちなさい」とか、訳の分からないことを言った。
そして、それが分からないということは、どうやら人としておかしいらしい。
自分の知らぬ間に、この問題は急速に肥大化していった。いつの間にか現れて、下からむくむくと肥大化する入道雲のように。
これが理由で友達が減り、これが理由で同級生やその保護者らから嫌がらせを受け、これが理由で先生には目をつけられた。
いつしか、私は罪悪感を感じない自分の心を隠すようになった。
人というのは、他の人の思考を覗けない。
馬鹿正直に自分の感じていることを言わなければ、態度でどうとでも嘘がつける。
他の人が神妙な顔をしている時は、合わせて神妙な顔をしていれば、浮かずに済む。
道徳の教科書を予め読んでおき、この場合に先生ウケをする回答パターンを予測しておけば、成績は問題ない。
そうやって嘘をつき始めた私を見て、周りの人たちは安心したように、満足そうに頷いた。
「ほら、分かったろう?」
「こういうのは自然に分かるようになるものなんだ。」
私の心の中はなんにも変わっていないのに、現金な人たちだ。
そういうわけで、今でも私は罪悪感を掴めずにいる。
あの時、私は密かに自分に誓った。
大人になったら、いろんなことを試して、人なら誰でも持つというあの噂の、憐憫と罪悪感という感情を探すんだ。
そして、それを見つけて、立派な大人になってみんなの仲間入りをするんだ!と。
それを見つけるためならなんだってするんだ!と。
しかし、まだ分かりそうにない。
私の罪悪感は、まるで雲のように実態なく、私の手の中をすり抜けて行く。
ある人の大切な人を傷つけ、最悪の裏切り行為をしてみても。
仲が良かった友人を、ボロ切れのように扱ってみても。
何も知らない無垢な子どもを躓かせてみても。
誰かに憎まれてみても。
ハンドバックに、べったりと血の付いた手袋を押し込んで昼の街を歩いてみても。
入道雲のように、只々、分からないというモヤモヤが、蓄積していくだけ。
もし、似たような人間のいる世界_いや、いっそ獣として生まれたら、私もこんな風に自分の感情を肩をすくめて隠しながら、生きていかなくても良かったのだろうか。
私は目の前の入道雲に心底、同情する。
私たち、もう少し違うところに、違う形で生まれれば良かったのにね。
入道雲が肩をすくめている。
人工物の中で、狭苦しそうに。
山の空気が、肌に張り付く。
暑さの滲む星空の中を、ひたすら登る。
不揃いなブルーハワイのカキ氷のかけらを噛み砕く。
飛んでくる藪蚊を払う。
足元で落ち葉がかさりと音を立てる。
山道には、夏の盛りでも葉が散っているものらしい。
でこぼこの坂道を踏み締める。
黒い闇が目前に続いている。
藪蚊が羽音を立てる。
もうすぐだ。
もうすぐ山頂だ。
もうあとちょっと登れば、視界が開ける。
私は足を引き摺りながら、山道を登る。
道は細い。
人はいない。
暗い闇が沈黙している。
手に持った安物のカップがくしゃりと音を立てる。
溶けた氷が、毒々しいほど青々とした水色の液として、沈澱している。
夏は、生命力の塊だ。
瑞々しい夏野菜。勢い益々に鳴き続ける蝉。ブンブンと飛び回る羽虫。海へ山へと駆けてゆく人たち。
同時に、カラカラの死の季節だ。
暑さに項垂れる萎んだ葉。手のひらで潰れる蚊。アスファルトに干からびたミミズ…。
いつの間にか、星空が広がっている。
登りきった。
眼前に、麓の町。赤提灯にほんのり照らされた、祭り真っ最中の、私たちの町が見える。
足首がジクリと痛む。
もう治らない足首が。
足首に異変を感じたのは二週間前だった。
二週間後に、最後の大会が終わるはずだった。
今日は引退前最後の大会のはずだった。
私がスポーツをこんなに楽しめるのは、人生の後にも先にも今年で最後のはずだった。
だから華々しく最後を飾るつもりだった。
そのはずなのに、今私は、町の裏山にいる。
家に残してきた、いつまで経っても言葉が出ない弟は、今頃泣いているだろうか。
計画性も堪え性もない母は今頃、いつものように町の男を飛び歩いているのだろうか。
練習よりも、シューズを隠すことの方が上手だったチームメイトたちは、今頃あの明かりの中で笑っているのだろうか。
リーー
昼間の騒がしさとは似てもつかない、寂しげな虫の鳴き声が響いた。
私は足を引き摺りながら、切り立った地面の縁に寄る。
誰も覚えていないほどの大昔の落石の跡。
その落石は、旱の時にやってきて、それが古代の人々には神様が遣わしたものに見えたらしい。
石は祀られ、この町の神になった。
今日、夏祭りに出ている神様が宿ったという石。
それがここから落ちたのだ。
下を覗く。
暗い暗い闇が大きな口を開けていた。
私は持ってきた封筒を置く。
何度も使い古されて、ボロボロに角の擦り切れた銀行の封筒っていうのが、惨めさを加速させる。
重しにかき氷のカップを置く。
水色の液体がちゃぷんと揺れた。
足を引き摺って、地面の端に立つ。
空に散らばった無数の星が、瞬く。
ああ、弟も連れてきてやればよかった。
今更、そんなことを思った。
歓声が地響きのように轟く。
一陣の熱風が、乾いた軽い砂を攫ってゆく。
目の前の蛇頭が、シュウウ…と煙のような唸りをあげた。周りに放された鼠頭の小人たちが、聞くに耐えない叫び声のような威嚇音を吐き捨て、こちらへ飛びかかってくる。
むき身の剣を振り抜き、鼠頭を振り飛ばす。
連戦で毀れた刃は、ゴッと鈍い音を立てて小人の体を宙に放り投げた。
ギッ…と呻いた奴らしかし、背中を叩きつけざまに起き上がり、まだしゃかしゃかとこちらへ向かってくる。
轟くような人の声が、こちらに降ってくる。
異様な熱狂と歓声に造られた蜃気楼の奥、蛇頭の背の向こうに、目隠しをされた彼女が見えた。
華奢な手足に巻き付いた鎖が重たそうに垂れている。
その瞳は見えなくとも、力なく体を脱力させた彼女の細身の体に、絶望と疲れが滲んでいた。
彼女の髪の毛たちが鎌首をもたげ、不安そうにうねっている。
奴らがこちらの間合いまで踏み込んでくる。
足を引いて飛び摩り、こちらにいち早く反応して、頭一つ抜けて歯をかち鳴らした鼠頭の鼻先に剣を突き立て、素早く引き抜いた。
奴の尖った鼻先が、パッと鮮やかに裂ける。
剣先から赤い液が滴って、点々と間合いを染める。
半刻ほどの沈黙を、ギャッという断末魔が引き裂いた。
つんのめった二番手の首に、刃を差し込み、振り抜く。
またも赤い汁が鮮やかに飛び、乾いた砂が湿る。
三番手以降の鼠頭は、砂を掻きながら、後ずさる。
うおおお!
轟音のような歓声が降る。
渦巻く大嵐のような熱狂は、人為的に造られたこの戦場を取り囲む外部の傍観者たちのもので。
戦争の中核である俺たちの間には、ある種の霧雨のような冷たい緊張感が張り詰めていた。
蛇頭が歓声に向かって牙を剥く。
鼠頭たちは、五月蝿そうに頭を振り、赤く充血した目を忙しなく走らせる。
ああ
俺は、剣を握りしめた爪の痛みを感じながら、肩に走る古傷の痛みを感じながら、蛇頭の奥の少女に思いを馳せずにはいられなかった。
彼女はどれだけ不安で心細いだろうか。
君はここじゃないどこかで、死ぬべき生物なのに。
怯みながらも掛けてきた鼠頭の体躯を切り捨てて、奥を見据える。
蛇頭が、縦に細い瞳を血走らせ、シュウウッと唸りをあげた。
…あれはダメだろう。せめて、彼女だけは。
彼女だけは、ここではないどこかに。
ここではないどこかへ。
鎧が初めて重たく感じる。
剣先を滑らせて、背後に縋り付く鼠頭を放り捨てる。
俺はコロッセオの猛者だ。もう数えるのも面倒なほど死線を勝ち抜いて、闘うことにかけては無敵の誰もが羨む男だ。
だが、ここから逃げるとなると、話は別だ。
果たして、上手くいくだろうか。
だが、上手くやらなくては。昨晩、檻の中で火に照らされた、彼女の瞳と長い睫毛を見て決めたのだ。
ここではないどこかへ、行く時だ。
叫び声はまだ止まない。
鼠頭の怯えの断末魔と、蛇頭の混乱した悲鳴と、観客の熱狂した歓声が混じり合って、のしかかる。
温度差で揺らぐ視界の奥。
彼女の隠された瞳が、真っ直ぐこちらを見据えている気がする。
俺は今までのどんな時よりも大きく、確信した一歩を踏み出した。