電気をつける。
ちっぽけな部屋を照らすちっぽけな照明が、いつものようにジジッと音を立てて点灯する。
なんとなくテレビをつけて、今日の夕飯をテーブルに並べる。
国民用ラジオが静かに稼働を始める。
ビニール袋から箸を取り出して、手を合わす。
味気ない夕飯をもそもそと書き込みながら、今日もチカチカと光を放つテレビと、やかましく話し続けるラジオに程々の意識を傾ける。
暗幕で光を抑えたさもしい照明。
勇ましいことをいろいろと叫ぶ国民用ラジオ。
派手な演出と射幸感を煽るテレビ番組。
テーブルと、椅子と、毛羽立った分厚いカーテンのみの一部屋。
端にこっそりと、硬いマットレスを乗せた小さなベッドが横たわっている。
夕飯を食べ終えると、申し訳程度についている洗面台に向かい、歯を磨く。
ラジオからは、ちょうど、配給券の得点相場についてのニュースが流れ始めたところだ。
テレビは、戦果報告をやたら派手な演出で祝っている。
それを耳に挟みながら、国民用端末を立ち上げて中身を覗きながら、歯を磨く。
いつもの日常だ。
深く考えてはいけない。
ここでは深く考えてはいけないのだ。
もう何年前のことかも思い出せない、ある日。
この国に、未確認生命体が攻めてきた。
奴らは、電波を操り、未知のテクノロジーを使って、人間を侵略しようとした、らしい。
…公営の報告によれば。
そしてそれを阻止するため、政府は緊急法案を作り出した。
公営のもの以外から情報を得ることは、未確認生命体の侵略の被害に遭うとされ、禁止された。
未確認生命体が、人間に扮して侵略を進めるとされ、全ての行動は、国民用端末を利用して監視されることとなった。
未確認生命体の国民をターゲットにした扇動を防ぐため、個人的に読書や調査によって情報を収集すること、個人が深く思考するということを禁止された。
夜は未確認生命体に襲われないように、外出することが禁止された。
住む場所は政府によって各人に割り当てられ、本棚は全て燃やされた。
現に、閉まっているカーテンの隙間から、一つ目の何かが歩んでいるのがたまに見える。
未確認生命体はいるのだ。
…それが襲ってくる気配は、今のところない。
が、政府は危険視している。接触してはいけない。
これが日常。日常なのだ。
いつから続いているかは分からない。
いつまで続くかも分からない。
でも、これが既にこの世界の日常だ。
…深く考えることは罪なのだ。
私は、テレビを消す。
ラジオを消す。
照明を消す。
電気は繋げっぱなしにしておく。監視カメラが動かなくなるから。
硬いマットレスに横になり、目覚まし時計をかけて目を瞑る。
深く考えてはいけない。
いつも通り日常を過ごさねば。
頭で何度もそう唱える。
心の奥から湧き上がる危険思想を噛み殺す。
政府は独裁をしているのではないか
未確認生命体は本当に敵なのか
そんなことは考えてはいけない。
思考は、日常に必要ない。
目を瞑る。
毛布を被る。
ジィーッ
電気の駆動音が、じっと鳴っている。
深く息をすい、目を閉じる。
危険思想も意識もゆっくりと、睡魔に呑み込まれていった。
赤シート越しに空を見上げる。
好きな色は青色だった。
「やっぱり。似合ってる!」そう言って、眩しくてあたたかい金色の目を輝かせて、笑ってくれたから。
「夜空みたいに綺麗な深い紫の目だもん、ぜったい青似合うと思ったんだよね」
色違いでお揃いのペンジュラムを買った。
一緒にお呪いを試した。
こっそり灯台の書庫に忍び込んだ。
思えば、その時は、ぽつんとそこだけ塗られたぬり絵みたいに、私たちの日常には色があった。
「空と海って、青いんだって」
空に手を翳して、眩しそうに目を細めた横顔を、私は瞳を輝かせて聞いた。
「朝は青くて、夕方には赤く焼けて、夜には深い紫に、たくさん星が出るんだって。写真を見せてくれたんだよ、内緒で、パパがね」
私たちは、そのアルバムに夢中になった。
空はいろんな色で、海もいろんな色をしている。
夢みたいだった。
中でも青色の空と海は美しかった。
とても眩しかった。
当たる光が、隣でゆっくりと瞬く瞳と同じで、眩しくてあたたかい気がして。
あの日、私たちは喧嘩した。
もう原因は憶えていない、思い出せない。
頭に分厚い灰色の雲が立ち込めたみたいに。
私は走って、走って、何故だか泣きながら海に向かった。
魚の生臭い匂いとカラスの鳴き声が立ち込めているはずの、あの灰色の海に。
奇跡の日だった。
あの日、雲と霧は晴れて。
真っ赤に燃える赤い丸が、海の向こうに見えて。
橙色に空が染まって。
眩しいのにあたたかくて。
見せたくて走った。会いたくて走った。
仲直りしたかった。
それがその日の記憶の最後。
二度と会えなかった。
私たちはあの日の夕焼けを、並んで見ることはできなかった。
次の日の空は元の通り、分厚い灰色の雲に覆われて、海は冷たく灰色にうねりをあげていた。
霧が空を取り巻いて、潮の匂いが目に染みる。
もう変わらなかった。陰鬱に沈み、色があるはずなのにモノクロで、賑やかなはずなのに静かで。
ここの生活は変わらずに。
金色の、眩しくてあたたかい、一対の瞳だけが失われて。
あのあたたかい海が、私の網膜を焼いた。
金色の、眩しくてあたたかい瞳が、目の奥をちらついた。
赤く橙に染まった空が、私の海馬を熱した。
それだけが、残ったものだった。
私の好きな色は、青色だった。
青色だった。
赤シートを空にかざす。
鈍い海風が、低く唸る波の音を響かせていた。
「私たち、ずっと親友だよ!」
パステルカラフルなゾウのぬいぐるみの横で、私たちは指切りした。
つみきで作った町。
放り投げたクッションと空になったおもちゃ箱。
親友の証に2人でつけた、お揃いのシュシュ。
座って話し続けた、角の丸いラグ。
目を瞑ると、そんなことばかり思い浮かぶ。
夢が剥がれて、勉強一色になってしまった机が、みすぼらしく目の前にある。
一緒に描いた絵は、まとめて引き出しの中に仕舞ってしまった。
引き出しの奥にしまいこまれていた秘密の宝箱を開く。
中身は見なくても知っている。
あなたと2人で一緒に集めた数々の宝物。
砂場に紛れていた貝殻、笠を被ったピカピカのドングリ、ラムネの瓶から引き上げた透明なビー玉、まんまるで真っ白い滑らかな小石…
あなたの記憶。あなたとの想い出。
思い出のものも随分減ってしまった。
私が大きくなったから。
あの頃の私は、1人で眠るのが怖かった。
あなたがいたから、私はこの部屋で朝を迎えられるようになった。
あの頃の私は、1人の時間を持て余した。
あなたがいたから、私はずっと楽しく毎日を過ごすことができた。
あの頃の私も寂しくて、理解者なんていなくて、絶望していた。
あなたがいたから、私は寂しさに押し潰されずにすんだ。
あなたがいたから…
私は大丈夫なのだろうか。あなたがいなくて。
小さい頃にあなたと2人で使ったスケッチブック。
幼い頃にお母さんに渡された、幼児用ノート。
あなたとお揃いの証につけたシュシュ。
あなたの痕跡。あなたがいた証拠。
これを捨てろ、と周りの人たちは言う。
大人になるために捨てなさい、と言う。
嫌だ、嫌だった。
こんなことをしなきゃいけないなら、私は大人になりたくない。
私はずっと子どものままで、ずっとあなたと親友でいたい。
…でもあなたは、もう、私の前に現れてくれない。
なんで?私が大きくなってしまったから?
私が悩んでいる時には、いつも答えてくれたあなたはもう出てきてくれない。
どこへ行ったの?
もう消えてしまったの?
私の、私だけの親友。
いつも私と一緒に居てくれる、空想の中のお友達。
あなたがいたから、私はここまで大きくなれたのに。
あなたには、もう会えないの?
私はぼんやり机の上を眺める。
可燃ゴミの袋の口を掴んだまま、立ち尽くす。
「ねえ、どうすればいいのかな」
私の声は、虚しくゴミ袋に吸い込まれていった。
「…なあ、傘のる?入ってかん?」
ポロッとこぼれてしまった。
素通りしようかと思ってたのに。
疲れて眠ってしまったような幼い子をおぶったあの子が振り返った。
大きな目をさらに大きく見開いて、ポカンと口を開けて、こちらを見る。
その表情はどうも、いつもに増して、間が抜けているようだった。
暫しの沈黙の後、
「…なんしとうの?こんな時間に」
あの子は、こちらの質問は黙殺して、眉を顰めながら聞いた。
「…御使いの帰りやけど」
思わず、僕の返答もつっけんどんになった。
「…さっと帰ったらええやん。なんで私に声かける必要があるん?」
あの子の返答は無愛想だった。
「哀れみやったらもう充分やし」
「…さよか、ならもうええわ」
雨に濡れていないのに冷や水をかけられた気がして、僕はそう答えて傘を構えた。
あの子は何も答えないで、背を向けた。
僕は、負け犬の遠吠えや、カッコ悪う、と内心思いながらも、その背に言葉を投げつけてやった。
「今日は晩ずっと雨や言うてるのに、いつ帰るつもりなんやろな!このあと濡れて帰るんか?可哀想気取りで?そっちの方が哀れやろ!」
だいたいな、と僕はまだ固まったようなあの子の背に投げつける。
「こんな雨ん中帰ったら、風邪ひくやろが!お前もおぶうてる子も!お前が学校休んだら面白ないやないか!」
勝手にしたらええわ!そう言い捨てて傘を開こうとした僕の腕を、あの子が掴んだ。
その手先のひんやりとした冷たさに怯んだ。
いったいいつからここで雨宿りしていたのだろう…?
「…ごめん、生意気言うた。……入れて」
蚊の鳴くような声で、俯いたその顔は言った。
僕は、戸惑いながら傘を広げた。
黙って二人並んで歩いた。
今日、間違えて父さんの傘を持って来てよかったと思った。
気まずそうに拳ひとつ分の間を開けて歩くあの子が濡れていなかったから。
傘に当たる雨音だけが、ボタボタと傘の中を響いた。
「…ごめん。今日悪いことばっかりやって、今もあそこに置いてかれてて、気が立ってて、ごめん」
不意に雨音にあの子の声が混ざった。
あの子は勉強ができないトロい方の生徒だった。
だから理論だってないその謝り方はいつも教室で見る素のあの子で、どうしようもなく切なかった。
「…僕もごめん。嫌なこと言うたよな」
だから、僕もポツンと、そう謝った。
「…家、まだあんまりなんやったら何処か寄ろ」
謝ってからの次の言葉は、思わず出た。
「……ええの?ありがと」
全く晴れやかな声とは言えなかったが、さっきよりは少し明るいような、弱さを孕んでいるような、そんな声だった。
「うん、あったかいとこ寄ろ」
傘がボタボタと音を立てる。
傘の骨の先から、雨粒がひっきりなしに落ちている。
雨が、僕らの頭の上をずっと降り続いていた。
壁抜けバグって危ないんだなあ…。
落下の浮遊感を感じながら、しみじみ思った。
壁バグを試みて、足下の床からすり抜けて、無限に落下を始めてしばらく経つ。
正直、どれくらい経ったのかは分かってない。
僕の横では、一緒にすり抜けた猫が、綺麗に着地できるように地面に備えて、くるくると回転し続けている。
目の前も、足元も、上も、下も、右も、左も。
すっかり真っ黒な漆黒に覆われている。
落ちる時は上にかろうじて見えていた床と地面も、今や見る影もない。
落ちる
落ちる
落ちる
落下のスピードは全く衰えない。
浮遊感と重力がふわふわと気持ち良い。
猫の高速回転も、最初は可哀想な気がしたが、ここまで落下し続けていると、コミカルで面白い。
鼓膜にはずっとノイズが響き続けている。
どこかで、ゲーミングに輝く長方形などとすれ違った気もするが、もう随分前の話の気がする。
どこまで続いてるんだろう…
そう思いながら下を覗く。
まだ地面がある気配はない。
地殻まで行くんだろうか?
でもここは漆黒で、壁も遮りも全くないような気がする。
それにしても。僕は思う。
なにを失敗したのかな…僕
僕は超心理学者だ。
幽体離脱とそれを起こす患者たちの心理について研究していて、つい最近_落下し始める時を基準として、その時からのついさっき_に、幽体を再現する試作機を完成させて、試していたのだ。
幽体というものの特徴の一つに、壁をもすり抜けられるというものがある。
そこで僕は、まず幽体としての特徴と条件である「壁をすり抜けられる」という状況を作ってみようと考えた。
それから、幽体の特徴を一つ一つ再現していき、研究を深めようと思っていたのだ。
壁をすり抜けるという原理を再現するため、僕が目をつけたのが、壁抜けバグだった。
つまり、自機(自己の肉体)の当たり判定をなくして、擬似的に壁を抜けようと考えたのだ。
…その結果がこの落下である。
いやあ、そんな都合良くはいかなかったか…。ゲーム内の原理を使ったのが、よくなかったか?
地面が見えないのをいいことに、僕は考え込む。
横で愛猫がくるくるくるくると回り続けている。
まあ、ゆっくり考えよう。時間は結構たくさんありそうだし。
僕は漆黒の中で腕を組み、考えに耽ることにした。