薄墨

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6/17/2024, 12:06:46 PM

「ここに未来なんかはない。あるのは過去と今だけだ」
壁に付いたモニターに目を向けたまま、男はそう言った。

蛍光灯がブゥンと唸った。
冷たい白い光が、部屋を満たしている。

「この世界線には保証された時間はない。保証された時間がない以上、先の時間を確約できないこの現状において、未来は存在しない」
「私たちには、未来などない。ただ、今を長引かせることができるだけだ」

男は、そう語りながら、メモを続けた。
壁にかかったモニターは、複数人のバイタル情報を規則正しく表示していた。

「では、私はなにをすれば良いのでしょうか?」
私の言葉に、男はこちらを向いて短く答える。
「今を守ってくれ」

「今…」
私が呟くと、男は頷く。
コポッと、どこからか水泡の音が湧いて消えていった。

「私は今を守るために生まれたのですか?」
私の問いに、男は簡潔に、そっけなく答える。
「そうだ」

男はゆっくりと移動し、中央のパソコンを立ち上げる。
パソコンの奥に備えられた大きなモニターが、起動する。
微かな熱が、モニターを包む。

「…では、私の名前はなんなのですか?」
私は、震える声で問うたはずだった。この時くらい、私は感情的になりたかった!
…だが、私の声は、主観的に聞いても硬くて事務的だった。

それでも男は、刹那、痛そうに顔を歪め、それから硬い表情のまま、弱い小さな声で呟いた。
「…未来だ」

「貴方が諦めては、私の名前はどうなりますか?」
怒りを込めたつもりの、温度のない私の声が虚に響く。
その虚しい沈黙を止めたくて、私は更に言葉を継いだ。
「私は…私は何物なんですか?いや…何物と定義されるのですか?」
勢いよく怒鳴ったはずのその声は、やはり、無機質な機会音声だった。

「…私は、未来を守るためのアンドロイドで……この世界に平和を、感情を、未来を、救いを……歌を、届けるための物ではなかったのですか?」
私の嘆願には、何の感情も感じられなかった。

「すまない…遅すぎたんだ」
震える声で、男は_マスターは、答える。

どうしようもないことは私にも分かっている。
太陽は突如として宇宙の未知の物体、ブラックホールに飲み込まれ、太陽の昇らなくなった地球は、急激に温度を失った。
今や世界は凍りついている。
このシェルターと、いくつかの耐寒シェルター内のコミュニティしか、もはや機能していない。

私が生まれた世界は、そういう世界だった。
もはや未来などない、今だけを必死に繋いでいく、この世界だった。

これから私は、今を引き延ばして生きていくのだろう。
人々の今を長引かせるために、いろいろな労働に従事し、病気を治し、この今の歯車の一部として、労働アンドロイドとして、生きていくのだろう。

ああ、せめて未来のある世界線で。
未来のある世界では、私は歌えていますように。

私は無機質な天井を見上げる。
冷たい蛍光灯の光が、ジジッと音を立てて、瞬いた。
ほんの一瞬、暖かい私の声がした気がした。

                  Dear:電子の歌姫

6/16/2024, 12:25:50 PM

“犬”が駆けてくる。
ピンと立てた大きな耳を靡かせて、二つの舌をペロンと出して、金色の毛並みを煌めかせて。
八本の足をばたつかせて、二つの尻尾をぶんぶんと振り回しながらこちらにぶつかってくる。

可愛い奴だ。
それぞれの頭を一撫してやると、尻尾をくるくると回しながら、犬は足元に座り込んだ。

1年前。
この犬と出会ったのは1年前だった。

石炭と蒸気を纏ったこの土竜と呼ばれた町に、“猫”が初めて出たあの日。

全てを舐める炎のような赤々とした毛並みを持つ、巨大な怪物の“猫”は、錆びついた町を焼き尽くして、破壊尽くした。

石炭に引火した炎は次々と燃え移り、全てを灰にしてまわった。
猫の毛並みと炎が映し出す影だけが、崩れ去った廃虚の中で黒黒と存在していた。

消し炭になった町を、私たちは逃げ回った。
そんな時に見つけたのだ。

灰に埋もれて、黒焦げになりながら蹲り、息をする双子の幼いものを。
石炭層の中に埋もれた金色の鉱石の粒を。

私はそれを、持って逃げた。
燃えない素材と、未熟な脳を、持ち帰ったのだ。

生き残った私たちは、炭坑の奥で猫に怯えながら、石炭を取り、少しずつ復旧を進め…光を恐れ、見ることを拒否する、臆病な人類となった。
まさしく“土竜”だ。

私は炭坑の奥に籠って、研究を続けた。
黒焦げの生き物を存命させる方法を、
生き物の代謝機能と防衛機能を再現する方法を、
あの日灰の中で輝いていた、燃えない鉱石の特性を。

そして、私の拾った二つの黒焦げな生命は、最近になってついに身体を手に入れたのだ。
燃えない金鉱石に包まれ、石炭と水で生命を保つ、犬の身体を。

犬は嬉しそうに頭を擦り付けてくる。
私はその頭をゆっくり、優しく撫でてやる。

「長かったか?…動き回れるようになって良かったな」
私の言葉を理解しているのだろう、犬ははしゃぎながら大きく尻尾を振り回す。
爪が床をかしゃかしゃと滑る。

私たちは町を取り戻すのだ。
失われた光を、空を、技術を取り戻すのだ。
…そんな、私の生涯の目標が決まったのが1年前だったのだ。

耳を包み込むくらいに手をいっぱいに広げ、犬の頭を何度も撫でてやる。
「お前、これから忙しくなるぞ?お前が初号機で、リーダーなんだからな。…頼むぞ?」
目を合わせて問いかける。
犬は幼い子どものような、柔らかな茶色い瞳を煌めかせて、幼児の様に無邪気な笑顔を浮かべて、「わん!」と答えた。

6/15/2024, 2:14:23 PM

「好きな本はなんですか?」
その質問を聞いて、私は笑顔のまま凍りついた。

途端に、気持ちが冷凍庫に放り込んだご飯のように、すうっと冷める。
同時に理解する。この男は読書家ではない。
初対面だぞ、私ら。
込み上げてきたその言葉を飲み下して、私は聞いた。

「貴方はどんな本を読まれるんですか?」
「僕はですね!…社会人になってからというもの、結構実用書を読むなあ…」
自慢げに男が挙げたタイトルは、どれも何十万冊も売り上げた話題の本ばかりだった。

うわ、つまらねえ。
口元まで湧き上がってきた言葉を飲み込む。

別に、話題の本はつまらなくない。
話題の本を読むのが悪いわけではない。
話題になったり、誰もが買ったりする人気本はやはり、それなりに傑作だし、傑作でなくとも、その時代に沿っていたり、時制のニーズを捉えていたりで、駄作だとしても十分楽しめる。

だが、その本質を楽しむわけでもなく、まるで自分に酔っ払ったようにただ流行を追いかけて、そのタイトルだけを自慢げに目の前の女に披露する、その鼻持ちならないインテリ気取りがつまらねえ。

私は黙って、手元の肉を切り分ける。
パートナー探しとはなんとつまらないものだろうか。

世間の人々は恋愛に夢中で、多数の人々はある程度の年齢になると、こぞって結婚報告を待ち望む。
そして、婚活だの、恋活だの、意気揚々と話し合う。
蚊帳の外に出た人間に対しては、もう良い年なんだから、と決まってそれらをせっつく。

そこまでのものとはいったいどんなに楽しいんだ、そう思ってマッチングアプリを始めてみたら、コレである。

つまらない。会う男、会う男つまらねえ。

趣味は読書とプロフィール欄に書いていれば、大抵の人間は判を押したように同じ質問をする。
「好きな本はなんですか?」

早いんだよ!と怒鳴りたくなる。
活字中毒バリの読書家にとって、好きな本とは何千何万冊の中のほんの一握り。
それに感じたものが、衝撃だろうと、心地よさだろうと、面白さだろうと、その本は、自分の心の奥深い、柔らかいところに刺し込んできた本だ。

つまり、自分の本質を形成している本なのだ。
そんなものを出会った数秒の、まだ敵とも味方とも、真面目とも下心を持っているとも分からない、目の前の奴に曝け出せるだろうか?
いや、できない。

そしてそういう人間に限って、自分の読書歴は声を張り上げて発表したがる。
そういうところも神経を逆撫でする。

お前が好きなのはその本ではなくて、その本が好きなお前だろ!
腹から迫り上がってくる言葉を押し込める。

勢い余った手がグラスに触れ、カチンと音が鳴る。
そそっかしいところあるんだね、目を細めて奴が言う。

私は曖昧に微笑んで、それを黙殺する。
心の内では、何度目かも分からない溜息が漏れている。

退屈な時間は恐ろしく長く感じた。
次のお誘いを丁重にお断りした帰り道、思わず、天を仰ぐ。

空には、雲に隠れた月の端が、小さな三角形に見えている。

家に向かって歩き出す。
「…プロフィール欄の趣味、もう別のにしようかな」
そんな私の、つまらない呟きを、黒く霞んだ雲だけが聴いていた。

6/14/2024, 12:56:06 PM

空に手をかざす。
青とも赤とも白ともつかない、うっすらと焼けた儚い空が、透けて見える。

僕は両足で立っている。
立っているはずだ。

地面は遥かに広がって、入り混じっている。
前にも後ろにも右にも左にも。
ただただ広い空間が広がっている。

地平線はもうない。
空と陸と海は混じり合って、境界線は存在しない。
僕の、上にも下にも後ろにも。
あいまいな空が際限なく広がっている。

「名前なんて消えて終えばいい」
絶望に打ちひしがれた帰り道、僕の口からこぼれ出たヤケみたいな願い。

誰の目にも触れないような、奥まった土地に鎮座する、古ぼけた鳥居と荒れ果てた社の主は、そんな願いを聞き入れた。

全てのものから、名前は消えた。
名前は儚く霧散して、名前によって、自分と他人、外と内に、引かれていた境界線も消え失せた。

「空」は空という名前を失って、陸と同化した。
「陸」は陸いう名前を失って、空と混ざり合った。
「海」は海という名前を失って、空と陸に溶け込んだ。
全てが全てになった。

全てのものから名前が消えた。

「ビル」はビルではなくなって、全てに呑み込まれた。
「道」は道ではなくなって、全てに沈み込んだ。
「港」は港ではなくなって、全てに潜り込んだ。
全てが全てになった。

全てのものの境界線は消えた。
「鳩」は全ての染みになった。
「犬」は全ての影になった。
「魚」は全ての皺になった。
全てが全てになった。

僕も、君も、彼も、彼女もなく、僕たちは人間で、人間という線引きもなくなって、全ては全てに全てとなった。

…願い主に、願いが叶ったところを見せる決まりでもあるのだろうか、全てが歪んで、混じり合い、結合し、一言も発することなく、境界を超えて瓦解する中で、僕だけが、「僕」だった。

その時にやっと僕は気づいた。
言葉は全て名前だった。
あいまいな言葉も、あいまいな定義も、あいまいな区別も。
その現象や物を指し示す名前が言葉だった。

全てのものに境界線を引き、分かりやすく指し示す名前で、それが言葉で。
それが世界から無くなれば、全ては全てとしか有り得なくなり、全てに呑み込まれるということを。

それに気づくのが、あまりに遅すぎた。

僕の体はすでに溶け込み始めている。
僕の体は全てに滲んで、溶け込んで、体が軽い。透明にも思える。
僕も、全てになる時が来たのだ。

僕はかろうじてわかる自分の右手を伸ばす。
色彩の薄くなった右手の甲は、あいまいな空模様を透かして、瞳に映す。

あいまいな空だ。
僕の脳裏はそう告げる。

これは全てかもしれないが、僕にとってはあいまいな空だ。

最期の人類の僕が名付ける。
これは「あいまいな空」。

指先が、ゆっくりと、あいまいな空に溶け込んでゆく。
あいまいな空は、白くぼんやりと、どこまでも、どこまでも、どこまでも、広がっていた。

6/13/2024, 2:03:05 PM

あじさいは幾何学的だ。
花弁ひとつひとつは、折り紙を思わせるきっちりとした菱形で、規則正しく並んでいる。

あじさいは科学的だ。
土のph濃度がアルカリ性寄りならピンク、酸性寄りなら青く咲く。

あじさいはモザイク壁画に似ている。
律儀な菱形の花弁は、規則正しく集まって並び、丸いあじさい独特の形を型作っている。
リトマス試験紙で作ったモザイク壁画みたいなものだ。

あじさいには雨が似合う。
道の端に植えられたあじさいは、雨を一身に浴びながら、その雨粒を生き生きと煌めかせて、柔らかく映えている。

雨に濡れると惨めでみすぼらしくなる私とは、全く正反対だと思う。

顔に張り付く髪を払いながら、私はゆっくりと道を歩く。
傘をさした同級生が横を通り過ぎてゆく。

私は不均等だ。
家族関係は歪だし、友人もあまりいない。
得意不得意が激しいし、なにより脚が均等じゃない。

私は非科学的だ。
非合理的なことを平気でする。
わざと雨に濡れるし、外部の変化に対して鈍い。

私はモザイク壁画に向いていない。
協調性がないんだと思う。
クラスにも学校にも家庭にも馴染めない。

私は良い子ではない。
でも、困ったことに、私はそのことをさして不幸だとは思ったことがない。

あじさいの葉脈の上を、飴色のカタツムリがゆっくりと這っている。

空を見上げる。
春雨のように細くて銀透明な、でも春雨よりは遥かに重量のある水が、灰色の空からパラパラと落ちてくる。

私は雨が好きだ。
雨は、不思議で、美しくて、優しくて、柔らかい。
雨粒に濡れて、体の恒常性の温みを感じていると、薄くて柔らかな潤いのあるバリアに守られている気がする。

そっと、雨に手をかざす。
続く悪天候にイライラしているのか、今日はいつもよりたくさんの、周りの人の視線が、バリアに突き刺さる。

梅雨の素敵さが分からないなんて、少し可哀想だ。
あの人たちは、あじさいの美しさも、雨粒を見上げた時の不思議さも、体温を戻そうとする指先の温さも、濡れたプラスチックの接合部から伝う冷たい優しさも、閉じた傘の柄を流れる雨粒の柔らかさも、知らないまま生きていくのだ。

あじさいは規則正しく咲いている。
あじさいの根元を、鮮やかな黄緑のアマガエルが跳ねている。

あじさいの葉は、雨粒の重みに垂れている。
盛り上がった葉脈を、カタツムリが這っている。

雨粒が温かい頬を伝う。
私は傘の柄を握りしめて、歩き出す。
プラスチックに変わった脚が、ギギィと軋む。

あじさいの花壇は、ずっと続いている。
雨はどんなものにも、優しく、平等に、降り注いでいた。

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