微睡みながら、目を開ける。
朝の日差しが、ゆっくりと差し込んでいる。
いつも通り、心地よいぬくさが部屋を満たしている。
上半身を持ち上げて、辺りを見回す。
ガラス張りの壁は、いつも通り、のどかな中庭の、穏やかな朝の風景を映し出している。
私はガラス張りの壁の方へ滑り出て、近寄ってくる雀を眺める。
雀は、穏やかな朝日のぬくもりを浴びながら、地面をつついている。
パンくずか何かを食べているのだろう。
ひとしきり眺めていると、不意に雀が飛び立つ。
人影がこちらに近づいてくる。
彼がやって来てくれたようだ。
私は急いで水面まで泳いで浮上する。
「ほら、ご飯だよ」
彼は優しい声でそう言って、私にご飯を手渡してくれる。
ほんの一瞬、彼と手が触れる。
火傷するほど温かいぬくもり。
柔らかな朝日が私たちを包み込む。
これが、ここに棲む私の毎朝の楽しみ。
私の、朝日のぬくもり。
彼は慌てたように手を引く。
「ごめんね」
困ったように笑う。その顔さえ、朝日のように温くて、私は思わず俯いてしまう。
「じゃあ、また明日」
彼は足取り軽く遠ざかる。
私は水底まで滑り降り、ほてった頬をそっと抑える。
「…ダメよ、私。絆されてはダメ。ぬるま湯に浸かってばかりでは風邪を引くわ…」
呟いた言葉は泡となって、高く、水面へと消えていく。
このぬくもりに絆されてはいけない。本能も理性もそう警鐘を鳴らしている。
当たり前だ。
だって私は人魚。人間に捕まって、この中庭の小さな水槽に捕らえられた人魚。
人間の言い伝えの一つに、人魚の肉を食べると永遠の命を得られる、というものがあるらしい。
…つまり、私がここにいるのは危険で。
そうでなくても、ここまでの数週間で、人間たちが私にしている扱いは、ペットや見せ物としての扱いと同様であることは、私にも分かっていて。
…それでも私は、まだこのぬるま湯から抜け出せずにいる。
この朝日のぬくもりを手放せずにいる。
…だって。
危険だと伝える脳と裏腹に、私の網膜は、彼の笑顔を反芻している。
指先は、熱くて柔らかい朝日のぬくもりをそっと抱いている。
ぬるま湯は危険だ。
快適だけど、浸かりすぎれば風邪を引く。
朝日が柔らかく差し込んでいる。
キラキラと、水面が輝いている。
朝日のぬくもりが、いつまでも、私の身体をすっぽりと抱き込んでいた。
量子は、可能性の塊だ。
観測するまで、ありうる全ての観測の結果が折り重なって存在している。
そして、世界は量子で出来ている。
つまりこの世界とは、可能性の岐路を、観測によって選択した瞬間の連続によって形作られているのだ。
つまり、この瞬間にも僕には可能性の結果が幾重にも折り重なっているのだ。
不慮の事故で死ぬ可能性、何事もなく生きる可能性、食後のコーラに、ペプシを選ぶ可能性、またはコカ・コーラを選ぶ可能性…。
人生の岐路というのも、得てしてそういうものだ。
岐路の前に立つ者は、進むべき道…もしくは進まないという選択をして、可能性の結果を観測しない限りは、無限の可能性が折り重なり、世界線を跨いで無限に存在する。
光が波か粒かなんて、結局のところ、観測者が解釈し、選択して、観測してみない限り分からないんだよ。
と、語る私の話を聞いていた君は首をちょっと傾けた。
「…つまるところ、私が決めるまでは無限の可能性が重なった状態だから、結果は私次第…最終的にどうなるか選択するのは私…ということですか?」
私はパソコンに目を移しながら答える。
「そういうことだね」
君の目線は、二次元方向に大いに逡巡する。
一通り逡巡したあと、君は私の方をまっすぐ見つめる。
「…人生の岐路に立つ部下に対しての励ましの言葉くらい、もうすこし素直にかけられませんか?」
私はなるべく君の目を見ないで答える。
「かけられないねぇ。私は捻くれ者だから」
「なんであなたに友人や助手がいないのか、分かった気がします」
「それは良かった。互いの理解が深まったじゃないか」
君は安堵とも諦観ともとれる、深い溜息をつく。
「ほんとう、最期まであなたは変わらないでいてくれるんですね」
ああ、君はそういう奴だったな。私は心の裡でそう呟く。君に目の前の二つの岐路なんて意味を成さないのだったね。トロッコ問題で、自分を使って止めるなんて、破滅的で自己犠牲的な答えを出すような奴だ、君は。
私は体だけ君の方に向き直り、君の目を見ないで答える。
「もちろん。君が世界の命運を握っているのだとしても、君は私の大切な友人で、助手じゃないか」
それとも、準英雄としての手厚いおもてなしを御所望だったかな?私がそう軽口を叩くと、君はクツクツと肩を揺すった。
いつもと変わらず、可笑しそうに笑う。
そして、目線を合わせてくる。
こちらを真っ直ぐと見る。
「ありがとうございました。最期に話せた人間が、あなたで良かった」
「そうか、テキトーに生きてきた私には重たすぎる賞賛だな」私は目を逸らして、答える。
「それでは失礼します」
いつもと変わらない声で、君はそう言って、部屋を出ていく。その背を私は見送る。
…きっと君は、宇宙の可能性を閉ざして見せるんだろうな。
正義感と博愛の強い君は、この世界に住む人々のために、この世界を滅ぼすんだろう。
この世界を世界の外側から観測している、“観測者”たちからの視線を、断つために。
疲れのままに、椅子にゆったりともたれる。
この世界を観測している、別次元の人間がいることを私たちが観測したのは、65日前。もう2ヶ月も経っているのだな。
私は身体を起こす。
パソコンの奥、…お前たちを眺める。
「私は冷静だからな。彼の岐路も、選択も、君たちにとっては大したことじゃないんだろうな」
「…だが、お前らだけは、彼の岐路と選択を覚えておけよ」
パソコンに繋いだ高次元計測装置が、無機質で熱の籠った低い唸り声を上げた。
傘を差し掛けないあなたが好きだった。
タオルを用意して、一緒に濡れてくれるあなたが。
砂埃が舞っている。
呼吸をするたびに喉をひりつかせる風が、ビルの隙間を吹き抜けていく。
そこには雨はおろか、水分の気配すらない。
大規模な砂漠化は突然始まった。
梅雨前線を固める雲の兵士たちは、突然の砂埃の進軍を前に散り散りになり、湿った空気は、いつのまにか発火しそうなほどに乾いて、熱く駆け巡った。
接近してきたはずの今年の台風第一号が、やがて砂嵐となり、雨粒より軽く小さな砂粒は、片っ端から隙間を侵略して回った。
砂塵は、地上に降り積もり、地面を踏みしめられなかった上澄みの砂たちは、乾いた風に乗り、空気の中をどこまでも自由に動き回った。
砂は都市に入り込み、電気機器の隙間に入り込み、気管支に入り込み…やがて、10日間もすれば、全てのものをひりつく静寂の中に閉じ込めてしまうだろう。
…そう予想されたのが9日前。
我ながらよくここまで生き延びたものだ。
ライフラインもままならないこの中で。
今日、世界は終わるのだろうか。
部屋の窓から、砂塵に埋もれた街を見下ろして、そう考える。
人の気配がない、ただ砂の舞う、静かな光景。
「ねえ、どう思う?」
私は沈黙に耐えきれなくなって、わざと窓の外に顔を向けたまま、あなたに問いかける。
「世界、終わるかなぁ。これから私たちもみんな、砂に埋もれるの?」
乾いた風が、窓を撫でる音が聞こえる。
窓の端にはうっすら砂が溜まっている。
砂が入ってきている。
逃げ出したいような切ないような疼きが、胸を抉る。
絶望だ。もうすっかり慣れてしまった、絶望。
「ねえ」
私はあなたに話しかける。
「あなたも、もうちょっと我慢していたら、私の世界の終わりも一緒に見れたのに」
彼は死んだ。二週間前に。
最期になったあの日。
己の好奇心と探究心でしか動かないあなたが珍しく、「記念写真を撮ろう」と殊勝なことを言い出し、私も笑って応じた。
撮った写真の裏面に、あなたは書き加えた。
『世界の終わりに君と』
「僕が死んで、もし死んだ者が無に帰すんだとしたら、僕の世界も終わるから、今は僕にとっては、世界の終わりなんだよ」あなたは言った。
「君といた世界は退屈しなかったよ。だから、僕の世界の終わりは君にあげる」
あなたは私に写真を手渡して、いつものように笑った。
それがあなたの、最大級の賛辞で、愛の告白であることを、私だけが知っていた。
だから私は微笑んだ。
「ありがとう。大切にする」
彼の世界の終わりも、この世界の終わりに呑まれてしまうのだろうか。
彼が自分の世界を終わらせてまで見たかった景色は、生き様は、全世界の終わりに、呑まれ、敷かれ、押しつぶされて、この終末の一部になってしまうのだろうか。
それでも構わない。
だってそれはあなたの世界の終わりが、私の世界の終わりの一部になるってことでしょう?
この終末で、あなたの世界の終わりを、私の世界の終わりで、ずっと永遠に抱きしめていられるのだから。
時計が、物が挟まったような不明瞭で軋んだ音で、時間を告げる。
私は写真立てを胸に抱く。写真の、あなたの頬をそっと撫でて。
それから、立ち上がって窓を開け放つ。
黄色い風が、強く吹き込む。
「ずっと愛してる」
あなたにかけるには、凡庸すぎて言えなかった一言を呟く。
柔らかな砂が喉を焼く。
乾いた砂が、全てのものに、優しく降り積もっていた。
『史上最悪のヒール!! 最恐の闘いぶりを見逃すな!!』
ポスターの煽り文句が風に靡いている。
俺は体を引き摺って歩く。
いつもの、と思えるほどによく見たキャッチコピーだ。
“史上最悪のヒール”
だが、出てくるレスラーと試合は、いつもとは変わったものになるだろう。
最近はすっかり、暑くなってきた。
空を仰ぐと、カラッと晴れた青空が目に入る。
そろそろ熱中症も警戒しないとな。眩しい日差しを見てそう思う。
ユニフォームを入れたカバンがずっしりと重い。
汗を吸ったのだろう。
道の向こうから、仲が良さそうに歩く母娘がすれ違う。
のどかな昼下がりだ。どの人々も平和に過ごしているように見える。
穏やかに、のんびりゆっくりと時間が過ぎてゆく。
俺は公園のベンチに腰を下ろす。
幼い子どもたちが、楽しそうに笑いながら、遊具に取り付いて遊んでいる。
ヒールターンを命じられたのは、一昨日のことだ。
俺のヒーローは人気がなかった。
自分でも分かっている。俺にベビーフェイスは向いていない。
昔から、長いものには巻かれる人間だった。
面倒事が嫌いで、自分が大好きで、気が短いわりには小賢しく、好戦的で喧嘩っ早い。
俺の性格に、ヒーローっぽさのカケラもない。
それでも、俺はヒーローには憧れていた。
ヒーローは強かったし、人気者で、輝いて見えた。
自分でも分かっている。
ヒーローの内面や性格ではなく、強さと人気を理由にめざすなんて、我ながら最悪な動機だ。
俺にベビーフェイスは向いてない。
だから、俺はヒールに向いているだろう。
史上最悪のヒールに。
「お前は良いヒールになるよ。ヒール向きな性格だし、強くなることに関しては積極的で、吸収が早い。最恐最悪のヒールとして、歴史に残れるよ、お前は」
ヒールレスラーの大先輩は、俺にマスクを渡した。
「今日から、お前が史上最悪のヒールだ。胸を張れ」
明日だ。
明日、俺は正式に、観客の前でその名を受け継ぐ。
ヒールターンに納得がいかないまま。
…なれるだろうか?
俺はやっぱり最悪にやな奴だ。
最悪にもなりきれない、ヒールとしてもなり損ないで。
こんなので先輩に顔向けできるのだろうか。
子どもが目の前を駆けていく。
楽しそうに。笑いながら。
…そうだ、俺はいつもこんな最悪な気分の時は、体を動かしていた。そうすればいつか気も晴れて、自分のすべきことが、いつの間にか、腑に落ちる。
ヒールターンの話があってからというもの、そうやって生きてきたことをすっかり忘れていた。
俺はカバンを置いて、伸びをする。
体をゆっくり伸ばして、カバンを背負う。
汗を吸ったユニフォームを詰めたカバンは、良いウエイトになるだろう。
アキレス腱を伸ばして、足を踏み出す。
耳が風を切って、爽やかな空気を運んできた。
静かだ。
白い清潔な壁には、澄ました顔で並ぶ肖像画。
その中で、彼女は澄まして、柔らかな微笑みを浮かべていた。
流れるようなウェーブのかかった、ブロンドの髪。
長いまつ毛を跳ね上げた、アーモンド型のパッチリとした目。
形良く、ツンと立った鼻の横に、ふっくらと赤みを持った頬を持ち上げて。
控えめに挿した紅をさりげなく見せて、笑っている。
「本当は私、こんなに綺麗じゃないの」
地下のアトリエで、冴えない画材に囲まれた貴女はそう言って笑った。
「私じゃなくて、私の見本だけど。お父様が可愛い方が良いっていうから、仕方なく、ね」
そう言って、貴女は柔らかく、卑屈に微笑んだ。
それでも、額縁の中の名画のように美しかった。
この肖像画を買ったのは、ちょうど一年前の雨の日だった。
狂ったようにカメラを抱えて、冴えないフィルムを焼く友人が、いつものように、持ち込んできたものだった。
芸術が好きで、かつて同じ夢を志す同志であった俺に、“鑑賞”という趣向を知ってもらいたい。そう彼は言った。
その日も俺は、彼のように狂気に魅入られることも、天才のように神に魅入られることもなく、人型の炭素循環器としてダラダラと稼働していた。
だからかもしれない。
彼の持ってきた二束三文の絵の中に、気怠げに額縁の外を見下ろす、妙に大人びた少女のその肖像に、どうしようもなく惹かれた。
言い値で買い取り、使わなくなってカビの生えたアトリエへ運び込み、一息ついたところでその肖像の少女は、眉を顰めた。
「随分と辛気臭いお部屋ね」
御伽噺のお姫様か、貴族のお嬢様のように、美しく上品な顔立ちとは裏腹に、辛辣で、卑屈で、皮肉屋だった。
貴族調の、洗練された所作と丁寧な口調が、彼女の言葉の端に吊り下げられた、陰とした真意を却ってよく引き立てていた。
彼女はよく笑った。
ピクピクと片頬を引き攣らせる、皮肉な笑みで。
そんな清濁を呑んだ彼女と会話を交わすたびに、俺は刺激された。
いつの間にか、俺は考えるようになった。
元のようにやりたいことを見つけるようになった。
スケッチブックを、また手にとるようになった。
一応は深窓の姫なのよ、俺が笑うようになってから、彼女はいつもの皮肉な笑みでそう言うようになった。
「深窓の姫って設定なの。その方が評判も綺麗で箔が付くし、何かの間違いで哀れな殿方が付くかもしれないでしょう?」
彼女は、いたいけな少女のように、両手で口元を覆って、くすくすと笑った。
「私はどう足掻いても部屋から出てはダメなんですの。こんな身体と器量では、家の爵位に泥を塗ることになりかねないもの。出れませんわ。だから」
一拍置いて、彼女は悲しみと諦めの混じった微笑みを浮かべた。
「ずっと、深窓の姫ですの。そして、私はこの絵の私しか、残ってはいけないのよ」
とあるニュースが美術界を騒がせた。
ネットニュースから始まったそれは、瞬く間に平和な先進国のニュース番組を征服した。
『有名画家の日記、発見される! 未発見の作品発見の期待!!』
そこに載っていたとある貴族の娘の肖像画。
その特徴は、完璧に彼女と一致していた。
「私、美術館へ行きますわ」
ある日、彼女は言った。
「美術館へ行って、良家の完璧なお嬢様、少女肖像画の名作を演じてやりますの。そして、私を地下に閉じ込めた世間の人々というものを拝んで、騙して、“詐欺”というやつを成し遂げてみせますわ」
ですから、彼女は、俺の手元にある請求書とカタログをチラリと見やり、ぴくりと頬を引き攣らせて笑った。
「私を引き渡すと良いですわ。御礼をたんまりとってね」
彼女は笑みを深めた。
「ここで話したことは全部秘密ですわよ?誰にも言わないでね。レディの秘密を話すのは紳士の風上にもおけないですわよ?」
彼女は、辛辣で、卑屈で、皮肉屋で、頑固だった。
彼女の決断を翻すことは、俺には一度もできなかった。
だから。
彼女と過ごした一年間の思い出は、秘密だ。
彼女の口の悪さも。翳りのある苛烈な性格も。抹消された悲しい過去も。本当の笑い方も。
誰にも言えない秘密。誰にも言ってやるものか。
美術館の額縁にかけられた彼女は、無邪気に微笑んでいる。
本当に大した女優だよ、憎まれ口を小声で叩いてやる。
美術館の柔らかな照明が、彼女の額縁の影を、くっきりと壁に照らし出していた。