静かだ。
白い清潔な壁には、澄ました顔で並ぶ肖像画。
その中で、彼女は澄まして、柔らかな微笑みを浮かべていた。
流れるようなウェーブのかかった、ブロンドの髪。
長いまつ毛を跳ね上げた、アーモンド型のパッチリとした目。
形良く、ツンと立った鼻の横に、ふっくらと赤みを持った頬を持ち上げて。
控えめに挿した紅をさりげなく見せて、笑っている。
「本当は私、こんなに綺麗じゃないの」
地下のアトリエで、冴えない画材に囲まれた貴女はそう言って笑った。
「私じゃなくて、私の見本だけど。お父様が可愛い方が良いっていうから、仕方なく、ね」
そう言って、貴女は柔らかく、卑屈に微笑んだ。
それでも、額縁の中の名画のように美しかった。
この肖像画を買ったのは、ちょうど一年前の雨の日だった。
狂ったようにカメラを抱えて、冴えないフィルムを焼く友人が、いつものように、持ち込んできたものだった。
芸術が好きで、かつて同じ夢を志す同志であった俺に、“鑑賞”という趣向を知ってもらいたい。そう彼は言った。
その日も俺は、彼のように狂気に魅入られることも、天才のように神に魅入られることもなく、人型の炭素循環器としてダラダラと稼働していた。
だからかもしれない。
彼の持ってきた二束三文の絵の中に、気怠げに額縁の外を見下ろす、妙に大人びた少女のその肖像に、どうしようもなく惹かれた。
言い値で買い取り、使わなくなってカビの生えたアトリエへ運び込み、一息ついたところでその肖像の少女は、眉を顰めた。
「随分と辛気臭いお部屋ね」
御伽噺のお姫様か、貴族のお嬢様のように、美しく上品な顔立ちとは裏腹に、辛辣で、卑屈で、皮肉屋だった。
貴族調の、洗練された所作と丁寧な口調が、彼女の言葉の端に吊り下げられた、陰とした真意を却ってよく引き立てていた。
彼女はよく笑った。
ピクピクと片頬を引き攣らせる、皮肉な笑みで。
そんな清濁を呑んだ彼女と会話を交わすたびに、俺は刺激された。
いつの間にか、俺は考えるようになった。
元のようにやりたいことを見つけるようになった。
スケッチブックを、また手にとるようになった。
一応は深窓の姫なのよ、俺が笑うようになってから、彼女はいつもの皮肉な笑みでそう言うようになった。
「深窓の姫って設定なの。その方が評判も綺麗で箔が付くし、何かの間違いで哀れな殿方が付くかもしれないでしょう?」
彼女は、いたいけな少女のように、両手で口元を覆って、くすくすと笑った。
「私はどう足掻いても部屋から出てはダメなんですの。こんな身体と器量では、家の爵位に泥を塗ることになりかねないもの。出れませんわ。だから」
一拍置いて、彼女は悲しみと諦めの混じった微笑みを浮かべた。
「ずっと、深窓の姫ですの。そして、私はこの絵の私しか、残ってはいけないのよ」
とあるニュースが美術界を騒がせた。
ネットニュースから始まったそれは、瞬く間に平和な先進国のニュース番組を征服した。
『有名画家の日記、発見される! 未発見の作品発見の期待!!』
そこに載っていたとある貴族の娘の肖像画。
その特徴は、完璧に彼女と一致していた。
「私、美術館へ行きますわ」
ある日、彼女は言った。
「美術館へ行って、良家の完璧なお嬢様、少女肖像画の名作を演じてやりますの。そして、私を地下に閉じ込めた世間の人々というものを拝んで、騙して、“詐欺”というやつを成し遂げてみせますわ」
ですから、彼女は、俺の手元にある請求書とカタログをチラリと見やり、ぴくりと頬を引き攣らせて笑った。
「私を引き渡すと良いですわ。御礼をたんまりとってね」
彼女は笑みを深めた。
「ここで話したことは全部秘密ですわよ?誰にも言わないでね。レディの秘密を話すのは紳士の風上にもおけないですわよ?」
彼女は、辛辣で、卑屈で、皮肉屋で、頑固だった。
彼女の決断を翻すことは、俺には一度もできなかった。
だから。
彼女と過ごした一年間の思い出は、秘密だ。
彼女の口の悪さも。翳りのある苛烈な性格も。抹消された悲しい過去も。本当の笑い方も。
誰にも言えない秘密。誰にも言ってやるものか。
美術館の額縁にかけられた彼女は、無邪気に微笑んでいる。
本当に大した女優だよ、憎まれ口を小声で叩いてやる。
美術館の柔らかな照明が、彼女の額縁の影を、くっきりと壁に照らし出していた。
目を覚ます。
目前にあるのは白い部屋。白い、狭い部屋。
狭い部屋の中で、僕は生まれた。
そして、生まれてからすぐ悟った。
僕の使命はこの狭い部屋の主人になることだ。
この狭い部屋は、本当に何もない部屋だ。
殺風景で、見渡す限り一面の白。
四角い長細い圧迫感のある、壁がすぐそこに見えるのに、どこまでも永遠に広がっているような、そんな部屋。
誰も気に留めない。
誰も意識して目を凝らさない。
でも、僕は確かにそこにいたし、狭い部屋も確かにここにある。
多くの目線が、僕と部屋を通り過ぎていった。
みんな足を止めずに急いで次に向かう。
僕の部屋にいるのはほんの一瞬。
その一瞬が、僕にとっての唯一の変化で、楽しみだ。
この部屋の存在意義はなんなのだろう。
狭い部屋の主人として、そんなことを考えたこともあった。
お隣の部屋を真似して、一秒でも長くいてもらうために、喋ってみたこともあった。
僕の部屋を通り過ぎてゆく目線に声をかけたこともあった。
「 」
その度に声は染み込むように、狭い部屋の壁に吸い込まれていった。
ある日、誰かがこう言った。
「この隙間に声はない。音はない。色もない。ただの狭い、ポカリと空いた空間。でもそれこそに意味がある。趣がある」
…正直僕には、どういうことか分からなかった。
何もない空白の部屋にいる僕には。
でも、僕の部屋は褒められたらしい。
どう褒められたのか、よく分からないけど誇らしい。嬉しい。
だから、僕はこれからもこの狭い部屋にいる。
この部屋の主人として、一瞬で通り過ぎる目線をお迎えする。
それが僕の使命。
でも、狭くて何もないけど、僕にとっては自慢のお部屋。
だから、もし僕の部屋を見かけたら、じっくり見ていってほしいな、と思ったりもする。
もし良かったら、目の前のあなた。ゆっくりしていってね!狭い部屋だけど。
ノート、テキストボックス、チャット、Word…
僕の部屋は狭いけどたくさんあるから。
もし行間にある空白を見つけたら。
そこに僕はいる。
「沈黙」「余白」「余韻」「区切り」…いろんな名前で。
だからもし見つけたら、ちょっと目線を止めて、ゆっくりしていってくれると嬉しいな!
そんなことを今日も一人で考える。狭い行間の余白の、狭い部屋の中で。
奇跡みたいな夢だけど。いつか僕のこの空白の考えが、狭い部屋を出て、広い世界を見れたら素敵だな。
狭い部屋の中で、僕は夢を見る。
今日も、明日も、明後日も。
言葉が、会話が、お話が、存在する限り。
ふらつきながら外に出た。
弱々しく、冷たい風が吹いている。
「それってきっと恋だよ!」
そう断定した友人の声が脳にこだまする。
今思えば、あの子にとっては、浮ついたことの一つもない私の珍しく浮いた気配のある話題に、ヘリウムガスを押し込みたかっただけのことだったのだろう。
そんな軽い言葉を信じた私が軽率だったのだろう。
恋に恋する人間は少なくない。私たちの年齢層なら尚更。
さして将来も明るくなくて希望もないが、青春真っ只中で若さと時間を持て余して私たちにとって、恋愛は数少ない人生の意味の一つなのだ。
自分の恋愛も、他人の恋愛も、架空の恋愛さえも。
無慈悲な将来と重たい大人の期待に疼く頭を少しでも軽くするために、ふわふわの恋愛を詰め込んで、パステルカラーに色気付いた話を打ち上げる。
それが私たち、うだつの上がらない高校の生徒たちの心の生存戦略といっても過言ではないだろう。
だが、そういう生存戦略が肌に合わない特異種も存在する。つまり、恋愛を歯牙にも掛けない学生も一定数はいる。
私がそうだし、彼もそうだ。
周りの友人はこぞって、私たちをくっつけたがった。
周りとは少し違う冷めた雰囲気を纏ったもの同士。しかもそれなりに一緒にいるときている。
噂になるのは時間の問題だ。
…そして、高校生というのは、その気になりやすく、流されやすい生き物で…こちらは私も例外ではない。
私は恋をしたと思いこんだのだ。
そして、流されるままに、話したのだ。彼に。
これからの関係性について。
そういうのが一番鬱陶しい。
身に染みて分かっていたはずなのに。
彼は優しくて丁寧だった。
私の意見を聞き、整理し、その上で自分の意見を伝え…親切に話し合ってくれた。
私はすぐに理解した。私の感情は恋ではないことに。
私たちは意見の合う友人として、お互いに好き合っている親友だということに。
親友として、恥ずかしかった。情けなかった。
顔もまともに見れなかった。
最悪だ。
2人の関係性を、外野のガヤだけを根拠に決めつけて変えようとするなんて。
めちゃくちゃ失礼だ。
話し合いの締めに彼は言った。
「君とは親友でいたい。君との時間は楽しいし、心地良いんだ。こうやって話して、忌憚無く意見を言って、周りに振り回されずに自分でいられる。これが僕にとって大切で必要な人生の糧なんだ」
彼は私と親友でいることを望んでくれた。
私も彼とは親友でいたい。
キスとか付き合うとかどうでもよくて、ただ一緒に話したいだけ。ただ一緒に遊びたいだけ。
ただ、友人でいたいだけ。
私たちの関係性から、恋は失われた。
元からいらなかった。でも、2人の意見を擦り合わせて正式に決まったのは、今日だ。
私たちから、恋は失われた。
これが失恋というのだろうか。
なら、今日は記念すべき失恋記念日だ。
私たちは親友だ。今までも。これからも。
もう、関係性に迷走することもないだろう。
失恋って存外悪くないものだ。スッキリする。
私は前を向いて歩き出す。
私たちは親友だ。今までも。これからも。
「なんで早く言ってくれなかったんだ!」
大声で、あなたが叫ぶ。
初めて真正面から対峙したあなたの顔は、険しく歪んでいた。
「俺はお前が一番の友達だって思ってた!」
嘘つき。
私とあなたは、好きなものも、大切なものも違った。
あなたは、最近はいつでも、息抜きをしたがった。
「俺とお前との連携は、サイキョーだったじゃないか!」
嘘つき。
私とあなたの足並みは揃わなかった。
あなたが、一緒に戦う仲間は私じゃなくて、あの人だった。
「お前はサイコーの仲間だと思ってた」
嘘つき。
「お前が変に誤魔化さなければ!教えてくれれば!俺だって一緒に背負ったさ!」
「俺はそんなに不甲斐なかったか?信用なかったのか?!」
あなたの顔は、後悔に歪んでいる。
「お前はいつも言っていたろ!『正直は宝』って!」
そう。私はいつも正直だ。
今までだって、正直に生きてきた。
あなたをそれほど信用していなかったから、私はあなたに色々なことを誤魔化したし、何も大切なことは話さなかった。
あなたを裏切るつもりだったから、良好な関係でいられるように、話す情報をコントロールした。
あなたにとって私が一番でないように、私にとってもあなたは一番ではない。私はただ、それに正直に従って行きただけだ。
あなたとの道中はまあまあ楽しかった。
あなたたちは嫌いじゃなかった。むしろ気に入っていたかもしれない。
でも、正直、一番じゃない。
それが全てだ。
だから、さようなら。
あなたも、みんなも、この世も、私も。
さようなら。
正直はやはり宝だったよ。
私はそう自分に言い聞かせて、あなたたちの方へ向き直る。
手に入れたばかりの力が氾濫している。
身体には、いつもとは比べ物にならないほどの力が満ちている。
「お前がする必要はないだろ…」
強い声で、でもやけに弱々しく響く言葉が聞こえた。
あなたはまだ何かを叫んでいる。
ゆっくりと目を閉じ、開ける。
張り詰めていたはずの空気が、ふわりと揺らいだ気がした。
「ぎゃあああん」
火のついたように泣き崩れている。
五月の最終週末、子どもの運動会のその日に、たまたま梅雨の走りが重なった。
うちの子は、お世辞にも頭が良いとは言えない。
だからこそ、彼にとって、運動会は数少ない晴れ舞台であり、何よりも重要な予定だったのだろう。
雨は、我が子の叫び声に近い涙ながらの訴えをもろともせず、ますます降り募る。
ザアザアと、雨の音が無情に響く。
窓の桟には、てるてるぼうずがぶら下がっている。
まだご機嫌だった今朝の息子が作ったものだ。
てるてるぼうずがこちらを見ている。
雨が叩く窓に背を向けて、ぷらりと首を吊られて。
私はぼぅっとそれを見つめる。
雨の日。
梅雨の走り。
降り止まない雨。
てるてるぼうず。
そんな光景で、思い出すことがある。
あの日。
私がまだ新人として働いていたあの日。
私たちの勤め先は、安定していて、社会の未来のために奮闘する素晴らしい仕事だった。
私の親友だったあの子は、前向きな目標と、強い熱意と、何よりの希望を持って、その一歩を踏み出した。
それは長くは続かなかった。
責任。プレッシャー。理想。期待。自責。
それはあの子を押し潰した。
私は気づいていた。
毎日忙しく気の抜けないこの仕事で、潰れる者も決して少なくないということ。
どんな時も、最後には、人は自分で救われなくてはいけないということ。
でも、それをあの子に伝える勇気も余裕もなかった。
あの日は、私たちの三年目の年の五月の末で、雨が降っていた。
梅雨の走りで、雨粒が窓を叩いていた。
その日、私とあの子は遊ぶ約束をしていた。
あの子は待ち合わせに来なかった。
私は迎えに行った。
きっちりしたあの子には珍しく、家の鍵が開いていた。
雨の音だけが、シンとした部屋の中に充満していた。
窓の桟に、吊り下がっていた。
湿度がじっとりと空気を澱ませていた。
あの時の光景が、網膜の奥に焼きついて離れない。
梅雨の初めの雨の日に、吊り下げられたてるてるぼうずが、私の脳裏が、網膜に写す。
あの時の光景を。あの時の悪夢を。最後に見た親友の姿を。
我が子は泣き疲れて眠っている。
頬に一筋の、涙の跡が残っている。
もうすぐ梅雨がやってくる。
外遊びの好きな息子は、またてるてるぼうずを吊るすだろう。
梅雨に向けてだんだんと、てるてるぼうずが増えていくのだろう。
雨が降り続いている。
窓の外を垂れる雨雫が、梅雨の始まりを告げている。
我が子の頭を撫でる。
湿気のせいか、しっとりとした感覚が、手に残る。
雨はまだ止みそうにない。