あどけない顔で花を摘む。
その足元には、踏み倒された葉が千切れている。
真っ白なシロツメクサの花畑。
鮮やかな緑色の、可愛らしい形で生えるクローバーの葉。
ちらちらと舞うモンシロチョウ。
ふっくらとした白い手が花を摘み、冠を編み込んでいく。
遠くでツグミが鳴いている。
葉の影に、踏まれて四葉になったクローバーが隠れている。
無垢なあの子は、花冠を掲げて、可愛らしく笑う。
白く、可愛らしく、美しく、無欲で、純真で。
無垢な花の死は、無垢な少女の手の中にある。
欲も穢れも怒りも悲しみも知らず。
無垢は人離れした境地に程近い。
死を悼むには、あまりに無知な。
だからこそ、死を送るものには相応しい。
彼女の横には骨壺がある。
永遠に無垢で無知だった、哀しい生を詰め込んだ、ちっぽけな壺が。
あの子はもうすぐ墓を掘る。
骨壺に冠を被せ、精一杯に飾り立てて、無垢に、無知に、残酷に送り出すのだろう。
この病気が流行り始めたのはいつだったか。
“悟病”とみんなは呼んだ。
ここに来る子どもはみんな同じ。
胎児の時に無垢となって。
生まれた時から、永遠に無垢のまま。
記憶は僅か10分も持たず。
食欲も睡眠欲もままならず。
生きることに執着もせず。
愉しみも喜びも苦しみも知ることはなく。
言葉も思考もままならないまま。
赤ん坊らしからぬ赤子たちは、なんとか可愛らしい子どもになって、その後にゆっくり脳が縮小して、緩やかに、眠るように、死んでゆく。
ここは無知ばかりが棲まう無垢の塔。
悟病を封じ込め、隔離して、無垢な死を待つ塔。
あの子もやがて、眠るのだ。
小さな骨壺を揺籠にして。無垢で無知な一生を籠めて。
そして私はいつまでも、無垢な子どもたちを見送るのだろう。
あの子の時も。他の子の時も。
あの子に執着はないのだろう。無垢で悟ったあの子には。
実母の私と他の患者との違いも、あの子にはない。
悟病に侵された私たちは、やがてまたやってくる哀しい若い母親と、いずれ生まれ落ち、いずれ死んでゆく、無垢をずっと慈しみ続けるのだ。
骨壺に花冠をかけ、あの子は笑う。
無垢で無邪気な、形ばかりの弾けるような笑みで。
遠くでツグミが鳴いている。
目の前に先の見えない道が伸びている。
日差しが強く刺している。
雑草が道を開けている。
じっとりと、Tシャツが絡みついている。
一本道がずっと続いている。
ため息をついて、一歩を踏み出す。
ジワジワジワジワジワジワ
耳を刺す蝉の声。どこまでも遥かな空の、向こうに広がる入道雲。
まつ毛を乗り越えて、重い汗が垂れる。
疲れはない。影もない。喉の渇きもない。
ただ目の前に、先の見えない長い道が伸びているだけ。
目を凝らす。
入道雲のその先に、真っ白な雪景色が見える。
鶴が翼を広げ、目の前を飛んでゆく。
ステガノグラフィーは認識できない。
ステガノグラフィーはそれと分かっていなければ気づけない。
真の罠とは、そうやって、悟られないようにいつのまにかやってくる。
ここに入り込んで一体、何十年が経ったのだろうか。
もう数えていない。
あの日、あの夏休みの初日、インターネットで妙に惹かれるこの画像を見つけてから…
魅入っていつの間にか、この道を歩き始めてから…いつまで歩き続けるのだろうか。
ジワジワジワジワ
蝉の鳴き声が耳を刺す。
網膜の奥に、鶴の、脚の丹念な鱗が焼き付く。
一歩踏み出す。
道はずっと続いている。
進めど進めど風景は何も変わらない
体はずっと、炎天下を数分歩き続けた時のようだ。
喉も渇かない。汗もひかない。
目の奥に雪景色が焼き付いている。
この先には何があるのだろうか?
その一心で歩き続けた。終わりはまだ見えない。
長い旅だ。終わりの見えない旅。終わりのない旅。
歩き出す。
日光が肌を刺す。
ジワジワジワジワと蝉が鳴く。
私は狂ってしまったのだろうか?
でもどの道、帰り道はない。
後ろなんてここにはないのだ。
私は蝉の声に押されるように足を出す。
鶴に引っ張られるように前へ出る。
永遠に続くかもしれない、終わりのない旅。
私は今この瞬間も、一歩を踏み出す。
ジワジワジワジワ
蝉が鳴いている。
「ごめんね」
一緒に言った。
ジーーっと虫が鳴いていた。
日暮れの空は、青暗い。
目の奥がくすぐったいような気がして、目を細めると、アイツも同じように笑っていた。
微かに夏の匂いがする。
手首に張り付く布が、風で靡く。
右手に嵌められたアイツと目を合わせる。
アイツの目の奥が揺れる。舌のない口が開け放しになっている。
サーカスのテントが遠くではためいている。
音もなく。色もなく。
物心ついた時から、僕はピエロだった。
サーカスで、たった1人の肉親のアイツと、僕は毎日芸に励んだ。
僕の右手にずっと一緒にいる、パペットのアイツと。
アイツからほつれた刺繍糸が、風にはためく。
サーカスのテントと同じように。
アイツが色を食べることを知ったのは、最近のことだ。
僕の右手が、絵の授業で描いたクロッキーのように味気ないのは、そのせいだったのだ。
アイツは色が大好物だ。腕を通せば、腕の色を食べる。
アイツは色が大好物で、でも色を食べると周りが困ることを知っている。
だから、アイツは怒ると色を食べる。口から。口をパクパクと動かして。
今日はちょっとやりすぎたのだ。
パパがあんなことを言うから。
みんな我慢の限界だった。パパ_と自分を団員に呼ばせている_横暴な団長にウンザリしていた。
それは僕も、アイツも一緒だった。
パパにはもう会いたくない。
パパは僕の右手が嫌いだった。
変な右手の僕を愛してくれる人はいなかった。
僕はいつも2人だった。アイツと2人きり。
パパにいじめられて疲れ切った大人たちは、何も教えてくれなかった。
でもこれだけは分かる。
謝れないのは悪いことだ。パパとおんなじだから。
だから僕たちは一緒に謝る。
サーカスのテントに向かって。
「ごめんね!」
モノクロのテントが風に靡いている。
僕の右手に嵌められた、アイツのほつれた刺繍糸は、鮮やかに、いつまでも、はためいていた。
あの子の名前を呼んだ。
雨の降る前の日だった。赤々と夕焼けの空が輝いていた。
誰もいない教室。誰もいない放課後。
ようやく半袖に捲れた袖から、丸く整えられた接合部が見える。
ぎこちない右手で日記を書く。
肘から先が音を立てて軋むようになってから、もうすぐ20日が経つ。
今では生身の腕と全く変わらないように動く、軋む腕。
あの日、翼と右腕が外れたあの日。それは言った。
「今から20日後に雨を降らす」
「世界にとっての最後の雨を」
あの子は、私の右腕が変わっても、私が半袖を着ても、接し方が変わらなかった。
いつものように素っ気なく、普通に私に会釈して、隣の席に着いた。
好奇心も傲慢さも気遣いも慈悲も感じない、無気力な顔で。
その時に思った。
ああ、この子となら生き延びてもいい。
地上の生き物には見えない背中の翼も、人智を超えた力も、全てのものを慈しむための慈愛も、今の私には不要だったから。
あの日。
あの日、あの子以外の別の子に翼と右腕を差し出して、子猫を助けたこと。それを後悔なんてしていない。
でもこれからを差し出すのは、あの子が良い。
傷と痣だらけなあの子が。
コーヒーが飲めなくて、毎朝紅茶を飲むあの子が。
強がっていて不安そうなのに、諦めたような顔を貫いているあの子が。
残った慈愛はあの子に使おう。
愛も幸福も全てあの子にもたらそう。
あの子とずっと一緒にいるために。
あの子と幸せであるために。
あの子と、2人で1つでいるために。
だって。
半袖になれるのはあの子の前だけだから。
そろそろあの子が目を覚ます頃だ。
私は立ち上がる。
雨が降り始めたら、毎日子守唄を歌おう。あの子のために、慈愛を込めて。
それまで、一緒にたくさんお話ししよう。
もうすぐ雨が降る。赤い夕日を割いて雨が降る。
日記を閉じる。
あの子の名前を口の中で転がす。
ほのかに甘い気がした。
真っ白な部屋。
真っ白な、窓も、ドアもない静かな部屋。
真っ白でふかふかの毛布にくるまって、真っ白な壁を見つめる。
微睡がうつらうつらと脳を掠める。
温かい部屋。温かい食事。温かい愛。
ここには全てある。
もふもふのぬいぐるみも。真っ白な紙を束ねたスケッチブックも。丸く削られた鉛筆も。
ぼんやりと壁を眺める。
今、何時だろう。
この部屋に時計はない。
ベッドの傍らの小さなテーブルの上に、白いカップとソーサーが置かれている。
カップからは白い湯気が立っている。紅茶の葉の香りが漂っている。
私はコーヒーを飲めない。
だからこのカップの中味も紅茶なのだろう。
ここに来て何日経ったのだろう。
外から微かに雨の音が聞こえる。
軽く身体を揺する。
かちゃり、足についたままの鎖が音を立てる。
「…起きてたんだ。体調はどう?」
いつのまにか、彼女がこちらに微笑んでいた。
「うん、普通かな」
私が答えると、彼女は愛おしそうに目を細め、天使のように笑って、良かった、と囁く。
「外はまだ危ないから、ここにいてね」
私は黙って頷く。
そして渡されるまま、紅茶を啜る。
彼女が、私の何を気に入っていたのか分からない。
傷だらけで、でも守られるほどしおらしさも可愛げもなくて、常に素っ気なくてテキトーな私の何が、彼女の琴線に触れたのだろうか。
「私、貴女にどうしても生きてほしかったの」
初めてこの部屋で気がついた時、彼女はそう言って、今みたいに愛しそうに笑った。
彼女は私をとにかく大切に扱おうとする。そしてとにかく、ここに留めておこうとする。
いつも最後は、私を毛布に包み、優しい声で子守唄を歌いながら、彼女は私の首を撫でる。腕に、脚に、確かめるように触れる。
その時の、熱のこもった、冷めたような視線を覗くと、私はいつも背筋が寒くなる。
私は今、何も不自由していない。
しかし、どうしようもなく不自由だ。
私は、まるで真綿に包まれた宝石のように、大切に守られている。
私は、自分を包む真綿に首を絞められている。
ここは天国。ここは地獄。
天国と地獄。どちらとも言える、不思議な空間。
彼女の子守唄が聞こえる。
彼女の手がそっと頸に触れる。
意識が遠くなる。
白い壁の輪郭がぼやけていく。
最後まで、彼女の声が耳朶を揺する。
私は、ゆっくり目を閉じた。