薄墨

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5/23/2024, 11:28:06 AM

アラームが鳴っている。

朝だ。
陽の光がカーテン越しに差し込んでいる。
アラームを鳴らしたスマホは、5:30を指している。

朝だ。
アラームを止めて、体を起こす。
寝起き特有のもったりとした眠気が、意識をぼんやりとさせている。

僕は立ち上がって、洗面所へ向かう。
今日は小テストがある。準備のためにも、一刻も早く目を覚まさなくてはならない。でなければ、なんのためにこんなに早く起きたのかって話だ。

一階へ下りる。
まだ家族は起きていないらしい。
電気は消えているが、薄暗さはない。
カーテンから紅い陽が漏れ出ているから。
昼間ぐらいの明るさだ。ありがたい。

リビングのテーブルに、昨日までやっていた勉強道具が出ている。中途半端で切り上げて良かった。今も見ているだけで回答欄を埋めたくなってきた。

ひとまず目を覚まさなくては。
いや、もう目は覚めてる気はするが、それでも顔は洗わなくては。
目ヤニがつきっぱなしだったり、寝癖が跳ねっぱなしだったりで、親友のアイツに笑われるのは癪だし。

洗面所へ向かう。
蛇口を捻って水を出し、バシャバシャと派手に音を立てて顔を洗う。

手探りでタオルを探し当てて、額に当てる。
前髪と一緒に一気に顔を上げる。

目の前に鏡がある。
壁だけを写し出す、鏡が。
「逃れられない。逃さないもん。流星雨の時に獲った星使ってるから勿体無いし」
耳元でナニカが囁いた。

昨日、空が赤く染まった。
文字通り、真っ赤に、真紅に。
昨日の空全体に広がる夕焼けは、何時になっても沈まなかった。

…昨日夕陽が出た時、耳元でナニカが囁いた。
「君に決めちゃった」
その後だ。
塾の途中で席を立って、トイレへ行って、僕は気づいた。
鏡に僕が写ってない。
「鏡が“我”を捨てると神」
声が囁いた。
「君を気に入ったんだ。君がこっちに来ないと、空はいつまでも真っ赤だよ」

日の入り時間を過ぎても一向に赤みの引かない空に、大人たちはあたふたしだした。
嫌だなあ、これじゃ僕が行かなきゃ迷惑かけるみたいじゃないか。僕はこのままでいいのに。
そう思いながら、僕は教室に戻った。

教室の戸を開けると、騒ぎが収まっていた。
どういうことか分からないでいたかった。でも僕の頭は気づいてしまった。
…これが鏡に写らなくなった代償か。
思考するだけでこんなになるなんて、本当にまるで神様じゃないか。
親友がいつも通りに笑って、一人紅い空に狼狽えたことだけが、今や僕にとっての最後の希望だ。

「「また明日」」僕たちはそう言って別れた。
今日もアイツは一緒に学校へ行ってくれるだろうか?…アイツの前で鏡に写らないようにしなきゃな。

「…さ、テスト勉強しないと」
ナニカに聞こえよがしに、独り言を呟いてみる。
…薄々、無駄な抵抗な気もしなくはない。
いや寧ろ、そんな気持ちが大半だ。
僕の優秀な脳は、(どうせ逃れられないんだろうな)なんて諦めモードだ。
だが、無駄だったとしても、意思表示として反抗はしておきたい。何も手を打たないまま、現状と都合に引きずられてなんて嫌すぎる。
僕が未だにテスト勉強をするのは、そういう、思春期男児のささやかな意地だ。

僕はリビングに向かう。紅い朝日を浴びながら。
紅い陽が、突然かくんっと翳った…。

5/22/2024, 1:07:37 PM

空が赤い。
ほれぼれするように紅い。

「明日が梅雨入りなんて信じられないよ」
真っ赤に染まる空を見上げて、そう言った。
「誤報なんじゃない?天気予報もたまには外れるって」
君は隣でそんなことを言って、紅い空に手をかざした。

君の手の指の隙間から、紅い光が漏れ出ていた。
くっきりと黒く照らされたその手の隙間から漏れる紅い陽は、なんだかこの世のものでないように思えた。

「誤報ってレベルじゃないと思うけどね」と、僕は軽い口調で言う。
「そうかな?“誤”った予“報”を伝えたんだから、誤報でいいんじゃない?」
こんな時まで足取りの軽い君は、僕を追い越して、振り向きながらそう言った。

「まあ、言葉的にはそうだけど…そういうことじゃないんだよな」
「そうなの?じゃあどういう意味?」
「…いや、なんていうの、誤報って言葉だと日常的によく使うし、切迫感が足りないじゃん?今の状況を云うにはさ」
「そうかな?」
「…だって今、夜だぜ?」

手にしていたスマホの画面を君に突きつける。
21:31。スマホのロック画面は、空の様子などお構いなく、淡々と時間を刻んでいる。

君はしばらく目をぱちぱちと瞬いて、それからこっちに笑いかけた。

「そういやそうだったね」

「…なんだよ。他人事だなあ」
「だって他人事だし」
「そうかあ?」
「他人事だよ」
君は言い切る。

「だって現に僕たち、自分で帰るように言われてるし、塾も普通にあったじゃん。大人も普通に仕事してるし、生活してるし。きっと、空が赤くなっても、僕たちには関係ないんだよ。…だからそんなことより、僕は明日の小テストが心配。今の単元、苦手なんだよなあ…」
「確かに…」

言われてみれば確かに、赤い空の下で、僕たちはいつものように塾を出て、2人で帰路についている。
周りの大人たちも普通に、いつも通り忙しそうだし。
車の通りもいつも通り。空が明るいからか、ヘッドライトのついた車が一つもないところは、いつもと違うけど。

「でしょ。だから、早く帰って明日の小テストの対策しないと」
「それもそうだな。帰ってゲームしよ」
「いや、テスト勉強しろよ!」
「やだよ、勉強した後に勉強すんの。大抵の学生は、塾から帰ったら勉強しないの。君が真面目すぎるだけ」
「わー、僕言ったからね?明日赤点取ってもし〜らねっ」

気にしなければ案外気にならないものだ。
足元も、表情も見やすいし、紅い空も悪くない。

「あ、もう家じゃん」
「話してるとあっという間だよね」
「だなー、じゃ、また明日。学校で」
「うん、また明日」
君はにっこりと笑う。

紅い空の下、自宅の門の前で、友人を見送る。
濃い影が、アスファルトに落ちている。新鮮な景色だ。
赤い空はどこまでも広がっていた。

5/21/2024, 2:00:49 PM

最初に見つけた時、水滴かと思った。
透明で、人差し指で潰せてしまうほど小さくて、弓形の半球型…見た目はただの一雫の水滴だった。
でも、居た場所が不自然すぎた。
その水滴は、教室の、隣の席の机の上に、ぽつんとあった。

その日、私は眠れなくて、学校に早く来た。
ハッカ飴を舐めながらたどり着いた教室は私が一番乗りで。ついさっき、教室の鍵を開けたところだった。

…おそるおそるその透明な何かに触れてみる。
弾性があった。ぶよぶよしている。
それは、私の指を避けるように体を引きずった。

気がつくと、私はその透明な何かをポケットに滑り込ませていた。

それから私と透明な何かの共同生活が始まった。
ヤツは妙なものだ。安全なのか、危険なのか。ましてや生体なのかすらも分からない。
何かある前に捨ててしまった方が賢明だ。
しかし、私はそうする気にはなれなかった。
小さな子どもが、自分で初めて取り出したラムネのビー玉を宝物にするように。
私はこの透明なぷよぷよに、妙な愛着を覚えていた。

透明なぷよぷよは、水滴のように動いた。
重たそうに体を引きずってするするとよく滑った。
透明なぷよぷよは、水滴を飲んだ。
水滴に近寄り、吸い付き、気がついたらその水滴の大きさ分、体が膨らむ。
ちょうど、水滴を指で繋ぎ合わせる時のように、透明なぷよぷよは、水滴分大きくなった。

私は透明なぷよぷよをポケットに滑り込ませて、いつも一緒に持ち歩いた。
そしてこっそり水滴を飲ませてやった。
透明なぷよぷよについて、誰かに話そうとは思わなかった。
…もともと、私は教室で息がしやすかった訳でもなくて、だから特段、この透明なぷよぷよを共有したいと思う人はいなかった。

私の助けのおかげか、透明なぷよぷよはどんどん大きくなった。
初夏の、若葉が日に光る頃、透明なぷよぷよはちょうど、両手で掬った水くらいに大きくなっていた。

「それでは出発です。遠足を楽しみましょう!」
教師の言葉で私たちは外へ出た。
遠足先は、地域の山。山道ハイキングと川でのフィールドワークを楽しむ遠足らしい。
そして昼食を取り自由行動をする山の中腹には、綺麗な淀があって、川に流れ込む美しい水が見られる、らしい。

ちょうど良い、と私は思った。
山中の綺麗な水は大層美味しいことだろう。こっそり水滴を飲ませてやるのも難しくなってきたし、今日はその淀でたっぷり水を飲ませてやろう。

そう考えて、私は昼食を取り終えるとまっすぐ淀に向かった。
淀の水は透明に澄んでいて、流れ込む川口の、白い水飛沫が美しかった。

私は透明なぷよぷよを掬い出し、淀に近づけた。
すると、透明なぷよぷよはするりと両手から抜け出し、淀の水の中に落ちた。
ぽちゃん、と言う音が響く間に、みるみる透明なぷよぷよの輪郭は水の中に溶けていった。
すうっと何もなかったかのように、あっという間に、透明なぷよぷよは、淀の透明な水の中に消えた。

「あ、無事に帰してあげたんだ」
振り向くと、隣の席のクラスメイトが立っていた。
「逃してあげたんだね。雷雨のたまご。」

「雷雨のたまご…だったんだ。あれ」
「そう。あれは川を流れて海を出て、大きな雨雲に孵るんだ。そして雨を降らす。…雷雨にまで育つかは分かんないけど、逃してあげたんなら、きっと雨にはなると思うよ」
「そっか」

空を見上げる私を見て、クラスメイトは可笑しそうに目を細めた。
「ね、惜しくなることを言ってあげるよ。雷雨のたまごってあれね、ハッカ飴の原料なんだよ」
クラスメイトの方に向き直った私を見て、クラスメイトはにっこりと続ける。
「あれを飴と混ぜてやると、白いハッカ飴になるんだ。美味しいんだよ」
「そうなんだ」
「そうだよ」

クラスメイトは、私の方に手を差し出す。
「好きでしょ?ハッカ飴」
思わず笑顔になってしまった。
私は、差し出された手を取る。

川のせせらぎが響いている。
淀の透明な水は、ゆっくりと確実に川へ流れ出ていた。

5/20/2024, 12:03:43 PM

窓から外を覗く。
重厚な扉だけが立派な、燃え古びた工場が見える。
山奥のこんな病棟に入院している今の私にとって、あの工場だけが、毎日の楽しみだ。

いつものように、工場から遊ぶ子どもたちの声が聞こえる。
少年2人分の。
小学校中学年くらいの、黒い影が、チラチラと工場の壁を走り回っている。

“理想”という言葉は、もともとはideaの和訳語だ。
火に当てられて洞窟に映る影の出来事は“理想”なのだ。

あの工場はずっとそこにあった。
ある日、家族が突然やってきて住まうようになる前も、なってからも。
…ある日突然工場が燃えても。

塗料工場だった。
家族が住み着く前、私はあそこを秘密の遊び場にしていた。
家族が住み着いてからも、私はたびたび遊びに行った。
…そこにあなたがいた。
影と遊ぶ、ideaから出てきたような理想のあなたが。

ideaは炎に照らされた影だ。
私たちが、洞窟の壁に見出す影で、私たちの生きる世界そのものであり、実在を持たない現実なのだ。

私がプラトンを読んだのはいつだったのだろう。
よく分からなかったけど、ideaの話だけは、私の琴線に触れて、昔も、今も、ずっと私の芯にある。

私は私のidea_理想が欲しかったのだ。

塗料工場には、有機塗料というものがあって、それはとてもよく燃える。だからもう工場に行くんじゃない!
大人たちは口を酸っぱくしてそう言った。
好都合だった。
だから私は思いついたのだ。

「火遊びをしよう」

あの工場の、あなたの手に届くようにライターを置いたのは私。
燃え盛る有機塗料のそばにマッチを投げ入れたのも私。
工場と、あなたと、影が、焼けると一緒に右腕を焦がしたのも私。

あれから私はずっとこの病気にいる。
精神病院隔離病棟。
不自然なほど明るい照明に、異常に清潔潔白な家具。
あの工場の扉ほどはありそうな分厚い鉄の重たいドア。
窓ははめ殺しで、頑丈な鉄格子に守られている。

私はここから出ていけない。

でも、私は満足だ。
明るく狭いこの洞窟の、律儀な鉄格子の岩肌には、ideaが映し出されているから。
理想のあなたがいつまでも、仲良く無邪気に走り回っているから。

私は幸せだ。

崩れかけた工場の瓦礫を飛び越えて、あなたが笑う。
影は肩をすくめて、あなたを追う。
理想のあなた。理想の影。理想の景色。
それはいつまでもずっと変わらない。

15年前に焦げた右腕が疼く。
マッチが擦りたい。
理想のあなたに、あの時みたいに近くに……

右腕を、爪を立てた左腕で抱きしめる。
ああ、理想のあなたたちの声が遠くに聞こえる。
ああ、私は幸せだ。幸せなはずだ。
自分だけのideaを持っているのだから。

右腕から滲む血が、微かに焦げた香りを立てた。

5/19/2024, 2:37:38 PM

永遠の絆。
あの日、彼女はそう言った。
私たちの関係を、私たちの仲を、彼女はそう表現した。

そんなものはない。
私はそう思ったけど、口にはしなかった。
そういうことは言うべきでないという思慮分別が、あの頃の私たちにはあった。

ロリポップチョコを手に取る。
彼女が好きだったものだ。

甘い。甘すぎる。
トッピングにつけられたスプレーチョコのチープな甘さが口の中に広がる。
口の中全体がこってりチョコ味に染まる。
…彼女らしい。

葉書を裏返す。
ボールペンを手に取って、書いた言葉を確認し、最後に署名_といってもペンネームのようなものだが_を書き添える。

“ウツボカズラ”
彼女と、みんなと出会った時に、私の名となったその花の名前を、未だに使っている。

“食虫植物”
これが私たちの名前だった。
熱く、長く、延々と語り合い、刺々しく、ギラギラと理想の音楽を追い続けた、あの頃の私たちは。

そんな関係性、長く続かなかったのだ。
充実して、濃くて、命を削るような習慣は、長続きしない。
私たちの関係は、結局のところ、社会の仕組みも知らない青二歳が、若いうちに精一杯やるような一夏の青春みたいなものだったのだ。
…それがここまで続いたのだ。十分長かった。

『突然の別れ』
マスコミはこぞって書き立てた。
ファンでいてくれた人たちは悲しげに呟いた。
彼女はヒステリックに叫んだ。
私たちはしみじみと話した。
「本当に突然だね。突然の別れ、でもしょうがないよね。さようなら」

私たちのメンバーの1人が失踪して、私たちが“食虫植物”から“友達”になって、別々に歩き始めてから、もう一年が経つ。

若気の至りの、モラトリアムの延長上の、青春のボーナスタイム。活動をそう考えていたほとんどのメンバーは、社会に凡庸な人として溶け込み、一般人へと戻った。私もそうした。

…でも、彼女だけは違った。
彼女だけは、今でも、“食虫植物”として生きている。
人々を惹きつけ、離さない。食虫植物として。
子供じみている。意地っ張りの少女みたいな行動だ。
でも私は、そんな彼女が好きだった。

彼女の声は綺麗だった。
当たり前だ。
彼女の声に一目惚れした私が、彼女を“食虫植物”にしたのだ。
彼女の声の魅力は、活動拠点をライブハウスや音楽番組から、ラジオのパーソナリティーに異動したとしても、変わらなかった。

だから私は彼女に、葉書を書く。
私は“突然の別れ”を受け入れてしまったつまらない大人だ。
一目惚れして引き込んだ人を支える責任を、最後まで持てなかった仲間失格の人間だ。

それでも私は、情けないことに、まだ彼女の声を支えたかった。
まだ彼女の声で、私の名前を呼んで欲しかった。

だから私は葉書を書く。
突然の別れなどなかったように、最初から他人だったかのように、名前だけが同じなただの一ファンのように。
私は今日も、彼女に葉書を書く。

口の中が甘ったるい。
彼女は甘いものが好きだった。特にチョコ。

切手を貼ろう。
水をつけた指の腹で、切手を撫でる。
ひんやりとした水が一筋、指をつたって溢れた。

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