窓から外を覗く。
重厚な扉だけが立派な、燃え古びた工場が見える。
山奥のこんな病棟に入院している今の私にとって、あの工場だけが、毎日の楽しみだ。
いつものように、工場から遊ぶ子どもたちの声が聞こえる。
少年2人分の。
小学校中学年くらいの、黒い影が、チラチラと工場の壁を走り回っている。
“理想”という言葉は、もともとはideaの和訳語だ。
火に当てられて洞窟に映る影の出来事は“理想”なのだ。
あの工場はずっとそこにあった。
ある日、家族が突然やってきて住まうようになる前も、なってからも。
…ある日突然工場が燃えても。
塗料工場だった。
家族が住み着く前、私はあそこを秘密の遊び場にしていた。
家族が住み着いてからも、私はたびたび遊びに行った。
…そこにあなたがいた。
影と遊ぶ、ideaから出てきたような理想のあなたが。
ideaは炎に照らされた影だ。
私たちが、洞窟の壁に見出す影で、私たちの生きる世界そのものであり、実在を持たない現実なのだ。
私がプラトンを読んだのはいつだったのだろう。
よく分からなかったけど、ideaの話だけは、私の琴線に触れて、昔も、今も、ずっと私の芯にある。
私は私のidea_理想が欲しかったのだ。
塗料工場には、有機塗料というものがあって、それはとてもよく燃える。だからもう工場に行くんじゃない!
大人たちは口を酸っぱくしてそう言った。
好都合だった。
だから私は思いついたのだ。
「火遊びをしよう」
あの工場の、あなたの手に届くようにライターを置いたのは私。
燃え盛る有機塗料のそばにマッチを投げ入れたのも私。
工場と、あなたと、影が、焼けると一緒に右腕を焦がしたのも私。
あれから私はずっとこの病気にいる。
精神病院隔離病棟。
不自然なほど明るい照明に、異常に清潔潔白な家具。
あの工場の扉ほどはありそうな分厚い鉄の重たいドア。
窓ははめ殺しで、頑丈な鉄格子に守られている。
私はここから出ていけない。
でも、私は満足だ。
明るく狭いこの洞窟の、律儀な鉄格子の岩肌には、ideaが映し出されているから。
理想のあなたがいつまでも、仲良く無邪気に走り回っているから。
私は幸せだ。
崩れかけた工場の瓦礫を飛び越えて、あなたが笑う。
影は肩をすくめて、あなたを追う。
理想のあなた。理想の影。理想の景色。
それはいつまでもずっと変わらない。
15年前に焦げた右腕が疼く。
マッチが擦りたい。
理想のあなたに、あの時みたいに近くに……
右腕を、爪を立てた左腕で抱きしめる。
ああ、理想のあなたたちの声が遠くに聞こえる。
ああ、私は幸せだ。幸せなはずだ。
自分だけのideaを持っているのだから。
右腕から滲む血が、微かに焦げた香りを立てた。
5/20/2024, 12:03:43 PM