薄墨

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最初に見つけた時、水滴かと思った。
透明で、人差し指で潰せてしまうほど小さくて、弓形の半球型…見た目はただの一雫の水滴だった。
でも、居た場所が不自然すぎた。
その水滴は、教室の、隣の席の机の上に、ぽつんとあった。

その日、私は眠れなくて、学校に早く来た。
ハッカ飴を舐めながらたどり着いた教室は私が一番乗りで。ついさっき、教室の鍵を開けたところだった。

…おそるおそるその透明な何かに触れてみる。
弾性があった。ぶよぶよしている。
それは、私の指を避けるように体を引きずった。

気がつくと、私はその透明な何かをポケットに滑り込ませていた。

それから私と透明な何かの共同生活が始まった。
ヤツは妙なものだ。安全なのか、危険なのか。ましてや生体なのかすらも分からない。
何かある前に捨ててしまった方が賢明だ。
しかし、私はそうする気にはなれなかった。
小さな子どもが、自分で初めて取り出したラムネのビー玉を宝物にするように。
私はこの透明なぷよぷよに、妙な愛着を覚えていた。

透明なぷよぷよは、水滴のように動いた。
重たそうに体を引きずってするするとよく滑った。
透明なぷよぷよは、水滴を飲んだ。
水滴に近寄り、吸い付き、気がついたらその水滴の大きさ分、体が膨らむ。
ちょうど、水滴を指で繋ぎ合わせる時のように、透明なぷよぷよは、水滴分大きくなった。

私は透明なぷよぷよをポケットに滑り込ませて、いつも一緒に持ち歩いた。
そしてこっそり水滴を飲ませてやった。
透明なぷよぷよについて、誰かに話そうとは思わなかった。
…もともと、私は教室で息がしやすかった訳でもなくて、だから特段、この透明なぷよぷよを共有したいと思う人はいなかった。

私の助けのおかげか、透明なぷよぷよはどんどん大きくなった。
初夏の、若葉が日に光る頃、透明なぷよぷよはちょうど、両手で掬った水くらいに大きくなっていた。

「それでは出発です。遠足を楽しみましょう!」
教師の言葉で私たちは外へ出た。
遠足先は、地域の山。山道ハイキングと川でのフィールドワークを楽しむ遠足らしい。
そして昼食を取り自由行動をする山の中腹には、綺麗な淀があって、川に流れ込む美しい水が見られる、らしい。

ちょうど良い、と私は思った。
山中の綺麗な水は大層美味しいことだろう。こっそり水滴を飲ませてやるのも難しくなってきたし、今日はその淀でたっぷり水を飲ませてやろう。

そう考えて、私は昼食を取り終えるとまっすぐ淀に向かった。
淀の水は透明に澄んでいて、流れ込む川口の、白い水飛沫が美しかった。

私は透明なぷよぷよを掬い出し、淀に近づけた。
すると、透明なぷよぷよはするりと両手から抜け出し、淀の水の中に落ちた。
ぽちゃん、と言う音が響く間に、みるみる透明なぷよぷよの輪郭は水の中に溶けていった。
すうっと何もなかったかのように、あっという間に、透明なぷよぷよは、淀の透明な水の中に消えた。

「あ、無事に帰してあげたんだ」
振り向くと、隣の席のクラスメイトが立っていた。
「逃してあげたんだね。雷雨のたまご。」

「雷雨のたまご…だったんだ。あれ」
「そう。あれは川を流れて海を出て、大きな雨雲に孵るんだ。そして雨を降らす。…雷雨にまで育つかは分かんないけど、逃してあげたんなら、きっと雨にはなると思うよ」
「そっか」

空を見上げる私を見て、クラスメイトは可笑しそうに目を細めた。
「ね、惜しくなることを言ってあげるよ。雷雨のたまごってあれね、ハッカ飴の原料なんだよ」
クラスメイトの方に向き直った私を見て、クラスメイトはにっこりと続ける。
「あれを飴と混ぜてやると、白いハッカ飴になるんだ。美味しいんだよ」
「そうなんだ」
「そうだよ」

クラスメイトは、私の方に手を差し出す。
「好きでしょ?ハッカ飴」
思わず笑顔になってしまった。
私は、差し出された手を取る。

川のせせらぎが響いている。
淀の透明な水は、ゆっくりと確実に川へ流れ出ていた。

5/21/2024, 2:00:49 PM