薄墨

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5/21/2024, 2:00:49 PM

最初に見つけた時、水滴かと思った。
透明で、人差し指で潰せてしまうほど小さくて、弓形の半球型…見た目はただの一雫の水滴だった。
でも、居た場所が不自然すぎた。
その水滴は、教室の、隣の席の机の上に、ぽつんとあった。

その日、私は眠れなくて、学校に早く来た。
ハッカ飴を舐めながらたどり着いた教室は私が一番乗りで。ついさっき、教室の鍵を開けたところだった。

…おそるおそるその透明な何かに触れてみる。
弾性があった。ぶよぶよしている。
それは、私の指を避けるように体を引きずった。

気がつくと、私はその透明な何かをポケットに滑り込ませていた。

それから私と透明な何かの共同生活が始まった。
ヤツは妙なものだ。安全なのか、危険なのか。ましてや生体なのかすらも分からない。
何かある前に捨ててしまった方が賢明だ。
しかし、私はそうする気にはなれなかった。
小さな子どもが、自分で初めて取り出したラムネのビー玉を宝物にするように。
私はこの透明なぷよぷよに、妙な愛着を覚えていた。

透明なぷよぷよは、水滴のように動いた。
重たそうに体を引きずってするするとよく滑った。
透明なぷよぷよは、水滴を飲んだ。
水滴に近寄り、吸い付き、気がついたらその水滴の大きさ分、体が膨らむ。
ちょうど、水滴を指で繋ぎ合わせる時のように、透明なぷよぷよは、水滴分大きくなった。

私は透明なぷよぷよをポケットに滑り込ませて、いつも一緒に持ち歩いた。
そしてこっそり水滴を飲ませてやった。
透明なぷよぷよについて、誰かに話そうとは思わなかった。
…もともと、私は教室で息がしやすかった訳でもなくて、だから特段、この透明なぷよぷよを共有したいと思う人はいなかった。

私の助けのおかげか、透明なぷよぷよはどんどん大きくなった。
初夏の、若葉が日に光る頃、透明なぷよぷよはちょうど、両手で掬った水くらいに大きくなっていた。

「それでは出発です。遠足を楽しみましょう!」
教師の言葉で私たちは外へ出た。
遠足先は、地域の山。山道ハイキングと川でのフィールドワークを楽しむ遠足らしい。
そして昼食を取り自由行動をする山の中腹には、綺麗な淀があって、川に流れ込む美しい水が見られる、らしい。

ちょうど良い、と私は思った。
山中の綺麗な水は大層美味しいことだろう。こっそり水滴を飲ませてやるのも難しくなってきたし、今日はその淀でたっぷり水を飲ませてやろう。

そう考えて、私は昼食を取り終えるとまっすぐ淀に向かった。
淀の水は透明に澄んでいて、流れ込む川口の、白い水飛沫が美しかった。

私は透明なぷよぷよを掬い出し、淀に近づけた。
すると、透明なぷよぷよはするりと両手から抜け出し、淀の水の中に落ちた。
ぽちゃん、と言う音が響く間に、みるみる透明なぷよぷよの輪郭は水の中に溶けていった。
すうっと何もなかったかのように、あっという間に、透明なぷよぷよは、淀の透明な水の中に消えた。

「あ、無事に帰してあげたんだ」
振り向くと、隣の席のクラスメイトが立っていた。
「逃してあげたんだね。雷雨のたまご。」

「雷雨のたまご…だったんだ。あれ」
「そう。あれは川を流れて海を出て、大きな雨雲に孵るんだ。そして雨を降らす。…雷雨にまで育つかは分かんないけど、逃してあげたんなら、きっと雨にはなると思うよ」
「そっか」

空を見上げる私を見て、クラスメイトは可笑しそうに目を細めた。
「ね、惜しくなることを言ってあげるよ。雷雨のたまごってあれね、ハッカ飴の原料なんだよ」
クラスメイトの方に向き直った私を見て、クラスメイトはにっこりと続ける。
「あれを飴と混ぜてやると、白いハッカ飴になるんだ。美味しいんだよ」
「そうなんだ」
「そうだよ」

クラスメイトは、私の方に手を差し出す。
「好きでしょ?ハッカ飴」
思わず笑顔になってしまった。
私は、差し出された手を取る。

川のせせらぎが響いている。
淀の透明な水は、ゆっくりと確実に川へ流れ出ていた。

5/20/2024, 12:03:43 PM

窓から外を覗く。
重厚な扉だけが立派な、燃え古びた工場が見える。
山奥のこんな病棟に入院している今の私にとって、あの工場だけが、毎日の楽しみだ。

いつものように、工場から遊ぶ子どもたちの声が聞こえる。
少年2人分の。
小学校中学年くらいの、黒い影が、チラチラと工場の壁を走り回っている。

“理想”という言葉は、もともとはideaの和訳語だ。
火に当てられて洞窟に映る影の出来事は“理想”なのだ。

あの工場はずっとそこにあった。
ある日、家族が突然やってきて住まうようになる前も、なってからも。
…ある日突然工場が燃えても。

塗料工場だった。
家族が住み着く前、私はあそこを秘密の遊び場にしていた。
家族が住み着いてからも、私はたびたび遊びに行った。
…そこにあなたがいた。
影と遊ぶ、ideaから出てきたような理想のあなたが。

ideaは炎に照らされた影だ。
私たちが、洞窟の壁に見出す影で、私たちの生きる世界そのものであり、実在を持たない現実なのだ。

私がプラトンを読んだのはいつだったのだろう。
よく分からなかったけど、ideaの話だけは、私の琴線に触れて、昔も、今も、ずっと私の芯にある。

私は私のidea_理想が欲しかったのだ。

塗料工場には、有機塗料というものがあって、それはとてもよく燃える。だからもう工場に行くんじゃない!
大人たちは口を酸っぱくしてそう言った。
好都合だった。
だから私は思いついたのだ。

「火遊びをしよう」

あの工場の、あなたの手に届くようにライターを置いたのは私。
燃え盛る有機塗料のそばにマッチを投げ入れたのも私。
工場と、あなたと、影が、焼けると一緒に右腕を焦がしたのも私。

あれから私はずっとこの病気にいる。
精神病院隔離病棟。
不自然なほど明るい照明に、異常に清潔潔白な家具。
あの工場の扉ほどはありそうな分厚い鉄の重たいドア。
窓ははめ殺しで、頑丈な鉄格子に守られている。

私はここから出ていけない。

でも、私は満足だ。
明るく狭いこの洞窟の、律儀な鉄格子の岩肌には、ideaが映し出されているから。
理想のあなたがいつまでも、仲良く無邪気に走り回っているから。

私は幸せだ。

崩れかけた工場の瓦礫を飛び越えて、あなたが笑う。
影は肩をすくめて、あなたを追う。
理想のあなた。理想の影。理想の景色。
それはいつまでもずっと変わらない。

15年前に焦げた右腕が疼く。
マッチが擦りたい。
理想のあなたに、あの時みたいに近くに……

右腕を、爪を立てた左腕で抱きしめる。
ああ、理想のあなたたちの声が遠くに聞こえる。
ああ、私は幸せだ。幸せなはずだ。
自分だけのideaを持っているのだから。

右腕から滲む血が、微かに焦げた香りを立てた。

5/19/2024, 2:37:38 PM

永遠の絆。
あの日、彼女はそう言った。
私たちの関係を、私たちの仲を、彼女はそう表現した。

そんなものはない。
私はそう思ったけど、口にはしなかった。
そういうことは言うべきでないという思慮分別が、あの頃の私たちにはあった。

ロリポップチョコを手に取る。
彼女が好きだったものだ。

甘い。甘すぎる。
トッピングにつけられたスプレーチョコのチープな甘さが口の中に広がる。
口の中全体がこってりチョコ味に染まる。
…彼女らしい。

葉書を裏返す。
ボールペンを手に取って、書いた言葉を確認し、最後に署名_といってもペンネームのようなものだが_を書き添える。

“ウツボカズラ”
彼女と、みんなと出会った時に、私の名となったその花の名前を、未だに使っている。

“食虫植物”
これが私たちの名前だった。
熱く、長く、延々と語り合い、刺々しく、ギラギラと理想の音楽を追い続けた、あの頃の私たちは。

そんな関係性、長く続かなかったのだ。
充実して、濃くて、命を削るような習慣は、長続きしない。
私たちの関係は、結局のところ、社会の仕組みも知らない青二歳が、若いうちに精一杯やるような一夏の青春みたいなものだったのだ。
…それがここまで続いたのだ。十分長かった。

『突然の別れ』
マスコミはこぞって書き立てた。
ファンでいてくれた人たちは悲しげに呟いた。
彼女はヒステリックに叫んだ。
私たちはしみじみと話した。
「本当に突然だね。突然の別れ、でもしょうがないよね。さようなら」

私たちのメンバーの1人が失踪して、私たちが“食虫植物”から“友達”になって、別々に歩き始めてから、もう一年が経つ。

若気の至りの、モラトリアムの延長上の、青春のボーナスタイム。活動をそう考えていたほとんどのメンバーは、社会に凡庸な人として溶け込み、一般人へと戻った。私もそうした。

…でも、彼女だけは違った。
彼女だけは、今でも、“食虫植物”として生きている。
人々を惹きつけ、離さない。食虫植物として。
子供じみている。意地っ張りの少女みたいな行動だ。
でも私は、そんな彼女が好きだった。

彼女の声は綺麗だった。
当たり前だ。
彼女の声に一目惚れした私が、彼女を“食虫植物”にしたのだ。
彼女の声の魅力は、活動拠点をライブハウスや音楽番組から、ラジオのパーソナリティーに異動したとしても、変わらなかった。

だから私は彼女に、葉書を書く。
私は“突然の別れ”を受け入れてしまったつまらない大人だ。
一目惚れして引き込んだ人を支える責任を、最後まで持てなかった仲間失格の人間だ。

それでも私は、情けないことに、まだ彼女の声を支えたかった。
まだ彼女の声で、私の名前を呼んで欲しかった。

だから私は葉書を書く。
突然の別れなどなかったように、最初から他人だったかのように、名前だけが同じなただの一ファンのように。
私は今日も、彼女に葉書を書く。

口の中が甘ったるい。
彼女は甘いものが好きだった。特にチョコ。

切手を貼ろう。
水をつけた指の腹で、切手を撫でる。
ひんやりとした水が一筋、指をつたって溢れた。

5/18/2024, 2:09:25 PM

「好きです!」
女子高生が屋上で、男子高生に向けて叫ぶ。
一瞬の間の後、女子高生があわあわと早口で言い募る
「あ、えっと、その、すみません!言うつもりはなくて…ちょ、あの、ごめ…
「謝らないで!」
間髪を容れず、相手の男子高生が叫ぶ。
…一瞬の間をおいて、男子高生が照れくさそうに首を撫でながら、
「実は俺も…好きだったんだ」……

この後の展開はページをおくらずとも想像できる。
互いに頬を染めながら付き合い、バカップル上等とばかりのデートを重ねて、イチャイチャと絆を深めて、最後には幸せなキスをして終了_

手元に置いた炭酸水を飲む。
無味だ。二酸化炭素だけが口内と喉を刺激する。

机の片隅で、ラジオが喋っている。
「__続いてのお便りは、ペンネーム、ウツボカズラさんから」

炭酸水は水の味しかしない。
目の前の、この作品みたいだ。
ストーリーは無味だ。絵の綺麗さだけが脳を刺激する。

左上に記載されたタイトルを見やる。
『ハッピーエンディング_小さな恋物語_』
起から結だけじゃなくタイトルまで、ベッタベタのテンプレの恋愛ストーリー。
エンタメ系の『恋物語』で散々見つかるパターンだ。

…いや、良いのだ。
所謂、こういう既視感のチラつくテンプレ恋物語は、それはそれで良いのだ。

基礎問題みたいなものだ。
公式(テンプレ)を当てはめるだけで、理解して楽しめる。基礎問題なら、時間も頭も無駄に消費せずに娯楽にかまけられる。タイパ社会における最高の餌なのだ、これは。
基礎問題は重要だ。これが分からなければ、応用問題の重厚な作品は楽しめない。
だから気軽に楽しめるこれにもまた、需要があるのだ。

…そう思わなくてはやってられない。

私はタッチペンを手に取り、液タブの画面に着地させる。
ページをおくり、次のページの下書きを丁寧に仕上げてゆく。

都会にはこんな基礎問題が溢れている。
消費せねばならないものに溢れているからだろうか。
タイパを気にして時間に追われているからだろうか。
基礎問題は他の媒体に形を変えるのも容易だからだろうか。
基礎問題なら、頭を使わずとも即時に娯楽の快楽に浸れるからだろうか。
都会には兎角この、基礎問題が溢れている。

その中でも特に多いのが、このありふれた恋物語だ。
そんな恋物語を作る仕事を、私はしている。
都会でエンタメを仕事にするってそんなものだ。

ラジオは良い。時代遅れのガビガビの音声。話題は素人のお便り頼り。
こんな生き急ぐエンタメに囲まれた都会にも、ラジオはゆっくりとした時間を届けてくれる。

炭酸水が、二酸化炭素を着々と気化していく。
泡が減ってゆく。
窓の外は、まだ明るい。忙しい街が眠るには0時は早すぎる。

「___それでは次のお便り__」

ラジオだけが、のんびり声を紡いでいた。

5/17/2024, 12:38:46 PM

全ての色が混ざり合うと、漆黒になるらしい。

遠くで、ウシガエルが鳴いている。

田舎の真夜中は漆黒だ。外には真っ暗闇が広がっている。

「__続いてのお便りは、ペンネーム、ウツボカズラさんから」
傍らのラジオから、ガビガビとした声だけが響く。

ラジオは良い。
日本国内のどんな辺鄙な土地でも、こんな片田舎でも、ラジオは電波を拾ってくれる。
真夜中の闇の中でも、ラジオはあたたかい人の声をあげつづける。

手元のノートに視線を落とす。
数式たちが細かく、所狭しと、びっしり並んでいる。
消しカスに埋もれた図形に、赤い直線を一本付け加える。

隣に積みあげた冊子の、一番上のものを開く。
奨学金ってものは調べてみれば、結構あるものだ。
下の一冊も開く。
衣食住+ライフライン。健康的で文化的な生活には、存外、維持費がかかるものだ。
狭い田舎から出る。自由になる。
言葉にするだけなら中坊でも出来ることだが、実行するにはよっぽど計画性がいるようだ。

かく言う僕も、きっと君と出会わなければ、ここを出ようと思わなかっただろう。

同じ年齢、同じ身長、同じ家族構成、似たような血筋…。
都会に住む、従兄弟の君。
住む場所が違うだけで、君と僕には天と地ほどの差があった。

君はなんでも知っていた。
自然の仕組み、食事のマナー、オシャレな着こなし、教養ある雑学…。
君は誰とでも仲良くなれた。
清潔な身だしなみ、温厚な性格、快活な身体…。
君は優しかった。
いつも、僕に惜しげもなく時間を割き、広い世界を、奥深い世の中を、見せてくれた。

「いつか一緒に行こう」
君はいつもそう言った。知らなかった事を目の当たりにする僕に向かって、心の底から。

僕は…僕はそんな君が大好きで、尊敬していて、大嫌いで、軽蔑していた。

…最後に君の顔を見た時、僕はどうしていいか分からなかった。
棺の中の君に会った時、いつも君と会っていた時よりもずっと、色んな気持ちが混じり合った。

なにも言葉にできなかった。涙にも口にもできなかった。どんな気持ちも。
黒だ。僕の色々な気持ちは混ざり切ってしまって、漆黒になってしまった。

それは今もそのままだ。
ずっと漆黒の真夜中みたいな気持ちのまま、もうすぐ僕は、大きな選択しなくてはならない。

…君が居た、一緒に行こうと言ってくれた、その場所へ行けば、僕の真夜中も明けるのだろうか。
もうずっと、そんな考えだけが、僕を突き動かしている。

僕は、僕の考えは馬鹿げているのだろうか。周りの大人が言うように。

ウシガエルが鳴いている。
蛍光灯がチカチカと瞬く。
窓の外には、漆黒の真夜中がどこまでも広がっている。
「__それでは次のお便り___」

ラジオだけが、ほんのりと熱を帯びていた。

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