『愛があれば何でもできる?ラブラブ♡街角カップル特集!!』
ゴシック体の文字が、水に滲んでいる。
ここに似つかわしくない。ここに足を踏み入れる人間の中で、いったい誰が読むというのだろう。
俺は読み捨てられた水溜りの雑誌に一瞥をくれ、路地に足を踏み入れる。
懐がずっしりと重い。
足が重たくなる。
いつものことだ。
いくら慣れても、向かう先がこことなれば、自然と靴はコンクリートに擦り付く。
俺に良心だの倫理だのが残っているとでも言うのだろうか、笑わせる。
「愛があれば何でもできる…ねぇ」
さまざまな愛の形が“公式”に愛と定義され、このご時世に愛は溢れた。
愛は素晴らしい!と信じてやまない純愛者の人々は皆、胸を張って言う。
“愛があれば何でもできる!”
路地は暗く狭い。
通行人の目も届きにくく、人の気配どころか、猫1匹見かけない。
仕事には格好な場所だ。
俺が思うに、“愛があれば何でもできる”なんて言葉は、あんな、社会で使われている様に明るい言葉でも、軽々しい言葉でもない。
“愛があれば何でもできる”は、愛する者のため、愛する者に相応しくなるために、何としても幸せと成功を手にしようと覚悟を決めた者を指す言葉ではない。
愛以外の何も気かけず、愛する者のために容易く一線を越え、人の尊厳も倫理もなく、合わせる顔すら持ち合わせない、惨めに落魄れた人以下の生き物を指す言葉なのだ。
…今の俺みたいな。
路地は深い。
足下を、何かがコソコソと走り去って行く。
今日は簡単な取引だ。この辺りでいいだろう。
俺は足を止める。
だいぶ奥まで来ていたようだ。奥の方から、怒鳴り声や呻き声が聞こえる。
くらりと脳を揺らすような匂いが、微かに香る。
「…案外、愛があれば何でもできるもんだな」
狭い空から、カラスの鳴き声が降ってくる。
ゴミ溜めを覆う空も、青く澄んでいた。
後悔はいつまで行っても後悔だ。
思い描いていたよりずっと狭いキャンパスを突っ切って歩く。
梅雨が近い春。カラッと晴れた真っ青な空が広がっている。
持ち上げた目線に、春の陽が刺さる。
日差しが眩しい。
受験に失敗して、第三志望くらいの大学に入学して1ヶ月が経った。
あの日、不合格がわかった日から燻っていた泥のような気持ちは、随分と軽くなった。
失敗の原因は単純だ。
私は頑張りきれなかった。だからこそ、この結果があり、今ここにいるということは、私も頭では納得している。
…けれど、どうしても考えてしまうものだ。
シラバスを確認した時。
講義室の前席に誰も座ろうとしないことに気づいた時。
キャンパスの壁のヒビに気づいた時。
就職実績の紹介をされた時。
…なんで私はここにいるのだろう、なんで頑張りきれなかったんだろう、と重たい後悔がのしかかる。
後悔はいつまで経っても後悔だ。
もう過去には戻れないから。後悔の原因を取り除くことはできない。
どこからか、小鳥の囀りが聞こえてくる。
こんな時は、友人が受験期間によく言っていた言葉が思い浮かぶ。
「大人はみんなさ、“失敗しても後悔のないように”って言うけどさ、無理だよね、そんなの。やっぱりさ、どんな失敗でも本気でやってれば、後悔はすると思うんだよね。…だって、本気でやってれば分かるもん。自分より上の結果出した人の努力とか、自分の不足してたとことかさ」
「…だから、後悔するなって結構プレッシャーだよね」
私たちのこと考えてくれて言ってるってことなんだろうけど、友人はボソリと付け足した。
その言葉が、ゆっくり心の傷口に染み込んでいく。
…その友人は、自分の希望を叶え、第一志望へと行った。
私はまだ、その友人に連絡が取れていない。
自分の心の狭さに、嫌になる。
…でも、友人のその言葉が、今の私の支えになっているのも、事実なのだ。
今日の空は青い。真っ青だ。
あの子は今、どうしているのだろうか。
良きキャンパスライフを満喫しているのだろうか。
…それとも、あの子も進路と受験のことを後悔することがあるのだろうか。
鳥の囀りが澄んだ空を舞っている。
私は校舎に向かって歩き出す。
大学生たちの騒ぐ声が青い空に吸い込まれていった。
アリが根付いている。
地面には、背高の、変わった形がにょきにょきと生えている。
木の根元の端、朽木の腹元…
木の枝に、トンボが根付いている。
湿った、ねっとりした空気が立ち込めている。
風が、ゆっくり抜けていく。
それほど爽やかでない、湿った風が。
ゆっくりと足を踏み出す。
風に身を任せて。
奥へ、奥へと歩くたびに、植物が増えていく。
根付いた生物たちは、背高の、てっぺんの傘を、風に任せて微かに揺らしている。
木々の梢に、リスが根付いている。
倒木の下に、イノシシが根付いている。
水辺の朽木の端に、カエルが根付いている。
何も考えなくていい。
ただ、奥へ、奥へ。
仲間の方へ。
風が緩やかに吹き抜けていく。
僕を追い越して、奥へ、奥へ。
湿った、日の当たらない、快適な場所へ。
ここまで来ると、大きなものも増えてくる。
オオカミが根付いている。
クマが根付いている。
風がそっと傘を揺らして、奥へ、奥へ、と進んでいく。
僕は風に身を任せて、ゆったり歩く。
もうすぐだ。
もう少しだ。
あと少しで、僕たちの親に会える。
みんなと一緒になれる。
風は僕たちの良き指揮者だ。
彼らの導くままに、身を任せていれば、僕たちは、広く、大きく、多くなれる。
世界を飲み込める。
全て一つになれる。
一にして全の、母なる大地になれる!
風に身を任せて、僕は歩き続ける。
湿った空気の中を、湿った風が、まだ小さい僕たちを乗せて、どこへともなく吹き抜けていく。
まだ幼い僕たち_キノコの胞子を乗せて。
せっかく、知能も高くて移動能力も高い体に行き着いたのだもの。早く行こう。
僕は湿ったゴールを目指して歩き続ける。
風に身を任せて。
周りの僕たちが一斉に揺れる。
胞子が、風に乗って、流れていった。
「ドラゴン討伐ぅ?」
予想外の話に、思わず素の口調で聞き返す。
「左様。ドラゴン討伐だ」
目の前の男が、真面目くさった顔で復唱する。
「嘘…?」
「私が嘘を言う人間に見えるか?」
「…」
ええ、とても…と口の中に生じた言葉を、なけなしの理性で飲み下す。
なにしろ、ビジネスの世界を、貧困からその身一つでのし上がってきた大商人なのだ。この目の前にいるヒトは。
機嫌を損なうのは賢くないが、正直にいえば、自分に都合のいい虚言や嘘の一つや二つは容易く吐きそうな人間ではある。
ここは都会のビジネス街。
ビジネスビルが並ぶ一角に、ひっそりと立つ安物のボロビル。そんな古びたビルの四階に、ひっそりとテナントを構えるのが、私の店【タイムロスト】である。
主に時間のトラブルを取り扱う時間専門店だ。
取り扱う仕事と立地の関係上、ここを訪れる人間は少ない。いつもなら、私の仕事はもっぱら、閉店時間まで、近場で腹を満たしながら店番をするか、店内外で暇を潰すことなのだが、今日はこの大口顧客のご来店で、その日常は脆くも崩れ去ってしまった。
眉を顰めて私を眺めていた大商人サマは、乾いたため息を一つ吐き、口を開く。
「…そんなくだらない嘘をついて何の利益があるというのだ、全く。…こうしている今でも貴重な時間が浪費されているというのに…」
どうやら心の裡を読まれていたらしい。
「…疑ってしまい、失礼しました。続きをお話しください」
客は不服そうに鼻を鳴らすと、話し始めた。
…客の相談は、よくあるパターンだった。
余暇の時間が定期的に盗まれているというのだ。
休日が一瞬で過ぎ行き、普段の家での休息もままならないらしい。
だから、盗まれ、失われた時間を取り戻して、ついでに犯人も捕まえたい。そういう、ヒトによくある依頼だ。
…確かに、大金持ちの余暇時間は需要が高い。
なんでもできるという万能感を伴う豊かな時間だからだ。おそらく、誰かの小遣いへと変えられているのだろう。
大商人なだけあって、この客は話している間も隙がない。
それは、相談しているこの時さえも、私の心の裡をピタリと読み取ったところからも分かるだろう……まあ、私が読みやすかっただけかもしれないが。
だからこの時間泥棒も、詐欺などの類ではなく、空き巣やコソ泥の手合いだろう。
…引っかかるのは。
気になっているのは、ドラゴンだ。
どうやら顧客は、時間を盗まれた感覚を覚えた時、視界の端にドラゴンが必ず写るというのだ。
玉虫色に輝く、小さいドラゴンが。
「分かりました。受けましょう」
私は言葉を継ぐ。
「…しかし、上手くいくという保証はできませんよ?ドラゴンが視界に現れるという状況は私は初めて聞きますし、私はドラゴンと戦ってこともございません。…もし上手くいかなかった場合、前金は戻って来ませんのでご了承を」
顧客は神妙に頷く。
「ふむ、正直な返答だな。気に入った。…ちょっとばかり顔が素直なだけで、頭は良いようだね、君は。…よろしい、任せるよ」
「ありがとうございます。では、この紙に…」
私は書類にサインを促す。
顧客が書き終えたところを見計らい、私は顧客の眼を覗き込む。
我も真も強い、力強い眼だ。エネルギーに溢れた、明るい眼。…しかし、虐げられたものが持つ特有の暗い影が奥底にチラついている。
面白い良い眼だ。さて、この瞳から時間を盗めた勇者は一体どんな奴なのか。
私は好奇を含んだ笑顔で、顧客に語りかける。
「それでは、承らせていただきます。…これからしばらく、お客様の失われた時間を取り戻すために尽力を尽くさせていただきます」
「ああ、頼むよ」
「…それでは失礼します」
私は大商人サマの眼に潜り込む。なんだかんだこの方法が、一番効率が良いのだ。…コストを気にする必要はあるが。
自分の輪郭が朧げに感じられる。
…顧客の失われた時間を探すため、私の失われた時間を活用しようではないか。
早く終わると良いな。
そう思いながら、私は店内を見回す。
顧客はハッとしたように首を傾けながら、店を出ていく。
カラン…ヒビの入ったドアベルが、中途半端に鳴り響いた。
重たいドアを開ける。
石油とシンナーの匂いがこびりついた空気が、むわっと広がる。
迷わず部屋に入り込み、一室の無機質なコンクリートの壁の前に行く。
そこには、黒い影がくっきりと貼り付いている。
小学生中学年くらいの背の高さの、黒い子どもの影だ。
いつからあるか、なぜあるのかは分からない。
でも、この影は、ずっとここにいた。…工場長が夜逃げして、工場が稼働を停止する前からずっとあった。
それに気づいていたのは、僕だけだった気がする。
ここの工場で勤めていた工場長の一人息子だった僕。
影に気づいたのは、僕だけだった。
影は、こちらに気づいたようだ。
右手を軽く上げて、手を振る。いつもの挨拶だ。
僕もいつものように手を振りかえす。黒い影は嬉しそうに揺れる。
僕が子どもの頃、両親はいつも忙しく働いていた。
両親は、僕に無関心だった。躾も身だしなみも勉強も何もかもほったらかされて、僕は育った。
だから、僕の遊び相手はもっぱらこの影だけだった。
両親がそんな親だった理由は、ずいぶん経ってから知った。
僕の両親には、到底返せない借金がいくつかあったらしい。両親は借金取りに言われた職場への勤務と夜逃げを繰り返しながら、全国を渡り歩いて暮らしていた。
自分の命を守るのに必死で、子どもに関わっている暇がなかったみたいだ。
両親が夜逃げをしてからしばらくは、サングラスやスーツをつけた大人たちが、よく来ていた。
でもそれも、ある日からぱったり来なくなった。
今、この工場は、僕と影は2人きりの貸切になっている。
「今日はおにごっこをしよう」
僕は影に声をかける。
影はゆらゆらと笑って、親指を立てる。
「じゃあ、いつも通り、僕が鬼ね!」
僕はゆっくり数を数える。
そういえば影は、僕と一緒に成長している気がする。
僕が赤ちゃんの時は、影も一緒にはいはいしてたし、僕が走れるようになると、影も一緒に壁の中を駆け回っていた。
でも、ある日、影の成長もぴったり止まった。
小学四年生の五月、中学年のその時に。
僕らはいつも遊んだ。
僕らの遊びはいつも、おにごっこかかくれんぼのどちらかだった。
それは今までもそうで、これからもそうだ。
ある日以外は。
ある日…厳つい大人たちがやってくるようになって、僕たちが小学四年生になって1ヶ月が経って、影が遊びが飽きたと初めて言ったあの日。
僕と影が、大人の真似をして“火遊び”をした日。
…あれから、僕らはずっと子どものままで。
それから、僕らを邪魔する大人たちも、ここに近寄らなくなった。
僕らはいつも子どものままで、子どものままの遊びをした。
僕も影も、もう大人の真似はうんざりだから。遊びでも大人を真似ることはない。
いつも。ずっと。
僕らはずっと子どものままで。
ゆっくり目を開ける。影が、壁を元気よく走っている。
僕は影を追いかける。
焦げた匂いが、僕らの足元から微かに香った。