「さがさないでください」
ゴワゴワの筆圧でそう書かれた紙切れが、木製のテーブルの上に置き去りにされている。
ひどい紙切れだ。切り離したであろう部分はところどころ千切れ、皺がより、修正したであろう部分の紙は薄く擦れたり、穴が開いていたりする。
朝起きてみたらこの有様だ。
今年に入っていったい何回目だろうか。
余計なことは言わないようにと引き締めた口元から、思わず低く呻き声が漏れた。
「またかよ、師匠…」
師匠は森番だ。
森番は、町のはずれにある小さな人工森の中に住み、森を管理する人間だ。町の人の要望に合わせて、木材を町へ卸したり、木や蔦で作る雑貨用品を売ったり、森の獣を狩り卸したり、害獣を駆除したりする。
迷い込んでくる旅人や、やんちゃの過ぎた町のガキを送り届けるのも、森番の仕事だ。
いわば森のなんでも屋。
俺はそんな仕事に憧れて、森番である師匠の元で、住み込みの弟子をやっている。
昔、俺は“やんちゃの過ぎたガキ”だった。
おとなしく出来の良い兄を持った次男坊の俺は、(どうせ俺は兄貴のオマケ。家を継ぐこともないミソっカス)という自己評価に忠実に、声のデカさだけが取り柄の、大人に怒鳴られてばかりの、かしましいガキだった。
ある日、いつもの虚言を発動し、家出をすると言って、森へ入って行方不明になった俺を、発見して、俺の話を全部聞いた上で、少ない言葉で優しく諭してくれた初めての大人が、師匠だった。
…それから、その次の日、俺はさっさと実家を立つと師匠の家に押しかけ弟子としてまんまと住み込んだ。
がっしりと男らしく、それでいて寡黙で、父性溢れるカッコいい師匠。
当時の俺にとって、そんな師匠は憧れだった。
…ところが、そんなイメージは、一緒に暮らし始めると、脆く崩れ去ることとなった。
師匠は確かに、大柄で厳つい顔でクマみたいだ。だけどイメージ通りなのはそれまで。
師匠が静かなのは寡黙なわけでない。
気が弱くて、声が小さくて、ぶきっちょ…それが師匠だ。
実力はあるのに気が小さいせいで、損をする。
そんなぶきっちょなクマ男が師匠だ。
客や商人から何か言われると、デカい肩を申し訳なさそうに縮めて、困った顔で頷く。見てられない。
…それが判明して以来、客との交渉は、俺がしている。
師匠のすぼんだ背中ごしに、声を張って俺は失礼なやつをやっつける。
また師匠は、家事が出来ない。
木や蔦の加工ならなんでも出来るくせに皿は割る。
家事などの雑務が全て俺の仕事になるまで、そう長くはかからなかった。
そんな現状に師匠は気を揉む。
住み込みの弟子とはそういうものだろうし、ましてや失礼を承知で飛び込み弟子入りを仕掛けた俺が、そんな待遇なのは当たり前だ。至極当然のことだと、俺は納得している。
だが師匠は気が小さい。俺に雑務をさせたり、客のあしらいを任せたりすることを必要以上に気に病み、ウジウジ悩む。
…そして
それが溜まりに溜まると、こうやって家出騒ぎをやらかす。
曰く「弟子に悪い」とか細い声で呟いて肩を縮め、壁にかけてある背嚢を背負い、磨かれた猟銃と、黄色い背の高い猟犬を連れて、グスグス出ていくのだ。
「はぁ…」
俺はドアの近くに寝そべる、がっしりずんぐりした俺の猟犬に声をかけて、猟銃を背負い、外へ出る。
師匠を回収しなくては。
森の真ん中の小高い丘へ行く。
ここから叫べば、声は森の全体に響き渡る。町一番のやかましやの俺の声ならば。
深く息を吸って、怒鳴る。
「師匠ー!さっさと帰ってこーい!!いいですか、俺は毎度師匠じゃなきゃダメなんだって言ってますね?!てめえから教えてもらえなきゃ、意味ないんですよ!!!出ていけば幸せってもんじゃねーつーの!!早く帰ってきてくだせえって、いつも行ってんだろうが、早よ出てこい師匠ーっ!」
俺は森の真ん中で、精一杯の声で愛を叫ぶ。
師弟愛を叫ぶ。
愛を叫ぶってのは、素敵な女性にしてやるのが相場だろうに、何が悲しくて俺はクマみてえな師匠に愛を叫んでいるのだろうか。
いやいや、俺は首を振る。
俺は師匠のことは嫌いじゃない。さっさと戻ってもらわないと心配だし、困るのだ。
…だから頼むからさっさと帰ってきてくれ。
…これだけ叫べば、もうじき、厳つい髭面と黄色い犬の細面が、ひょこっと木々の間から出てくるだろうな。
俺は気を紛らわすために、空を仰いで息を吸う。
うっすらと陽に透けた葉が、呑気にさわさわと動いた。
目の前をひらひらと白い蝶が横切っていく。
ありふれていて、忙しそうなモンシロチョウ。
珍しくも派手でもとりわけ美しいわけでもない、ちっぽけな蝶。
モンシロチョウの幼虫は、90%以上が幼虫のまま死ぬ。
キャベツ畑の中で。
寄生蜂に食い破られて、足を滑らせて地面に落ちて、雀蜂や小鳥に食べられて、病気になって、うまく育ちきれなくて…
蝶は思ったより育たない。
羽化できない虫たちは、ひっそりと力尽きる。
魔女って蝶みたいだ。キャベツ畑を横目に、畦道を歩きながら、私は思う。
魔女は生まれながらに奇跡を起こす力を持った子どもたちがいずれなるものだ。奇跡を起こす_魔力を持った子は、生まれと、育ちと、努力によって、大それた力を身につけた魔女になる。
魔女は“魔”のものだ。
魔物、魔王、魔獣…この世界で人を脅かすものが糧とするエネルギーの魔力を、私たちもまた糧にして奇跡を起こす。
それは、神や天使が起こす奇跡に仇なす力だ。
…神や天使を敬う、人間たちには疎まれる。
奇跡を起こせない、人間たちから畏れられる。
…もし魔女が蝶なら、私はきっとモンシロチョウだろう。
私は薬草の入った籠を背負い直す。
魔力も強くない、御呪いも魔法も占いも薬やポーションの調合も魔女並み程度にしかできない私。
羽化できた1%の成虫になって、人智を超えた存在として、生きのびることができた私。
でも、村人たちの信頼は勝ち取れず、魔女のイメージを覆すこともなく、ただただ毎日を過ごすだけの私。
村の人とは目が合わないように歩き続ける。
遠くに、賑やかに喋りながら行く、子どもたちの列が見える。勇者を目指して巡礼に行く、“下”の兄妹の子たちだろう。
春なのに日が強すぎる。今年も旱が来るだろう。
異常気象というのは、定期的にやってくる。
どれだけ運良く生まれた年が選べたとしても、生まれた子が大人になるまでに、必ず飢饉もやってくる。
それが自然の摂理だ。
だからどの年代にも、育ちきれない子はいるのだ。
魔女も、人も。
私は1人だ。ともに歩んできた魔女の子たちは生き残れなかったからだ。
魔力に食い破られて、魔女になるのを頑張りきれなくて、人間に目を付けられて殺されて、飢饉と病気に襲われて…
モンシロチョウの幼虫みたいに、減っていった。
“勇者”の列も、似たようなものらしい。
正義感の争いに負けて、耐えきれなくなって、魔物に殺されて、怪我や病気になって……
それでも、ほんの何人かは帰ってくることもあるらしい。
あの列の中にも、羽化する蝶がいるのだ。
ありふれていても、立派でなくても、生き延びる者がいるのだ。
「がんばれ」
そっと呟く。
強すぎる春の陽を背に、列が浮き上がる。
子どもたちの笑い声が、ゆっくり遠ざかっていった。
水墨画のような空が広がっている。
雲の隙間から、ほんの一筋の光が、地面に降り注いでいる。
天使の通り道だ。いつか教わった。
細い土の道はまだ続いている。
海はまだ見えない。僕たちの“約束の地”はまだ遠いみたいだ。
「大丈夫?疲れてない?」
後ろにいた女の子が、気遣わしげに声をかけてくれる。
僕より少しお姉さんの、背の高い女の子だ。
「うん。大丈夫。ありがとう」
足のマメが破けるのに気づかなかったふりをして、僕は答える。
長い列が続いている。
僕たち子どもだけの長い行列。
僕たちは巡礼に行く。“約束の地”でみんなの幸せを願うため、僕たちは歩き続ける。
“約束の地”は海の向こうにある。
海の向こうの、魔王の国の中にある。
“約束の地”に向かう道中の困難は、みんな与えられた試練で、乗り越えて帰って来た者だけが“勇者”になれる。
“勇者”は大きくなったら、みんなを救うために、魔王を倒す旅に出るのだ。
ここを歩く子どもたちは、みんな“勇者”になりたいのだ。
“勇者”はヒーローだ。“勇者”になれば、みんなの役に立てずにぼんやりと大人たちを眺めていなくてすむ。タダ飯喰らい、役立たずと怒られずにすむ。
自分の無力さに失望して、夜中を独り寂しく過ごすこともしなくてすむ。
だから僕たちは歩き続ける。
前を見たら、果てしない先が見えて辛くなる。
だから僕たちは出来るだけ下を見て、急いで歩く。
「…あっ!」
突然、先頭の子が顔を上げて足を止めた。
「見て!」
目の前の空を指差している。
僕たちも止まって先頭の子の指先を見つめる。
一筋だった光が、いつのまにか幾筋も現れ、地面に降り注いでいた。
灰色の雲の隙間から、暖かく輝く黄金の光の筋が、幾つも幾つもはっきり見える。
曇っているのに、晴れているみたいだ。
ほのかに輝く、空中が恐ろしく美しい。
「…神々しい」
誰かが言った。
そうか、神々しいってこういう時に使うんだ。
僕は妙に納得した。
他の子も僕と同じことを考えたらしい。
「神々しい!」
誰かが洩らせば、たちまちあちこちで、口々に「神々しい!」「神々しい!」とみんなが叫ぶ。
疲れ切っていたはずのみんなの顔が、心なしか柔らかい
…みんな笑顔だ。眩しいくらいの笑顔だ。
振り向くと、さっき声をかけてくれた背の高い女の子も笑っていた。無邪気で大人でかわいらしい、綺麗な…天使様みたいな笑顔で笑っていた。
みんな笑ってる。あの子も笑ってる。
神々しい光の前で、みんなが笑ってる。
…僕も笑ってる。久しぶりだ。
天使の通り道の前で、天使様みたいな笑顔を、みんなが浮かべている。僕もきっと、同じように笑っている。
…旅はまだ続く。海を渡らなくては、魔物のいる道中を通らなければ、僕たちは帰れない。きっとこれからも道は長い。
…でも僕は、この光景を忘れられないだろう。いつまでも。
みんなで天使のように笑いあった今を、忘れられない。いつまでも。
きっとみんなもそうだ。
くすんだ灰色の雲を割って、天使の通り道が、また一つ溢れ出る。
つむじ風が、笑い合う僕らの隙間を通り過ぎていった。
「流行ってるよね、それ」
肩越しにそんな声がする。
振り向いた私の手から、スマホが滑り落ちる。
「…った!」
スマホは見事に足の甲に着地した。痛い。
「…えー、そんな驚くことないじゃん。びっくりだよ」
元凶の彼女は目を見開いて、ニコニコと笑う。
その可愛らしいけど考えの読めない笑みに、私は拾い上げたスマホを握りしめて、ため息をついた。
「…なんでいるの」
「ひどいなー、一年ぶりに会うのにそんな態度なんて。傷ついちゃった♪」
「…いやだって、まさか今日来るとは……いや、ごめん」
「んー、そこで謝罪できちゃうところ、やっぱり良いよね。好きだわ」
彼女は冗談とも本気ともつかない声でヘラヘラと言う。
「やーっぱり、会いたくなっちゃうよねぇ。だって私に謝れちゃうんだもん。こんな子、他にいる?」
「…うるさい」
目に熱が溜まってきて、慌てて目を逸らす。
彼女…背後から現れたこの女子は、私の親友だ。
…四年前に突然行方不明になった、親友。
四年前、受験を控えたあの日、踏切で目撃されたのを最後に、見つからなかった親友。
その彼女がどういうわけか、毎年一回、30分だけ現れるのだ。
私の背後に。
そして、いつもの_高校生の頃のいつもの_ように、私の肩越しにスマホを覗き込んで、流行をチェックする。
「でも最近さー、流行りものもなんか違くない?魅力というかこう、惹きつけられるものがさ、年々弱くなってる気がしない?いやー、昔は良かったよねぇ」
やれやれと首を振ってみせる彼女に、私はわざとそっけなく言い返してやる。
「…へー、私はそうは思わないけど?…そんな流行りを貶して現役だった昔賛美するなんて、なんか捻くれ厨二か年寄りっぽいよね。一年でババくさくなってない?」
「いっやぁ〜?絶対昔の方が良かったし?それを素直にいっただけですがぁ?」
彼女は右の眉の端をピクリと引き上げながら、言い返す。
これはちょっとムキになった時の、彼女の癖だ。どうやら、年寄り扱いされるのは嫌らしい。この期に及んで、ブツブツと文句を呟いている。
元気そうだな、と思う。…今の彼女のこの状況に元気とかあるのかは不明だけど。
なぜそうなってしまったのか、どうしてこうなったのか、今までどこにいたのか、私はまだ聞けていない。
聞けない。怖くて。
文句はひとしきり言い終わったらしい。彼女がこちらを覗き込んで来た。
…こういう時、口火を切るのはいつも私だ。
「…元気にやってるみたいだね」
「そうだね、元気にやってるよ」
「そっか…」
「……ねえ」
彼女は眉根を下げて、ぎこちなく言う。
「…私に聞きたいこと、ない?今ならなんでも答えてあげるよ?タダで」
「…ううん、ない。いいよ」
彼女の顔がほんの少しだけ、歪む。…けれど、彼女の顔はすぐにあの食えない笑顔に戻る。
「そっか」
彼女に聞きたいこと、本当はたくさんある。
あの日、踏切で何をしていたの?とか。
今まで何をしていたの?とか。
なんで一年に一回しか会えないの?とか。
おばさんやおじさん…家族に会いに行かなくていいの?とか。
…なんで私に会いに来てくれるの?とか。
でも聞けない。怖くて。聞いて終えばもう二度と会えなくなる気がして。怖くて。
だから私は、彼女への疑問を全部、先送りにする。
いつ来るか分からない、まだ遠い、一年後に。
「…もう行っちゃうの?」
私の言葉に彼女は少し寂しそうな笑い方をした。
「…うん、また一年後ね」
「…うん、また一年後」
今年もまた、私は問題を一年後に託す。
突風に乗せられた、踏切の音が鼓膜に届く。
辺りの空気が少し冷えた気がした。
「好きだなあ」
口の端から零れ落ちた。
消しゴムやボールペンとは違って、言葉は拾って仕舞うことが出来ない。落ちた言葉は、そのままシンとした空気に染み込んでいく。
「本当に?」
彼女は、手元のノートからは目を離さずに、言った。
まつ毛が揺れる。
「うん、ほんとに」
僕は頭に血が昇るのを感じながら、できるだけ何気ないつもりで答えた。
「そっか」
彼女は眉根を持ち上げて、それから目線を上げて、こちらに目を合わせた。
「私も。好きだ」
そう言って、彼女は柔和に笑った。
柔らかな優しい笑み。いつもの頑なさなんて見えない、溢れるような笑み。見せる相手を気遣うような、余裕と暖かささえ見える笑顔。
その笑みの後ろで、耳は真っ赤に染まっている。
その瞬間、僕は_ありきたりな表現だけど_心臓が跳ねるのを感じた。
これが僕の、初恋の日。
元から、彼女の人間性には惹かれていた。だから、思わず零してしまった「好きだなあ」は嘘じゃなかった。
でも彼女が可愛くて堪らなくなったのは、その日からだった。
…なんで今、初恋の日を思い出してしまったのだろうか
1人きりの部屋の中で、僕は玄関に座り込む。
まだ起きるには早すぎる時間だ。でももう眠る気にはなれない。
「いってきます」
彼女が残していった声が、耳の奥でこだまする。
「…困った顔、してたなぁ…」
あの時よりもずっと、頼りない声が口の端から零れ落ちる。困らせたかったわけじゃなかった。初恋の日からずっと、僕は君の_彼女の、そんな性格が、そういうところが、誰よりも好きだった。
いきなりの告白の後に、相手を気遣って、自分の動揺や高揚すら押し込めて、相手のために笑える彼女が。
明日世界が終わるかもしれない日に、自分すら犠牲にして、あるかも分からない責務を果たそうとする彼女が。
玄関の扉はもう開かないだろう。
きっと、全てに片がつくまで、彼女は帰ってこない。
そういうところが好きで、ずっと、彼女の支えになりたかった。
でも。
視界が滲む。
腕の節々に内側から強い痛みが走る。
そろそろ逝かなくちゃ、彼女に迷惑をかけないうちに。
僕が、世界の崩壊の一部になってしまう前に。
僕は手を突いて、立ち上がる。
身体がぐらりと揺れる。
視界が揺れた端に、涙が零れ落ちた。