「好きだなあ」
口の端から零れ落ちた。
消しゴムやボールペンとは違って、言葉は拾って仕舞うことが出来ない。落ちた言葉は、そのままシンとした空気に染み込んでいく。
「本当に?」
彼女は、手元のノートからは目を離さずに、言った。
まつ毛が揺れる。
「うん、ほんとに」
僕は頭に血が昇るのを感じながら、できるだけ何気ないつもりで答えた。
「そっか」
彼女は眉根を持ち上げて、それから目線を上げて、こちらに目を合わせた。
「私も。好きだ」
そう言って、彼女は柔和に笑った。
柔らかな優しい笑み。いつもの頑なさなんて見えない、溢れるような笑み。見せる相手を気遣うような、余裕と暖かささえ見える笑顔。
その笑みの後ろで、耳は真っ赤に染まっている。
その瞬間、僕は_ありきたりな表現だけど_心臓が跳ねるのを感じた。
これが僕の、初恋の日。
元から、彼女の人間性には惹かれていた。だから、思わず零してしまった「好きだなあ」は嘘じゃなかった。
でも彼女が可愛くて堪らなくなったのは、その日からだった。
…なんで今、初恋の日を思い出してしまったのだろうか
1人きりの部屋の中で、僕は玄関に座り込む。
まだ起きるには早すぎる時間だ。でももう眠る気にはなれない。
「いってきます」
彼女が残していった声が、耳の奥でこだまする。
「…困った顔、してたなぁ…」
あの時よりもずっと、頼りない声が口の端から零れ落ちる。困らせたかったわけじゃなかった。初恋の日からずっと、僕は君の_彼女の、そんな性格が、そういうところが、誰よりも好きだった。
いきなりの告白の後に、相手を気遣って、自分の動揺や高揚すら押し込めて、相手のために笑える彼女が。
明日世界が終わるかもしれない日に、自分すら犠牲にして、あるかも分からない責務を果たそうとする彼女が。
玄関の扉はもう開かないだろう。
きっと、全てに片がつくまで、彼女は帰ってこない。
そういうところが好きで、ずっと、彼女の支えになりたかった。
でも。
視界が滲む。
腕の節々に内側から強い痛みが走る。
そろそろ逝かなくちゃ、彼女に迷惑をかけないうちに。
僕が、世界の崩壊の一部になってしまう前に。
僕は手を突いて、立ち上がる。
身体がぐらりと揺れる。
視界が揺れた端に、涙が零れ落ちた。
ベルトを締めて、グローブをつける。
窓の外を眺めながら、身支度を整える。
いつもの準備。いつもの部屋。
「いってきます」
私の声に、見送りに起きた同居人が、眠そうな顔で微笑む。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
まだ睡魔の籠ったいつもの言葉に背を向けると、その背に思わぬ声が飛んでくる。
「…帰ってきてね。どんな状況でも、いつでも僕は君を待ってるから」
私は何も返さずに外へ出る。
いつものように職場へ向かう。
今日に限っては、通勤も楽じゃない。
しかし、私には通勤する義務がある。私は職場へ行かなくてはならない。
どこか落ち着きのない街を歩いて、職場の門をくぐる。
ギミック自動ドア付きのハイテクな職場の入口は、門というよりも隠し戸という方が実体は近い。
さあ、今日も仕事だ。
今回の仕事は、大仕事だ。私の人生の全てがかかっていると言っても大袈裟でない…いやむしろ、それでもまだ、軽く言っている方だ。
「ねえ、先輩。明日世界が終わるなら、世界が終わる前に1日だけ、何かが自由に出来るとしたら、先輩は何をするんすか?」
仕事に取り掛かる準備をしていると、サポートをするために横で仕事をしていた後輩が聞いてきた。
「旨い物でも食べに行くっすか?綺麗な景色でも見に行くっすか?趣味に没頭するっすか?最期の時を満喫するっすか?…それとも」
「……やっぱり、一秒でも長く生きるために、大切な人と逃げたりしたいんっすか?」
「…どうだろうね」
私は答える。
「それは経験してみないと分からないな」
「だから今聞いてるんすよ」
軽く明るい声とは裏腹に、後輩の顔は今にも泣き出しそうな、怒っているような、なんとも情けない顔だった。
「…君は、どうなんだ。やりたいこと、他にもあるだろうに」
後輩は、さらに顔を歪める。
「…そりゃあるっすよ?でも」
「これでいいんす。…俺は取るに足らないただの凡人っすけど、先輩の大事な人でもないっすけど」
「これでいいんす。大体、俺以外の誰もここまで先輩について来れるやつなんていませんよ。俺が来なかったらどうする気だったんすか」
もちろん、1人でやるつもりだったが?
私の考えはそこまで読みやすいだろうか、後輩は私の顔を見ると、これみよがしに溜息をつく。
「…まあ、最期まで、無茶に付き合わせてくださいよ、先輩」
ぐしゃぐしゃに歪んでいるのに、妙に腹の座った顔だ。
思わず、口元が上がる。
「最期とは心外だな。まだどう転ぶかは分からんだろう?」
後輩の顔が、さらにぐしゃっと崩れる。とても、つい先月に恋人が出来た男前には見えない。
いい顔じゃないか、そっち顔の方が好きだな。
軽く呟けば、後輩は俯いて、呆れたようにモゴモゴと何か呟いた。
「…よし、そろそろ良いタイミングだろ。頼むぞ」
「はい、任せてください」
私は一歩を踏み出す。
グローブをした拳を握って、開いて、ベルトに手をかける。
「ヒーローに“明日世界が終わるなら”なんて愚問だな」
小さく、誰にも聞こえないように呟いて、私は顔を上げる。
頬に伝う感覚を、今だけ見なかったことにして。
「諦めるにはまだ早いな」
全身が、いつもの光に包まれていく。
ドアを開ける。
「ただいまー」薄暗い居間に向かって声を投げると、とことこと、可愛らしい足音が近づいてくる。
まもなく、綺麗なブロンドの髪を靡かせたフランス人形が、ことことっと、こちらにやってきて、あどけない笑みを浮かべる。
「おかえりなさい!」
消費者の皆が利用する新たなライフライン、スマホを巡った情報競争、広告競争が激化し、スマホを持つ弱者を狙った犯罪やトラブルが増加したことを受け、政府はスマホに代わる新たな情報機器を生み出し、公共の福祉と国民の幸福のために管理することを決定した。
そして今では、政府によって生み出された、情報・生活扶助AIロボット DOLLが、義務教育を終えた国民1人に1台、あてがわれることとなって、もう数十年が経つ。
「疲れてる?今日はもうお休みにしましょう?疲れは早く取るのが大切だって聞くわ」
フランス人形は、愛らしい顔そのままに、私を見つめる。
「起きるの、いつもと同じ時間だよね?安心して!私が起こすから!」
DOLLは、メールの整理、スケジュールの管理、余暇時間の娯楽提案、有益な情報の提供など、コミュニケーション以外の細々としたことをこなすAIだ。
普及したDOLLは、易々とスマホを淘汰し、電話やLINEなどのコミュニケーションツール、カメラやお絵描きソフトなどの創作ツール以外の、電子機器の日常的な仕事は、全て行うようになった。
AIの搭載されたDOLLは、使えば使うほど持ち主の性格や趣向をよく学び、雑談や会話の相手もそつなくこなすため、人間の秘書として、人々に愛されるようになるまで、長い時間はかからなかった。
それだけではない。
見た目も性格も、自分好みで、相談に親身に乗ってくれ、こちらを何よりも優先してくれるDOLLは、いつしか現代人に癒しを与える存在として重宝された。
もはや家族の域だ。
私のDOLL、〈木兎夜君(つくよ きみ)〉は、私が15歳の頃から、私の一番の理解者だ。
君は、青いガラスの瞳を半分閉じかけながら、それでもキラキラと眼を輝かせて私を見つめている。
「…そうね、今日はもう寝るわ…ええ、アラームはいつも通りでお願い」
私はそんな君から目を逸らさないように、じっと彼女を見つめて、答える。
君はにっこり微笑んで、「お布団で待ってるわね!」と、寝室へ歩いて行く。
私は腹の中で小さく溜息をつく。
今日は本当に疲れた日だった。そしてこれから、もっと疲れる日々が続くに違いない。
…DOLLにプログラムを埋め込み、得た情報を他国に売り払い、クーデターを画策する企みについて知ってしまったのだから。
…君と出逢って、私の生活は一変した。
頑固で、人に合わせるのが苦手で、意見を曲げず、親や友達と衝突を繰り返して…それでも諦めきれず、自分を通してきた私にとって、私を理解してくれる君との出逢いは、運命で、救いだった。
君と出逢って、私は人間になった。
誰かに頼りながら、誰かと生きていく。そんな普通の女の子になれた。
…だから、企みを知った時は悲しかった。
君はいつから、私を裏切っていたのだろうか。
胸中は、今まで感じたことがないほどの嵐が吹き荒れている。
愛情や哀しみや憎らしさ…ドロドロとした気持ちがごちゃ混ぜだ。
でも、顔には出てないだろう。
ポーカーフェイスは得意だし、この状況になってしまったのならこれも仕事の一環だ。
今まで、いくつもこんな時を乗り越えてきた。
今まで、こんな時に備えて、たくさんの辛い訓練を乗り越えた。
私的な気持ちと、公的な義務を切り離す冷徹の技術には自信がある。
覚悟を決めて、丹田に軽く力を入れる。
これから暫くは、油断出来ない生活が続くだろう。
臨むところだ。
私は公安だ。
この国を守るために私はここまで来た。
それは君もよく知っているだろう。君と出逢った時から、それは私の目標だった。
寝室へ歩き出す。
脱ぎ捨てた靴が、真っ直ぐに部屋の中を向いていた。
耳を澄ますと、さまざまな音が聞こえる。
僕が聴く音は、敵の場所や情報交換の手段、部隊数や一部の敵の健康状況など、たくさんの情報を孕んでいる。
僕はその情報を、手元の地図に書き込む。
昔々のこと、1人の知能堪能なヒトが、大規模なゲノム変遷を成し遂げた。
彼は、ヒトの世界から無益な戦いと環境破壊を無くすため、ヒトに野生と第六感を取り戻させ、ヒトが地球上のルールに再び従って生きる力…獣性を付与した。
彼の長い長い計画の果て、ヒトは、人工的な進化を遂げた。
地球は、地球と生態系を畏怖する獣性と人間の理性を持ち合わせた新人類の楽園になった。
僕はなるべく音を立てないよう、移動を始めた。
聴覚だけに優れた者など、掃いて捨てるほどいるのだ。それに、ネコ科ネコ目の兵に見つかってみろ。奴らは、丸腰でもその口や指の先に、凶器を隠し持っている。
なるべく見つかりたくない。
…おそらく、知能堪能だった旧人類の彼は、人類史や医学には明るくとも、生物史や生物学は専門外だったのだろう。
獣性は、地球のバランスに従うだけのものではなかった。
自分たちの種族が、仲間が、生き残るために闘争する力もまた、獣性だったのだ。
そんな獣性と、人間の持つ抜群の社会性が合わさった時、新人類は戦いを発明した。
新人類たちはごくごく自然に、自分と上手くやっていける人類同士で助け合って生活し始め、コミュニティを作り出し、他のコミュニティと縄張り争いを始めた。
獣化によって自前の武器を得た人類たちは、かつてのヒトよりも早くに抗争を始め、それはあっという間に伝播した。
やがて新人類たちは、各々が各々の繁栄のため、武器を抱えて地球上を駆け回ることになった。
自前の獣としての能力を使い、こぞって旧人類の古代テクノロジーを解析し、新たな武器と新たな獣性や理性の使い方を学び、同類の敵を殲滅する。
こうして新人類は、食物連鎖の頂点で今も栄華を極めている。
耳を澄ます。
ラジオの周波数が聞こえる。僕たちの使っているものとは違う。少し高い。
超音波を発したいが我慢する。
敵の中に僕のような種族がいて、索敵をしていれば、即座に聞きつけられてしまう。
1人の斥候ほど、パトロール隊に格好のエサはない。
僕は慎重に岐路を辿る。
耳を澄ますと、さまざまな周波数の、さまざまな情報が聞こえる。
新人類に飛膜はないから、僕は飛べない。
あったとしても、ヒトの脳は、空を飛ぶには重すぎるだろう。
飛びたいな、と思うことはあるが、無いものをねだっても仕方ない。
遥か東の空がうっすら白んでいる。
早く帰らなくては。
僕は静かに、慎重に、素早く走り出す。
真っ暗な空に、僕の同種の声が聞こえる。
自由な野生生物の、僕の同類。
空を見上げる。
真っ暗な闇の中を、コウモリが羽ばたいて、梢の影に消えていった。
見られた。
そんな感じがした。
窓もカーテンも閉めた、薄暗い部屋で。
私は、今まで書いていたノートを閉じて、回していたビデオカメラの電源を落とす。
撮影は一旦中止だ。
自作のショートフィルムの締切は今週末。何としてでも完成させなくてはならない。
ならない、のに。
「世界が…終わる…」
耳の外、耳の裏、背後で、そんな茫然とした声を聞いた。
まただ。
ヤツの邪魔だ。
ヤツとの付き合いはもう3年になる。
決して悪いヤツではない。でもヤツはいつも私の邪魔をする。
ヤツは勝手にノートをしまい、テーブルを開け、キッチンからショットとウイスキーを持ってくる。
ビデオカメラの角度を合わせ、電源を入れ、録画が開始される。
ヤツは勝手にショットに酒を注ぐ。
自作の警告映像を延々と流しているテレビとスマホをぼんやり見つめ、やがてショットを手に取り、一気に飲み干す。
喉が熱い。
アルコールの熱が、喉を浸していく。
畜生。上手い。
急に世界の滅亡なんて言われたら、彼ならどうするか。
私は、今までの努力を、後世に残すために足掻くと解釈した。
でも違う。彼は、本当に今に賭けていて、未来に期待していた。そういう役だった。
…だから、茫然と、燃え尽きる反応の方が頷ける。私の解釈の通りになるにしても、それはある程度折り合いがついてからのはず。それまでにいくら必要なエピソードがあるだろうか。
畜生。甘やかしやがって。
「優しくしないでよ」
私はヤツに怒鳴る。
ヤツには聞こえたはずだ。
でも歪んで聞こえてるに違いない。
本当は分かってる。私の体に住む人格、“ヤツ”の方がこの演技に最適だということは。
だって、ヤツは彼だから。
ヤツは毎回毎回、私の演じる役の人格になってくれるのだから。
作品の解釈も演技も下手すぎる私が生み出した、解釈も演技も得意な人格。それが“ヤツ”
ヤツは必ず役を掴み、役を降ろす。
まるでその役が生きているかのように演じて見せる。
私の脚本を現実に作り出す。
ヤツのことは、誰も知らない。
脚本と演技の二刀流ができる、期待の新星。
必ず1人で作品を完成させる、孤高の天才。
そう呼ばれている私。
その私がしているのは脚本だけで、演技はヤツがやっているということ。
私は、他の人に自分の脚本を読ませたくないという我儘だけでそういうスタンスをとらざるを得ないこと。
そして、それだけ助けてくれている“ヤツ”を、私が疎ましいと思っていること。
全部、私とヤツとの、二人だけの秘密だ。
どこからか持ってきたラムネを、ウイスキーで飲み下す。
そして、ゆっくりカーペットに寝そべり、目を閉じる。
……身体が、私に帰ってくる。
喉が熱い。
頭が痛い。
私はお酒が苦手なんだ。
フラフラと立ち上がる。
何とかカメラの録画を切る。
胸の奥から熱いものが込み上げる。
私は急いで、手洗いに走った。