閉め切ったカーテン。薄暗い部屋の中。
テレビもスマホも、同じ画面で同じ警報を吐き出している。
僕は、机の上のショットに手を伸ばす。
琥珀色の液体を一気に流し込む。
喉に焼けるような熱さが走る。アルコールの香りが、ツンと鼻を抜けていく。
耳の中に煩雑な音が回っている。
頭が痛い。
「優しくしないで」
煩雑な音の外、耳の裏、背後で、途中で音を落っことした、囁き声が聞こえた気がする。
ブルーライトが目に痛い。
映し出された、固い敬語の、諦めたような潔い白抜きの文が、ゆっくり、ゆっくりと画面を流れてゆく。
僕の目は、文字を追うこともできず、ただただテレビ画面を眺める。
閉め切ったカーテンの外は、不気味に静まり返っている。
機械的な警報の唸り声が聞こえてくる。
子どもの頃、世界の終わりについて考えてみたことがあった。
この世の滅亡の日、自分は何をするのか、何を思うのか、最後に何を食べるのか…想像した。
まさか今、この瞬間に、本当にそんな状況を経験するとは思わなかったが。
ショットに琥珀色の液体を注ぐ。
縁まで注いだ液体を飲み下す。
「優しくしないで」
まただ。また聞こえる。
音の中ほどを落っことす、たどたどしい声。
どこか優しくて、まどろっこしくて、甘い声だ。
「優しくしたら辛いから。優しくしないで」
そんなものだろうか、そんなものなんだろうな
「優しくしないで。優しくしないで。優しくしないで。さよなら」
さよなら
尚も言い募る声と、絶えず耳の中に居座る煩雑な音。
鬱陶しいほどに脳に響く。
ショットに酒を注いで飲み下す。横に置いておいた“とっておき”を手に取る。
アルコールに脳が揺らぐ。
耳の奥がシンと鎮まる。
目の前が霞んで、ほうっと息が出る。
無音の中に小さな覚束ない声が、はっきりと聞こえる。
「勇気を持って。優しくしないで。会いに来て。さよなら」
「ああ、さよなら」
僕はゆっくり目を閉じた。
瓶の中から、ショッキングピンクの丸い風船ガムを一つ取って、口の中に放り込む。
奥歯でがりりと噛み砕けば、色相応のケミカルな味が、口の中いっぱいに広がる。
いつまでも変わらない、ケバケバしくて懐かしい、安定の味だ。落ち着く。ホッとする。
俺はもう一度、カラフルな瓶の中に手を突っ込み、オレンジ鮮やかな風船ガムを取り上げる。
「…ん」
隣に項垂れたままの、青白く細いアイツの手に差し出す。
「え…あ、ああ、ありがとう…」
アイツは戸惑いながら、一応受け取った。
「それ、風船ガム。味がしなくなるまで噛むんだ。…間違っても、呑むんじゃねーぞ」
「…食べ物なんですよね?それ」
アイツは怪訝そうな顔で、ガムを噛み始める。
「…ん、なんかこってり甘い?化学的といいますか、変な味ですね。……何からできてるんだ、これ」
神妙な顔でじっくりとガムを味わうアイツに、俺は笑う
「それ、消化すると毒だぜ。呑んだら終わり」
「ええっ!?」
アイツは慌てて口に手を突っ込もうとする。
「ははっ、冗談だよ。呑んでも別に何も起こんねえよ。糞に混じって出てくる」
「…な、なんだ。脅かさないでくださいよ。ま、まあそんなことだろうと思いましたけど!!…」
しばらくガムを噛み締める。
「なあ」
「…」
「正当防衛だからな。気にすんなよ」
「…き、気にしてませんよ、あんな奴…」
震える声でアイツが答える。
「…そうかよ」
口の中で、ガムがいい塩梅に柔らかくなった。
俺は、ガムを口の中で捏ね回し、舌にガムを巻きつける。
「気にしてないんです、本当に。これで良かったんです。だって、これで、僕は解放されたんです。もう期待に応えなくていいし、打たれることも、食事なしで閉じ込められることも、虫を食わされることもないし、うん。これで良かったんです。これで…」
アイツは喋り続けている。
初めてガムを噛むのに、随分と口が器用なやつだ。
俺はアイツの方に向き直る。
アイツは俯いて、ぶつぶつと呟いている。
「なあ」
アイツが顔を上げる。
俺はガムに息を吹き込む。
ガムはぷくぅと膨らんで、うっすら桃色の風船になる。
「わあ…」
アイツが目を見張る。俺はすかさず、もっと息を吹き込む、吹き込む……
パンッ
「わあっ!?」
破裂した風船ガムにアイツはたじろぐ。
そして…俺の顔を見て大笑いしだした。
…俺は、顔に張り付いたベタベタのガムを引っ張りながら「うえっー…調子乗りすぎちったよ」と顔を顰めて見せる。
アイツは笑いながら、水道へ俺を連れていき、ティッシュを使って、一緒にガムを取りだした。
「なあ」
「なんです?…あ、ガムだいぶ取れましたね」
「ああ、ありがと。…でな」
「はい」
「これ、やるよ」
俺は、風船ガムの入った瓶を差し出した。
丸い、カラフルな、自己主張が激しくてケバケバしくて…本当に色とりどりなガムが入った瓶。
「…いいんですか?」
「ああ」
アイツは微かに口角を上げた。
「…ありがとうございます。……では、さよなら」
「ああ、またな」
アイツは背を向けて歩き出す。
「ヨーゴシセツでも、上手くやれよー!」
俺はその背に声をかける。
アイツは、振り向かなかった。
ただ、右手にカラフルな瓶を掲げて、軽く振った。
から、ころ
カラフルなガムたちがぶつかり合う音が、聞こえた。
巨大な蜻蛉が、羽を震わせている。
瑞々しい空気の中で、シダ植物が地面を覆っている。
私は、青々と茂った植物たちが作り出す、一面緑の景色を眺める。
息を吸う。新鮮な酸素がたっぷりと肺に滑り込む。
目の端には、前に落とした10円硬貨が、すっかり錆びついている。
目の前に広がる大森林たちは、いずれ、石炭になり、燃やされ、全てのエネルギーの始祖となる。
ここは古生代石炭期。正確には、時空の歪みで古生代石炭期に繋がっている部屋の中、である。
ここは、植物の楽園であり、昆虫の楽園であり、そして、私の楽園だ。
巨大な昆虫たちが、空を、陸を、葉の上を蠢いている。
植物たちが風に合わせて、一斉にゆらめく。
泉は植物たちの影で、ひっそりと朝露を受け取り、波紋を浮かべる。
熱中症待ったなしの、夏のようにじっとりとしたこの蒸し暑ささえも心地よい。
私は深く息を吸う。
くらり、と視界が揺れる。
心地良い。
私は何度も息を吸う。
その度に、爽やかな酸素は、私の肺に流れ込む。
酸素が見えてくるようにすら感じる。いや、私には見える。
現代では、私を必要としている人は誰一人いない。
兄弟の中でただ一人、受験に負け続けた人間。
人間関係を構築するのも下手で、扱いにくい人間。
好きなことも得意なこともない無味な人間。
とうとう生きるための呼吸すら上手くできなくなった、出来損ない人間。
そんな私を必要とする人は誰もいない。
…最後のチャンスで失敗し、家族からさえ、失望されてから、私は上手く息が出来なくなった。
いや、息はできるのだ。息はできるけど、酸素が入ってきてくれない。
治してくれる人はいなかった。
私を心配してくれる人もいなかった。
だから私はこの時代を見つけた。
私は深く深く息を吸う。
甘い酸素が肺の奥まで入り込む。胸が塞がる。
私の楽園はここだ。
私は永遠にここにいる。
深く深く息を吸う。
10円硬貨が見えなくなる。
深く深く息を吸う。
何かが腹から込み上げる。
深く深く息を吸う。
指先から震えが走る。
深く深く息を吸う。
気が、、、遠くなる、、、
意識、、が、、、遠ざかる、、、、
ああ、ここは私の楽園。だって空があんなにも美しい。
蜻蛉が羽をはためかせ、かもめのように遠ざかっていく。
シダの葉が大きく揺れて、一滴の朝露を落とした。
子どもの声が聞こえる。
どんよりと、のしかかる灰色の雲をつんざくように、笑い声が飛び交う。
足元では、溶けかけた飴を運ぶ蟻たちが列をなしている。
俺は、公園のベンチに座り、履いてきた革靴の爪先を、地面に擦り付けている。
手に持ったペットボトルのキャップを捻り、中のスポーツドリンクを流し込む。
スポーツドリンクは酔いが回りやすいので酒とは飲み合わせが悪い、というのはデマ情報らしい。
アルコールによる喉の渇きに、スポーツドリンクのウリである、ミネラルや塩分といったものは不必要らしいが、だからといって、スポーツドリンクがアルコールを吸収させやすくするかといったら、そうでもないらしい。
…スポーツドリンクメーカーが、こぞっていう情報なので信用しきれない、と考えて、そこで自分の捻じ曲がった性根に気づく。
爽やかな口の中に、苦々しいものが混じった気分だ。
祝日。連休。国民の休日。
社会人にとって暇を持て余すような1日に、狙いすまして企画された同窓会を抜け出して、俺は1人、公園の蟻を見つめている。
性根が捻じ曲がっているからだろうか、それとも大人になるということはこういうことなのだろうか。
同窓会は大して楽しくなかった。
近況報告から始まる生活水準の探り合い、“ロマンティックな再会”目当ての現実主義者の睨み合い…
そんなギラギラの野心を剥き出しにした同級生を中心に、過度に美化された“青春”と称される思い出話が始まった時には、もう耐えきれなくなって、出てきてしまった。
あの時の友情に泥水をかけられた気分だ。
そう思いながらベンチに腰掛けて、目に入ったピカピカの革靴に、自分も同級生の目を気にして見栄え良くしていったのだ、ということに気づいて、非常に情けなくなった。
まだ大して飲んでいないはずなのに、脳がぼんやりと揺れる。頭を上げる気になれない。
革靴には、どう間違えたのか道を外れたような蟻が、ちょこちょこと登っている。
…と、その靴の先に、一対のスニーカーの爪先が現れた。
顔を上げてみる。
公園に屯しにきた中学生くらいだろうか、口を一文字に結び、負けん気の強そうな、何処か脆そうな顔をした少年が立っていた。
よく見ると、顔に擦りむけた傷が生々しく見られる。
髪は不揃いに伸び、ささくれた指の先に、縦筋の入った頼りなさそうな爪がついていた。
少年は何か言うでもなく、俺に、手に持っていたものの片方を勢いよく突き出した。
綿毛だ。たんぽぽの。
俺が勢いに押されるまま、それを受け取ると、少年は俺の横に腰掛けて、自分の分の綿毛を吹いた。
吐息に、綿毛は舞う。
すぐ落ちてしまうかと思ったが、こんなに凪いだ気候でも、風は吹いているらしい。
白い綿毛は風に乗って、ふわふわと空に漂う。
俺も、綿毛を吹いてみた。
白い綿毛は風に乗って、また違う場所へと、ふわふわ漂う。
…風が吹いている。成程、今日の風は確かに心地良い。
それから、俺と少年は綿毛を吹いた。
風に乗るってどんな気分なのだろう、と考えながら。
話は何もしなかった。
それが果たして正しいことなのか、俺には分からなかった。
綿毛を吹き終わると、どちらともなく立ち上がった。
歩き出そうとした少年に、俺は一言、なんとなく放る。
「ありがとう。…またいつか」
この先は何を言ったらいいか分からなかった。
でも、それを聞いた少年が、強張った頬を、少し緩めた気がした。
紅葉の花が咲いている。
そうか、今はもうそんな季節か。
木の根元に寝そべり、梢を眺めて、そう気づく。
新緑の葉がさらさらと揺れている。
薫風が気持ちいい。やはり、初夏は良いものだ。
「…あ、いたいた。おーい、起きてるかー?」
軽く放られた声に、上身を起こす。
にこやかに笑う友人がそこにいる。
「お、起きてた」
友人は、微かに笑みを深めて、横に腰掛ける。
右頬に、片えくぼがふんわりと浮かぶ。
「何してたの?」
「…別に。いい天気だから昼寝でもしようかと思ってただけだよ」
「…そっか。今日は天気良いもんな」
そっけない私の答えに友人は、静かに笑みを深めて、それから私と同じように梢を見上げた。
若葉が風に揺られて、小さくさざめく。
暖かな陽の光が、青紅葉の緑を柔らかく透かす。
「…なあ、明日だよ」
友人がふと、何気ないように口にする。
「…」
「早いよな、三年って」
友人は楓を眺めながら呟く。
そう、もう明日で三年だ。
私たちが、一緒に暮らしていた、兄同然だった、あの子が行方知らずになってから。
ここは孤児院の中庭。教会域だ。
教会の慈善事業として建てられ、親のいない子どもたちが共同生活するこの土地は、神の名の下に保護されている安全な場所だ。
ここで、私たちのような戦災孤児や友人のような捨てられた子は、子ども同士の社会の激しさに晒されながら、でも外界からは守られながら…
「…どこ行っちゃったんだろうな」
「……ね」
三年前、私たちにとって兄代わりだったあの子は、突然姿を消した。善人で潔白で真っ直ぐなあの子は、私たちにとって、眩しい兄さんだった。
「…明日には帰ってくるかな?」
「…帰ってくるといいけどね」
兄さんが消えたのは、ふっと、私たちが目を離した刹那だった。
その日も、私たちと兄さんはずっと一緒に、この楓の木の下で遊んでいた。
あの時、ふいに強い風が僅かな灰塵を巻きあげて吹きつけて、その刹那、私たちは目を瞑った。
そして、目を開けた時には、兄さんはいなかった。
「兄さん…帰ってくるよな?」
「…分からない」
その後、周りの人間たちに、私たちは起こったことを説明した。
でも、みんなは兄さんのことは知らない、と言った。
…みんなはむしろ、血相を変えて、私たちの肩に手を置き、頭がクラクラするくらい、私たちを揺さぶった。
そして。彼らはみんなこう言った。
「目を閉じた刹那に、あなたたちが何処からともなく現れた」と。
「…兄さんはいたんだ。確かに」
「そうだ。兄さんはいた。きっと明日こそは帰ってくる」
兄さんは誰かに消されたのだろうか。
兄さんは自分から消えたのだろうか。
あの刹那に何があったのだろうか。
何も分からない。
でも、あれが刹那の出来事だったから、私たちは永遠に信じていられるし、待っていられる。
次の刹那で、兄さんが帰って来るかもしれない、と。
梢で、楓の葉たちがさざめいている。
耳は不思議だ。耳による音の記憶は、三年前の“刹那”すら思い出せるらしい。
そして、耳の記憶というものは、鼻とも繋がっているらしい。
さざめきを聴くと、三年前の刹那が鼻腔をくすぐる。
香るはずのない、甘い煙の香りが、刹那に掠める。
嗅いだことのない匂い。咳き込みそうなほど、煙たくて甘ったるい匂い。
風が梢を揺らす。
さわさわと、楓の葉と花が、柔らかい声でさざめく。
暖かい陽が、僕らを包んでいた。