薄墨

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巨大な蜻蛉が、羽を震わせている。
瑞々しい空気の中で、シダ植物が地面を覆っている。

私は、青々と茂った植物たちが作り出す、一面緑の景色を眺める。
息を吸う。新鮮な酸素がたっぷりと肺に滑り込む。
目の端には、前に落とした10円硬貨が、すっかり錆びついている。

目の前に広がる大森林たちは、いずれ、石炭になり、燃やされ、全てのエネルギーの始祖となる。
ここは古生代石炭期。正確には、時空の歪みで古生代石炭期に繋がっている部屋の中、である。

ここは、植物の楽園であり、昆虫の楽園であり、そして、私の楽園だ。

巨大な昆虫たちが、空を、陸を、葉の上を蠢いている。
植物たちが風に合わせて、一斉にゆらめく。
泉は植物たちの影で、ひっそりと朝露を受け取り、波紋を浮かべる。

熱中症待ったなしの、夏のようにじっとりとしたこの蒸し暑ささえも心地よい。

私は深く息を吸う。
くらり、と視界が揺れる。
心地良い。

私は何度も息を吸う。
その度に、爽やかな酸素は、私の肺に流れ込む。
酸素が見えてくるようにすら感じる。いや、私には見える。

現代では、私を必要としている人は誰一人いない。

兄弟の中でただ一人、受験に負け続けた人間。
人間関係を構築するのも下手で、扱いにくい人間。
好きなことも得意なこともない無味な人間。
とうとう生きるための呼吸すら上手くできなくなった、出来損ない人間。

そんな私を必要とする人は誰もいない。

…最後のチャンスで失敗し、家族からさえ、失望されてから、私は上手く息が出来なくなった。
いや、息はできるのだ。息はできるけど、酸素が入ってきてくれない。

治してくれる人はいなかった。
私を心配してくれる人もいなかった。
だから私はこの時代を見つけた。

私は深く深く息を吸う。
甘い酸素が肺の奥まで入り込む。胸が塞がる。

私の楽園はここだ。
私は永遠にここにいる。

深く深く息を吸う。
10円硬貨が見えなくなる。
深く深く息を吸う。
何かが腹から込み上げる。
深く深く息を吸う。
指先から震えが走る。

深く深く息を吸う。
気が、、、遠くなる、、、
意識、、が、、、遠ざかる、、、、
ああ、ここは私の楽園。だって空があんなにも美しい。

蜻蛉が羽をはためかせ、かもめのように遠ざかっていく。
シダの葉が大きく揺れて、一滴の朝露を落とした。

4/30/2024, 1:45:01 PM