薄墨

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ベルトを締めて、グローブをつける。
窓の外を眺めながら、身支度を整える。
いつもの準備。いつもの部屋。

「いってきます」
私の声に、見送りに起きた同居人が、眠そうな顔で微笑む。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
まだ睡魔の籠ったいつもの言葉に背を向けると、その背に思わぬ声が飛んでくる。
「…帰ってきてね。どんな状況でも、いつでも僕は君を待ってるから」
私は何も返さずに外へ出る。

いつものように職場へ向かう。
今日に限っては、通勤も楽じゃない。
しかし、私には通勤する義務がある。私は職場へ行かなくてはならない。

どこか落ち着きのない街を歩いて、職場の門をくぐる。
ギミック自動ドア付きのハイテクな職場の入口は、門というよりも隠し戸という方が実体は近い。

さあ、今日も仕事だ。
今回の仕事は、大仕事だ。私の人生の全てがかかっていると言っても大袈裟でない…いやむしろ、それでもまだ、軽く言っている方だ。

「ねえ、先輩。明日世界が終わるなら、世界が終わる前に1日だけ、何かが自由に出来るとしたら、先輩は何をするんすか?」
仕事に取り掛かる準備をしていると、サポートをするために横で仕事をしていた後輩が聞いてきた。
「旨い物でも食べに行くっすか?綺麗な景色でも見に行くっすか?趣味に没頭するっすか?最期の時を満喫するっすか?…それとも」
「……やっぱり、一秒でも長く生きるために、大切な人と逃げたりしたいんっすか?」

「…どうだろうね」
私は答える。
「それは経験してみないと分からないな」
「だから今聞いてるんすよ」
軽く明るい声とは裏腹に、後輩の顔は今にも泣き出しそうな、怒っているような、なんとも情けない顔だった。

「…君は、どうなんだ。やりたいこと、他にもあるだろうに」
後輩は、さらに顔を歪める。
「…そりゃあるっすよ?でも」
「これでいいんす。…俺は取るに足らないただの凡人っすけど、先輩の大事な人でもないっすけど」
「これでいいんす。大体、俺以外の誰もここまで先輩について来れるやつなんていませんよ。俺が来なかったらどうする気だったんすか」
もちろん、1人でやるつもりだったが?
私の考えはそこまで読みやすいだろうか、後輩は私の顔を見ると、これみよがしに溜息をつく。

「…まあ、最期まで、無茶に付き合わせてくださいよ、先輩」

ぐしゃぐしゃに歪んでいるのに、妙に腹の座った顔だ。
思わず、口元が上がる。
「最期とは心外だな。まだどう転ぶかは分からんだろう?」
後輩の顔が、さらにぐしゃっと崩れる。とても、つい先月に恋人が出来た男前には見えない。

いい顔じゃないか、そっち顔の方が好きだな。
軽く呟けば、後輩は俯いて、呆れたようにモゴモゴと何か呟いた。

「…よし、そろそろ良いタイミングだろ。頼むぞ」
「はい、任せてください」
私は一歩を踏み出す。
グローブをした拳を握って、開いて、ベルトに手をかける。

「ヒーローに“明日世界が終わるなら”なんて愚問だな」
小さく、誰にも聞こえないように呟いて、私は顔を上げる。
頬に伝う感覚を、今だけ見なかったことにして。

「諦めるにはまだ早いな」
全身が、いつもの光に包まれていく。

5/6/2024, 12:39:45 PM