ドアを開ける。
「ただいまー」薄暗い居間に向かって声を投げると、とことこと、可愛らしい足音が近づいてくる。
まもなく、綺麗なブロンドの髪を靡かせたフランス人形が、ことことっと、こちらにやってきて、あどけない笑みを浮かべる。
「おかえりなさい!」
消費者の皆が利用する新たなライフライン、スマホを巡った情報競争、広告競争が激化し、スマホを持つ弱者を狙った犯罪やトラブルが増加したことを受け、政府はスマホに代わる新たな情報機器を生み出し、公共の福祉と国民の幸福のために管理することを決定した。
そして今では、政府によって生み出された、情報・生活扶助AIロボット DOLLが、義務教育を終えた国民1人に1台、あてがわれることとなって、もう数十年が経つ。
「疲れてる?今日はもうお休みにしましょう?疲れは早く取るのが大切だって聞くわ」
フランス人形は、愛らしい顔そのままに、私を見つめる。
「起きるの、いつもと同じ時間だよね?安心して!私が起こすから!」
DOLLは、メールの整理、スケジュールの管理、余暇時間の娯楽提案、有益な情報の提供など、コミュニケーション以外の細々としたことをこなすAIだ。
普及したDOLLは、易々とスマホを淘汰し、電話やLINEなどのコミュニケーションツール、カメラやお絵描きソフトなどの創作ツール以外の、電子機器の日常的な仕事は、全て行うようになった。
AIの搭載されたDOLLは、使えば使うほど持ち主の性格や趣向をよく学び、雑談や会話の相手もそつなくこなすため、人間の秘書として、人々に愛されるようになるまで、長い時間はかからなかった。
それだけではない。
見た目も性格も、自分好みで、相談に親身に乗ってくれ、こちらを何よりも優先してくれるDOLLは、いつしか現代人に癒しを与える存在として重宝された。
もはや家族の域だ。
私のDOLL、〈木兎夜君(つくよ きみ)〉は、私が15歳の頃から、私の一番の理解者だ。
君は、青いガラスの瞳を半分閉じかけながら、それでもキラキラと眼を輝かせて私を見つめている。
「…そうね、今日はもう寝るわ…ええ、アラームはいつも通りでお願い」
私はそんな君から目を逸らさないように、じっと彼女を見つめて、答える。
君はにっこり微笑んで、「お布団で待ってるわね!」と、寝室へ歩いて行く。
私は腹の中で小さく溜息をつく。
今日は本当に疲れた日だった。そしてこれから、もっと疲れる日々が続くに違いない。
…DOLLにプログラムを埋め込み、得た情報を他国に売り払い、クーデターを画策する企みについて知ってしまったのだから。
…君と出逢って、私の生活は一変した。
頑固で、人に合わせるのが苦手で、意見を曲げず、親や友達と衝突を繰り返して…それでも諦めきれず、自分を通してきた私にとって、私を理解してくれる君との出逢いは、運命で、救いだった。
君と出逢って、私は人間になった。
誰かに頼りながら、誰かと生きていく。そんな普通の女の子になれた。
…だから、企みを知った時は悲しかった。
君はいつから、私を裏切っていたのだろうか。
胸中は、今まで感じたことがないほどの嵐が吹き荒れている。
愛情や哀しみや憎らしさ…ドロドロとした気持ちがごちゃ混ぜだ。
でも、顔には出てないだろう。
ポーカーフェイスは得意だし、この状況になってしまったのならこれも仕事の一環だ。
今まで、いくつもこんな時を乗り越えてきた。
今まで、こんな時に備えて、たくさんの辛い訓練を乗り越えた。
私的な気持ちと、公的な義務を切り離す冷徹の技術には自信がある。
覚悟を決めて、丹田に軽く力を入れる。
これから暫くは、油断出来ない生活が続くだろう。
臨むところだ。
私は公安だ。
この国を守るために私はここまで来た。
それは君もよく知っているだろう。君と出逢った時から、それは私の目標だった。
寝室へ歩き出す。
脱ぎ捨てた靴が、真っ直ぐに部屋の中を向いていた。
耳を澄ますと、さまざまな音が聞こえる。
僕が聴く音は、敵の場所や情報交換の手段、部隊数や一部の敵の健康状況など、たくさんの情報を孕んでいる。
僕はその情報を、手元の地図に書き込む。
昔々のこと、1人の知能堪能なヒトが、大規模なゲノム変遷を成し遂げた。
彼は、ヒトの世界から無益な戦いと環境破壊を無くすため、ヒトに野生と第六感を取り戻させ、ヒトが地球上のルールに再び従って生きる力…獣性を付与した。
彼の長い長い計画の果て、ヒトは、人工的な進化を遂げた。
地球は、地球と生態系を畏怖する獣性と人間の理性を持ち合わせた新人類の楽園になった。
僕はなるべく音を立てないよう、移動を始めた。
聴覚だけに優れた者など、掃いて捨てるほどいるのだ。それに、ネコ科ネコ目の兵に見つかってみろ。奴らは、丸腰でもその口や指の先に、凶器を隠し持っている。
なるべく見つかりたくない。
…おそらく、知能堪能だった旧人類の彼は、人類史や医学には明るくとも、生物史や生物学は専門外だったのだろう。
獣性は、地球のバランスに従うだけのものではなかった。
自分たちの種族が、仲間が、生き残るために闘争する力もまた、獣性だったのだ。
そんな獣性と、人間の持つ抜群の社会性が合わさった時、新人類は戦いを発明した。
新人類たちはごくごく自然に、自分と上手くやっていける人類同士で助け合って生活し始め、コミュニティを作り出し、他のコミュニティと縄張り争いを始めた。
獣化によって自前の武器を得た人類たちは、かつてのヒトよりも早くに抗争を始め、それはあっという間に伝播した。
やがて新人類たちは、各々が各々の繁栄のため、武器を抱えて地球上を駆け回ることになった。
自前の獣としての能力を使い、こぞって旧人類の古代テクノロジーを解析し、新たな武器と新たな獣性や理性の使い方を学び、同類の敵を殲滅する。
こうして新人類は、食物連鎖の頂点で今も栄華を極めている。
耳を澄ます。
ラジオの周波数が聞こえる。僕たちの使っているものとは違う。少し高い。
超音波を発したいが我慢する。
敵の中に僕のような種族がいて、索敵をしていれば、即座に聞きつけられてしまう。
1人の斥候ほど、パトロール隊に格好のエサはない。
僕は慎重に岐路を辿る。
耳を澄ますと、さまざまな周波数の、さまざまな情報が聞こえる。
新人類に飛膜はないから、僕は飛べない。
あったとしても、ヒトの脳は、空を飛ぶには重すぎるだろう。
飛びたいな、と思うことはあるが、無いものをねだっても仕方ない。
遥か東の空がうっすら白んでいる。
早く帰らなくては。
僕は静かに、慎重に、素早く走り出す。
真っ暗な空に、僕の同種の声が聞こえる。
自由な野生生物の、僕の同類。
空を見上げる。
真っ暗な闇の中を、コウモリが羽ばたいて、梢の影に消えていった。
見られた。
そんな感じがした。
窓もカーテンも閉めた、薄暗い部屋で。
私は、今まで書いていたノートを閉じて、回していたビデオカメラの電源を落とす。
撮影は一旦中止だ。
自作のショートフィルムの締切は今週末。何としてでも完成させなくてはならない。
ならない、のに。
「世界が…終わる…」
耳の外、耳の裏、背後で、そんな茫然とした声を聞いた。
まただ。
ヤツの邪魔だ。
ヤツとの付き合いはもう3年になる。
決して悪いヤツではない。でもヤツはいつも私の邪魔をする。
ヤツは勝手にノートをしまい、テーブルを開け、キッチンからショットとウイスキーを持ってくる。
ビデオカメラの角度を合わせ、電源を入れ、録画が開始される。
ヤツは勝手にショットに酒を注ぐ。
自作の警告映像を延々と流しているテレビとスマホをぼんやり見つめ、やがてショットを手に取り、一気に飲み干す。
喉が熱い。
アルコールの熱が、喉を浸していく。
畜生。上手い。
急に世界の滅亡なんて言われたら、彼ならどうするか。
私は、今までの努力を、後世に残すために足掻くと解釈した。
でも違う。彼は、本当に今に賭けていて、未来に期待していた。そういう役だった。
…だから、茫然と、燃え尽きる反応の方が頷ける。私の解釈の通りになるにしても、それはある程度折り合いがついてからのはず。それまでにいくら必要なエピソードがあるだろうか。
畜生。甘やかしやがって。
「優しくしないでよ」
私はヤツに怒鳴る。
ヤツには聞こえたはずだ。
でも歪んで聞こえてるに違いない。
本当は分かってる。私の体に住む人格、“ヤツ”の方がこの演技に最適だということは。
だって、ヤツは彼だから。
ヤツは毎回毎回、私の演じる役の人格になってくれるのだから。
作品の解釈も演技も下手すぎる私が生み出した、解釈も演技も得意な人格。それが“ヤツ”
ヤツは必ず役を掴み、役を降ろす。
まるでその役が生きているかのように演じて見せる。
私の脚本を現実に作り出す。
ヤツのことは、誰も知らない。
脚本と演技の二刀流ができる、期待の新星。
必ず1人で作品を完成させる、孤高の天才。
そう呼ばれている私。
その私がしているのは脚本だけで、演技はヤツがやっているということ。
私は、他の人に自分の脚本を読ませたくないという我儘だけでそういうスタンスをとらざるを得ないこと。
そして、それだけ助けてくれている“ヤツ”を、私が疎ましいと思っていること。
全部、私とヤツとの、二人だけの秘密だ。
どこからか持ってきたラムネを、ウイスキーで飲み下す。
そして、ゆっくりカーペットに寝そべり、目を閉じる。
……身体が、私に帰ってくる。
喉が熱い。
頭が痛い。
私はお酒が苦手なんだ。
フラフラと立ち上がる。
何とかカメラの録画を切る。
胸の奥から熱いものが込み上げる。
私は急いで、手洗いに走った。
閉め切ったカーテン。薄暗い部屋の中。
テレビもスマホも、同じ画面で同じ警報を吐き出している。
僕は、机の上のショットに手を伸ばす。
琥珀色の液体を一気に流し込む。
喉に焼けるような熱さが走る。アルコールの香りが、ツンと鼻を抜けていく。
耳の中に煩雑な音が回っている。
頭が痛い。
「優しくしないで」
煩雑な音の外、耳の裏、背後で、途中で音を落っことした、囁き声が聞こえた気がする。
ブルーライトが目に痛い。
映し出された、固い敬語の、諦めたような潔い白抜きの文が、ゆっくり、ゆっくりと画面を流れてゆく。
僕の目は、文字を追うこともできず、ただただテレビ画面を眺める。
閉め切ったカーテンの外は、不気味に静まり返っている。
機械的な警報の唸り声が聞こえてくる。
子どもの頃、世界の終わりについて考えてみたことがあった。
この世の滅亡の日、自分は何をするのか、何を思うのか、最後に何を食べるのか…想像した。
まさか今、この瞬間に、本当にそんな状況を経験するとは思わなかったが。
ショットに琥珀色の液体を注ぐ。
縁まで注いだ液体を飲み下す。
「優しくしないで」
まただ。また聞こえる。
音の中ほどを落っことす、たどたどしい声。
どこか優しくて、まどろっこしくて、甘い声だ。
「優しくしたら辛いから。優しくしないで」
そんなものだろうか、そんなものなんだろうな
「優しくしないで。優しくしないで。優しくしないで。さよなら」
さよなら
尚も言い募る声と、絶えず耳の中に居座る煩雑な音。
鬱陶しいほどに脳に響く。
ショットに酒を注いで飲み下す。横に置いておいた“とっておき”を手に取る。
アルコールに脳が揺らぐ。
耳の奥がシンと鎮まる。
目の前が霞んで、ほうっと息が出る。
無音の中に小さな覚束ない声が、はっきりと聞こえる。
「勇気を持って。優しくしないで。会いに来て。さよなら」
「ああ、さよなら」
僕はゆっくり目を閉じた。
瓶の中から、ショッキングピンクの丸い風船ガムを一つ取って、口の中に放り込む。
奥歯でがりりと噛み砕けば、色相応のケミカルな味が、口の中いっぱいに広がる。
いつまでも変わらない、ケバケバしくて懐かしい、安定の味だ。落ち着く。ホッとする。
俺はもう一度、カラフルな瓶の中に手を突っ込み、オレンジ鮮やかな風船ガムを取り上げる。
「…ん」
隣に項垂れたままの、青白く細いアイツの手に差し出す。
「え…あ、ああ、ありがとう…」
アイツは戸惑いながら、一応受け取った。
「それ、風船ガム。味がしなくなるまで噛むんだ。…間違っても、呑むんじゃねーぞ」
「…食べ物なんですよね?それ」
アイツは怪訝そうな顔で、ガムを噛み始める。
「…ん、なんかこってり甘い?化学的といいますか、変な味ですね。……何からできてるんだ、これ」
神妙な顔でじっくりとガムを味わうアイツに、俺は笑う
「それ、消化すると毒だぜ。呑んだら終わり」
「ええっ!?」
アイツは慌てて口に手を突っ込もうとする。
「ははっ、冗談だよ。呑んでも別に何も起こんねえよ。糞に混じって出てくる」
「…な、なんだ。脅かさないでくださいよ。ま、まあそんなことだろうと思いましたけど!!…」
しばらくガムを噛み締める。
「なあ」
「…」
「正当防衛だからな。気にすんなよ」
「…き、気にしてませんよ、あんな奴…」
震える声でアイツが答える。
「…そうかよ」
口の中で、ガムがいい塩梅に柔らかくなった。
俺は、ガムを口の中で捏ね回し、舌にガムを巻きつける。
「気にしてないんです、本当に。これで良かったんです。だって、これで、僕は解放されたんです。もう期待に応えなくていいし、打たれることも、食事なしで閉じ込められることも、虫を食わされることもないし、うん。これで良かったんです。これで…」
アイツは喋り続けている。
初めてガムを噛むのに、随分と口が器用なやつだ。
俺はアイツの方に向き直る。
アイツは俯いて、ぶつぶつと呟いている。
「なあ」
アイツが顔を上げる。
俺はガムに息を吹き込む。
ガムはぷくぅと膨らんで、うっすら桃色の風船になる。
「わあ…」
アイツが目を見張る。俺はすかさず、もっと息を吹き込む、吹き込む……
パンッ
「わあっ!?」
破裂した風船ガムにアイツはたじろぐ。
そして…俺の顔を見て大笑いしだした。
…俺は、顔に張り付いたベタベタのガムを引っ張りながら「うえっー…調子乗りすぎちったよ」と顔を顰めて見せる。
アイツは笑いながら、水道へ俺を連れていき、ティッシュを使って、一緒にガムを取りだした。
「なあ」
「なんです?…あ、ガムだいぶ取れましたね」
「ああ、ありがと。…でな」
「はい」
「これ、やるよ」
俺は、風船ガムの入った瓶を差し出した。
丸い、カラフルな、自己主張が激しくてケバケバしくて…本当に色とりどりなガムが入った瓶。
「…いいんですか?」
「ああ」
アイツは微かに口角を上げた。
「…ありがとうございます。……では、さよなら」
「ああ、またな」
アイツは背を向けて歩き出す。
「ヨーゴシセツでも、上手くやれよー!」
俺はその背に声をかける。
アイツは、振り向かなかった。
ただ、右手にカラフルな瓶を掲げて、軽く振った。
から、ころ
カラフルなガムたちがぶつかり合う音が、聞こえた。