「アサダヨ、アサダヨー」
座敷の奥で、羽毛をむくむくと動かしながら、ヨウムが鳴く。
「おはよう」
私は、目覚めたばかりのヨウムの、くすんだ銀の鱗のような羽を撫で付けながら、笑いかける。
今や一人(一羽)きりの同居仲間のヨウムに、餌をやる。
「イタダキマス」
カタコトでお行儀よく答えるヨウムと共に、朝ごはんを食べて、私は立ち上がる。
朝日がゆっくりと、軒先に差し込んでいる。
私はいつも通り、縁側に座ると、庭を眺める。
今日は快晴。庭の木々は若い芽を出し、ところどころに美しい花が咲いている。
日向ぼっこには最適な、暖かい朝だ。
朝日を浴びながら、私は抱えていたものを膝に置き、撫でる。皺が寄って乾燥した私の手が、白い翼を撫でる。
空は真っ青に晴れきっている。
どこからか飛んできた飛行機が、白い線を描きながら飛んでゆく。
ねー、ママ!こっちこっち!
はやくー!早くあそぼ!
近くに住む子供たちの元気な声が聞こえる。
私は、膝上の紙飛行機に目を落とす。
真っ白な皺ひとつない翼。軽くて、紙にしては少し硬いその紙飛行機を、私の皺だらけの手が撫でる。
目を細める。
私が紙飛行機を好きになったのは、こんな晴れた日のことだった。
あの日。もう七十年前のあの日。
その日、私は家の都合で、どうしても幼い妹の面倒を見なくてはいけなくなった。私は、みんなと遠足に行けなかった。
妹の世話で疲れ切った私は、友達と今日を過ごせなかった失望で、すっかり荒んでいた。
その時だ。
その時に、家の土塀の向こうから、紙飛行機が飛んできたのだ。
その紙飛行機は羽を水平に広げ、悠々と、私の家の庭に着陸した。
その様子が、私にはまるで遠い空からの贈り物に見えた。
ドキドキしながら紙飛行機を広げてみると、手紙だった。きっと、私のクラスメイトからだろう、手紙。
正直に言うと、手紙の内容はお世辞にも巧くはなかった。
「私がいなくて残念だった」とか、「おつかれさま」とか、そんな気休め程度のお手紙。
でも、その筆跡は、馴染みのないものだった。
筆跡を憶えていないほどの関わりでも、私を気にかけてくれた、手紙の主がいた。
胸が熱くなった。
その日から、私は、紙飛行機を飛ばすようになった。
遠くの空へ、どこまでも、かつて私に届いた紙飛行機のように、悠々と飛ぶ紙飛行機を私も作りたかった。
そして、いざという時に誰かに届けられるようになりたかった。
紙飛行機を探求している間に、いつのまにか私はこんな歳になっていた。
紙飛行機にだけ異常に詳しい私を、近所の若い子たちは、“紙飛行機の魔女”と呼ぶようになった。
あの紙飛行機には宛名も記名もなかった。
だから、こういう日に、空を見上げながら思い出を漁っていると、時々こんな疑惑が胸を掠める。
あれは私宛のものではなかったのではないか
でも、そうであったとしても、そんなことはどうだっていい。紛れもなく、あの紙飛行機は私を良い方に変えたのだから。
だから、こんな晴れた、風も凪いだ、紙飛行機日和には、私も紙飛行機を飛ばすことにしている。
一番飛ぶ折り方の紙飛行機を、遠くの空へ。
どこか遠くの誰かの心に届くように、遠くの空へ。
「トベトベ、ヒコウキ!」
三十年連れ添った相棒の言葉と風に、私は紙飛行機をそっと乗せる。
紙飛行機は白い翼を水平に広げ、遠くの空へ、飛んでゆく。
目を覚ます。
隣の布団はすっかり冷めている。
僕は半身を起こす。
ドアの隙間から、うっすら一本、隣の部屋の明かりが漏れている。明かりの筋の中を、埃が舞っている。
口の中で何度も名前を呼ぶ。
隣の部屋に聞こえないように。
目の端が、くすぐったい。目の縁まで、液体が溜まってゆっくりと滑り落ちる。くすぐったい。
明かりの向こうでは、静かに、冷静に、話す大人たちの声がする。二十二時には、隣で眠っていたはずのあの人の声もする。僕に話しかける時よりずっと、硬くて冷めた声。剣呑な声も、時折混じる。
何を言っているのか、内容は分からない。大人の用語が多すぎて、難しい。
でも、きっと僕の行き先のこと。
みんな、僕の人生の話を僕抜きでしている。
外からしっとりした雨の音が聞こえる。
あなたがいないだけで、僕の布団も、僕の横に敷かれた布団も、すっかり冷え切ってしまった。
僕の前で、両親が居なくなってしまってから、僕は腫れ物の子になった。
頼る者も頼られる者も甘える者も甘えられる者もいない、腫れ物の子。
そして、親族にすら満足に取り入れない捨てられたナニカ。
でも、あの人だけは違った。
他の…僕の親戚の目を盗んで、僕を家に連れてきたあなたは、僕を1人の人間として扱った。
正直、あの人はしっかりした人間じゃない。1人なら、早起きもままならない、ダメな大人だ。
でも、あの人は僕と一緒に生きようとした。
僕を生かすのではなく、僕に生かされようとするのではなく、僕と協力して生きたがった。
あなたと一緒にご飯を作る。
あなたと一緒にゴミをまとめる。
あなたと一緒にセールに並ぶ。
あなたと一緒に洗濯物を干す。
そんな日々が非日常だと思い知ったのは、つい最近だ。
帰国してきた僕の叔母が、僕を育てるために、僕の行方を探し出した。
そして、僕たちの生活は見つかった。
明かりの先で、みんなが話し合う声が聞こえる。
時々、強い言葉を吐くのは叔母。
バツの悪そうな弱気な声は他の親族。
硬い声で丁寧に話すのはあの人。
自分のいないところで、自分のことが決まるのをただ見るだけというのは、つらい。悔しい。
こういう時は…自分で決めたいのなら…ドアを壊すつもりで開けて、とびきり大きな声で声高に、自分の言葉を訴えなければ。
でも、僕にはそれはできない。
向こうで話している大人たち、誰に対しても僕は意見を言えない。
誰に対するの想いも、僕は言葉にできない。
叔母は僕のことを一番に考えてくれている。
叔母はきっと僕を大切にして、守ってくれる。
あの人は僕がなくした大切なものをずっと教えてくれた。
僕はあの人との生活が大切で、あの人を守りたい。
親戚たちは自分の生活で一生懸命で、僕を放っておいてくれた。
親戚たちは僕を死なさない程度にしっかり養育してくれるだろう。
…僕は、自分の意見を言葉にできない。
「ついていきたい!」と誰にも言えない。
僕に関わった大人たちとの関係を、僕は、言葉にできない。
だから、今日も頬を流れる涙がくすぐったいな、と思いながら、僕はなんとなく暗闇の中にいる。
枕元に置いた、強烈なデジタル目覚まし時計が、ほのかに青く、0:50を照らす。
隣の部屋に続くドアからは、声と光が漏れ出ている。
夜はまだ明けない。
桜の下には死体が埋まっている。
そう書いた文豪は誰だったか。
桜、菜の花、すみれ、白詰草、たんぽぽ、ホトケノザ。
色とりどりの花が満開に咲いている、春爛漫の川原道。
小さい頃に、友達とワイワイ作った花冠を思い出す。
僕は、百花繚乱の道の中、一人、川沿いを歩く。
人通りはない。ここは山の麓の、穴場スポットなのだ。
僕は、スーツケースを引きずりながら、ボストンバックを胸に抱える。
もうすぐね。
僕は鼻歌を歌いながら、どんどん進む。
もう少し。もう少ししたら、あの桜の木に着く。
それにしても、この辺りは花が特に綺麗。どの花も、生き生きと、美しく咲いている。
やはり、この地は土壌が良いのだろう。
僕が買ってきた花よりも、ここらの花の方がずっと美しい。
毎年、ここの景色は変わらない。
あいもかわらず、春爛漫で鮮やかだ。
僕はぐんぐん先へ進む。
彼女は気に入ってくれるかな。
僕は胸に抱えたボストンバックを、大切に抱きしめる。
たんぽぽと白詰草の花の中、細くくねった道を歩く。
彼女がいる場所まではあと少し。
樹々の開けた目的地が、もうすぐそこに見えている。
空気がグッと重くなる。
春爛漫の暖かい気温が、ここに足を踏み入れると、冷や水をかけられたようにひんやりと下がる。
彼女の近くに着いた証拠だ。僕は顔を上げる。
目の前には満開に咲き誇った桜の大木が立っている。
花弁がはらはらと散り、花をいっぱいにつけた枝が重たそうに揺れる。
その木の下に、桜色のワンピースを着た、美しく愛らしい少女が、立っている。
“彼女”だ。
「1年ぶり。元気にしてた?」
僕は彼女に話しかける。
彼女は微笑む。
「僕は、いつも通りって感じ。うん、進展はなし」
「やっぱり、貴女にしか話せないよ。恋バナは。うん、もう諦めてるんだ。きっとね、」
「生きているうちは、僕は誰とも結ばれない」
「…でも良いんだ。貴女が居てくれるから」
「……そして、貴女は、僕の好きな人をずっと取り込んで、美しくいつも一緒にいてくれるのから。」
僕の近況報告を兼ねた独白を、彼女は柔らかな笑みを浮かべながら聞いてくれる。
「だからね…ほら、今年も持ってきたんだ。…僕の好きだった人。きっと、取り込めば、君がもっと美しくなれるね」
「これで来年も会えるよね。今年も、一年よろしく。僕たちはずっと一緒。大好きよ」
僕はそう少女に笑いかけ、桜の木の根元の土に、シャベルを突き立てる。
穴を掘り、ボストンバックの中のもの…ついこの間まで人だった、女性の腕を入れる。
「…この腕が一番美しかったんだよ」
僕は少女に告げる。少女はいつもの柔らかい微笑を浮かべながらそれを見つめる。
僕は、その穴に土を被せる。
それから、スーツケースの中身を入れるための穴を掘る。
年に一度の、彼女とのデート。
今年も快晴の日を選べて良かった。
春爛漫の、長閑な桜の絨毯の上に、高いフランス料理のように、どきつい赤色とやわこい白い肌とが、のっかっている。
少女は、にこにこ笑いながら、僕のすることを見ている。かわいい。
今年も、素敵なお花見だ。
僕は、シャベルを動かしながら、春爛漫の空を仰いだ。
ザーーーっ
流し台の上、流れる水で頭を冷やす。
だらだらと水の伝う髪を持ち上げ、鏡の中の私と目を合わす。
そうだ、あの人に声をかけてみよう。
冷静に考えてみれば、私はここ最近、あの人のことを何より気にしていた。誰よりも、ずっと。
フェイスタオルを手に取って、顔を拭う。
大丈夫。このタイミングで、あの人に声をかければ、万事上手くいくはず。
内側で騒ぐ胸をそっと抑える。
緊張しすぎて、雑になってはいけない。はやる気持ちを抑えて、冷静に対処しなければ。
それさえできれば。
私の記憶が正確ならば、それで私は無事に平和な暮らしを手に入れることができるはずだ。
息を整えて、私はスマホに手を伸ばす。
トークアプリで、友人とのチャットページを立ち上げる。そこに素早くフリック入力で書き込む。
「ごめん!悪いんだけど、今日は無理そうだわ…ちょっと私もヒートアップしちゃって……樹液に閉じ込められた虫の気分よ、まったく」
この友人は、クラス内外どちらでも、私と一緒に行動している。なかなか信頼のおける種類の、単純な性格をした友人で、私と彼の事情も話してある。
だからこそ、あの人は、このトークチャットの内容を、吟味せずにはいられない。しかも、私に関する情報は、友人よりあの人の方が詳細に集めているだろう。
ここで。この場で。それとなく友人に伝えれば、あの人には確実に伝わる。私にはそんな確信があった。
こちらの処理はこんなもので良いだろう。あとは天命を待つだけだ。
…さて、次はこちらの処理だ。
私は目の前に、ぐったりと力なく倒れた彼を見つめる。誰でも抱えて連れて行けるような大きな体、人を心地よくしつこく絡めとる長い手足、罠か飴のような甘美に整った顔と、誰でも自在に手篭めにできる程度に優秀で寂しがりやの脳の入った頭。
血溜まりの中、その頭は今、首辺りから、かくん、と力なくうなだれ、瞳は白く濁って、虚に我が家の風呂場のタイルを眺めている。
…まあ、なんとかなるな。
私は右手に持ったものを握りしめて、そう思う。
魚やジビエを普段から捌いてきて本当に良かった。“捌く”という関節や体組織の分解行為は、こういう時に役立つものなのだ。家庭科もなかなか捨て難い学問だな、そう考えながら、私は彼に手をかける。
彼と一緒になってから、ずっとこんな感じだ。
最初は、誰よりも、ずっと、彼のことで頭がいっぱいで、それが愛というものだと思っていた。
でも、ここまで、彼のことしか考えられなくなるとは思わなかった。
彼は束縛癖で、過度な甘やかしで、私の脳をどんどん鈍らせていった。私は、誰よりも、ずっと、彼のことで頭がいっぱいで、彼以外のことは薄い膜が掛かったみたいに、ぼんやりとしか考えられなくなった。
今は頭はスッキリしている。いつも以上に、脳は冴え冴えとして、キレる。
彼から解放されて、流水で冷やした甲斐があったと思われる。膜は破れたみたいだ。
…あの人は、膜を捲るきっかけにくらいはなった人だ。だからこそ、今からでも助けてもらえる。
あの人が、私をストーカーしていたからこそ、私は誰よりも、ずっと、彼だけになっていた脳で、彼以外の人間について、初めて考えることが出来たのだから。
誰よりも、ずっと。
私はあの人を信用している。
誰よりも、ずっと。
私はこの時を待ち侘びていたのだ。
私はゆっくりと作業を進める。
窓を閉め切って、お湯を流しながら、お風呂場で作業するのは暑い。瞼に垂れてきた、汗をタオルで拭う。
携帯が震える。トークチャットの通知。どうやってこちらの連絡先を見つけたかは分からないが、あの人からだ。
ピンポーン、玄関のチャイムが鳴った。
私は微笑みながら、彼の右手に握られていたカミソリを手に取り、軍手を嵌めた手の中で握りしめた。
足元にぽつぽつと穴が空いている。
そんな干潟を、私は歩く。
でこぼこな波模様が描かれた砂沼は、ところどころに開いた大小様々な穴から、ぷくぷくと泡を吹いている。
この下に、貝がいるのだ。
おそらく、殆どはマテ貝だろうけど、中には…アサリや小蟹なんかの棲家もあるはずだ。
干潟は歩きにくい。
海水に浸り、水分を含んで濡れた細かい砂は、泥と大差なく、私の足を掬う。
子どもの頃、よくこの海に遊びに来た。
ちょうど、今くらいの時間だ。ここが干潟になる時間。
幼馴染を連れて、よくここに来て、蟹や貝を獲って遊んだ。
いつもは海面に隠れている、荒く削れたコンクリートや表面を占領されたテトラポットも、今は顔を出している。
側面にびっしりついているのは、カメノテだ。
あれもよく獲っては持ち帰っていた。厳つい見た目に反して、出汁がよく出て味が良いのだ、あれは。
あの頃は夢中で貝を獲って…そのうちこの獲物を誰が獲ったのか分からなくなって…どれを誰が持って帰るのか毎回、口喧嘩をした。結局、最後は勝負事で決めよう!となって、かけっこかジャンケンをすることになるのだ。
…これからも、ずっと、永遠に続けば良いのに
あの頃、微かに感じた切ない想いを、言語化するなら、きっとこうなる。
私は疑わなかった。これからも、ずっと、あの日が続かなくとも、私たちの関係は続くのだと。
これからも、ずっと。
私たちは、幼馴染で、友達で。一緒に過ごす時間は短くとも、これからも、ずっと、私たちはこの土地で、この海の見える町で、仲の続いた腐れ縁の友人であり続けるのだと。
これからも、ずっと、私はここに居たかった。
「おい、そろそろ時間切れだ。行くぞ、新造」
「お待ちくんなせえ、後生ですから。今日ここから出立するのはわっち一人。せかせかした男はモテぬわえ」
反射的に出た廊言葉に、密かに苦笑する。
「…少し待ってやる。だが、テメェの幼馴染がいったい何円無心してると思う?……あまり長くは取ってやれねえぞ」
そんな言葉を背後に聞きながら、私は手の中にあるガラス玉___遠い昔、あの幼馴染に最初に貰ったプレゼントのガラス玉___を海に向かって放り投げた。
「ようござんす。これでわっちがここに思い残すことはありんせん。行きましょう」
振り向いて、わっちは歩き出す。
遠い後ろの方で、ぽちゃん、と音がした。