目の前には、海が広がっている。
行き場もなく、歩いて歩いて歩き続けて、着いたのがこんな浜辺だ。流されて来たのだろう、藻屑や割れた瓶のかけらや砕けた貝殻が、打ち上げられている。
オレの住む地域に、海水浴場やプライベートビーチみたいな、洒落た浜辺はほとんどない。今日、オレがやって来たここも、そういう浜辺だ。
だからこんなにも汚らしく、打ち上げられたものが散乱している。
ため息をつく。オレは何をやっているのだろうか。
家に帰りたくないからって、こんなしょうもない浜辺に来るなんて。
素直に帰る気もせず、オレは砂浜に降りる。
少し歩いただけで、靴の中がじゃりじゃりと音を立てる。
砂浜の砂って、こんなに図々しくて鬱陶しいのか。オレは思う。
まるで、オレの周りの人みたいだ。どこからか現れて、図々しく間を詰めて、そのうち裏切ってどこかへ行く。人ってそんなもんだろう。
右の頬がジクジク痛む。
オレは黙って、砂浜を歩き続ける。
日が傾いているようだ。
ゴミにまみれた足元の砂が、うっすら橙に色付いて見える。
はあ…。本当にオレは何をしているんだろう。
八方美人だろうと、人を利用して、上手く世渡りしていってやると決意したのはオレ自身じゃないか。
砂浜は、取るに足らない、いらないもので散らかっている。海藻の切れ端が散らかり、流木が点在し、糸や紐が絡まって落ちている。
「あっ、日が沈むよ!めっちゃ良いタイミングじゃない?!」
いつの間にか、他にも浜辺を歩く人間がいたようだ。
高校生くらいだろう女子が、隣を歩く男子に話しかけている。
「この風景で今度、絵を描いてよ!彫刻じゃ、こういうのは再現できないからさ。私、君の…絵が好きだから、君の絵で見たいな!」
「…うん、描けそうならね。」
対して答えた男子の声はそっけない。
それを気にしていたのかいないのか、女子は海の方に目を向け、「わあ、綺麗だね…」と感嘆の声を上げる。
「ねー、この風景を描くなら、どんなタイトルにするの?ちなみにね、私なら『沈む夕日』かな?」
「…んー、そうだね……僕なら、『溺れる夕日』かな…」
はしゃいだ明るい女子に対して、哀しさを含んだような、淡々と陰気な声で答える男子。温度差のひどい会話になんとなく耳を傾けていると、沈む夕日が少し気になってきた。
オレも海の方に目をやった。
海が赤橙に染まって、ぽっかりとまん丸な赤い“夕日”がゆっくりと地平線に沈んでいく。
でも、オレには、“沈む”というよりは“溺れる”…いや、夕日が海に引き摺り込まれていくように見えた。
夕日が、ゆっくり、確実に、否応なく、海に引き摺り込まれていく…。…この景色は綺麗なんだろうか。
「…日の入りってゆっくりだね……そろそろ戻らない?良い気分転換になったし!」
「………え、あ、うん。そうだね。帰ろうか」
そんな会話が視覚の端で、聞こえた気がした。
早く帰らなきゃ。
そう告げる脳とは裏腹に、オレはじっと沈む夕日を見つめ続けた。
夕日が完全に引き摺り込まれるその瞬間まで。
いつもの放課後。
僕はホームルームが終わって、すぐ、美術室に向かう。
美術室には1つの人影。
夕焼けに照らされて、君が、絵を描いている。
君は、開いた扉に目もくれず、一心不乱にキャンバスへ向き合う。
カーテンの開け放たれた窓に差し込む夕日で、君と椅子とキャンバスは、ひとつのシルエットとして浮かび上がる。
紅い夕日と黒くくっきりと目立つシルエットは、まるで精巧な切り絵のようで、僕はいつもその美しさに立ち尽くす。
…なんで君はいつもそんなに早く、美術室に来ているんだろうか。
芸術作品で食っていけるほど上手くなるため、表現の幅を広げるため、努力するため…当然だ。頭では分かっているが、僕の頭はいつもそれをすんなりと受け入れてくれない。
僕は黙って君の隣に腰掛け、キャンバスに掛けた布を取る。
僕の描いた、描きかけの、変わり映えのしない、絵が現れる。次のコンクールに出す水彩画の下絵。
僕は鉛筆を削る。削りながら、思わず僕の目は、横の君の絵を覗いてしまう。
君は、人間の横顔をスケッチしている。見本は置いていないみたいだから、記憶を頼りに描いているのだろう。
良いスケッチだ。精巧で正確。モデルをそのまま二次元に表現した、自然で優等生な、スケッチ。
かといって、飽きることはない。
なぜなら、構図が非凡だからだ。描き手とモデルの関係性をそれとなく感じさせる、斜め下からの構図。
才能だ。君は紛れもなく、天才だ。
僕は思わず、君の顔に視線を上げる。
君は僕なんて視界に入っていないようで、真剣に真っ直ぐ、キャンバスに向き、鉛筆を走らせている。
真っ直ぐで、真剣で、純粋な美しい眼。
僕は、そんな君の目を見つめると、泣きたくなる。
僕は自分の絵に向き合う。
君のとは違う、僕の絵。
バースは平凡。構図も君のほど面白くない。一見、自然に見えるが、ところどころ、どう見ても違和感がある描画もある。
僕はぼんやりと自分の絵を見つめる。
いつかの君の声が、頭の中をゆっくり回る。
「私ね、彫刻家になるのが夢なの!…これ、みんなには内緒ね?」
「これ言うとみんな変な顔するの。やっぱり、みんなの身近にあるのは絵だし、みんなが目指すのも、イラストレーターとか、そんなのでしょ?彫刻はあんまり身近じゃなくて、お金もかかるし、仕事にしても需要確保するの、難しそうに見えるでしょ?だからよく言われるんだ。そんなに絵が描けるのに、彫刻じゃもったいないって!」
「だから、私、彫刻はね、家でやるんだ。でも学校の時間も捨てがたい…だからね、部活では、モノをよく見るためにスケッチや絵を頑張ってみることにしたんだ!それで、その感覚を、彫刻に活かす!」
「…みんなには内緒ね。この学校の美術部で、一番マジな、私と君だけの、秘密。」
君と僕は、毎日、ここで2人きりで絵を描く。
そんな日が続いたある日、君が打ち明けてくれた、会話。僕と君はあの日、それぞれの夢を語り合った。
でも僕は最近、それを思い出すと苦しくなる。
僕は、絵で勝負する、画家になりたいのだから。
どうして、君に絵で勝てないのだろう。
君の目を見つめると、泣きたくなる。
君はどうして、そんな優しい、真剣な目で、そんなスケッチを描くのだろうか。
なんで、僕の横顔なんて。
今日も、僕は、続きを描けない。
鉛筆を動かすことも、絵に向き合うことも出来ずに、僕は、君の目をぼんやり見つめる。
…君の目を見つめると、泣きたくなる。
僕の描いた絵の中の君は、相変わらず、どこか他人に見えてしまう。
……絵の中の、君の目を見つめる。
僕の腕は、まだ動かない。
どこかで犬が遠吠えをあげる。
珍しく、今日は眩しいくらいの星月夜だ。
私は、満天の星空の下、長靴を履き、傘を持って、すっかり冷え切ったアスファルトの路を歩く。
凹凸のあるアスファルトには、ところどころ、水や氷が張っている。
鏡のように張った水面には、星空が映っている。
この街は、日中はいつも雨だ。
だから、私は雨の止んだ夜に、傘と長靴を準備して、うちを出る。
そして、孤独な夜を散歩する。
こんな風に。
雨は少しずつアスファルトの路を削る。
削れたアスファルトは少しずつ広がり、やがて、路にぽっかり穴が開く。
雨は尚も降り続く。
路の穴には水が溜まり、鏡のように張って、星空を映し出す。
そして、私の足元に、夜空が映る。
“満天の星空”。
2つの空が、私を挟み込む中を歩くこの散歩は、まさしく、“満天の星空の下”の散歩だ。
路の真ん中に、ひときわ大きな水たまりがある。
私はその真ん中に立ってみる。
風は吹かない。この地域はいつも、夜になると、大抵晴れるし、無風なのだ。
ぼうっと、星空に挟まれていると、そのうち、どっちが空か分からなくなる。
宇宙空間に放り出されたような変な浮遊感と、漠然とした不安感と、言いようのない心地良さ。
私は思わず目を瞑る。
…突然、足元からピシリッと音がした気がした。
……瞼が開かない。瞼の裏、漆黒が映る。
足の裏から、チリチリとした緊張感と恐怖が走る。
…冷や汗が吹き出す。
なんだこの感覚は。こんなの、、初めて…
息が詰まる。
なんの感覚だろう。
逃げなくては、目を開けろと、脳が訴える。
私は瞼をこじ開ける!
…
…?
何もない。私は星空の下、立っている。満天の星空の下。
目の前には星空と、足元には星空。頭上には星空が広がり、背後にも星空。
目を閉じてみる。瞼の裏にも星空。
私は、紛れもなく、満天の星空の下に立っている。
なんだ、私が星空の下で散歩しているだけじゃない。
私は傘をさすと、星空の下、星空の上を、星空に向かって、歩き出した。
「ああ、それでいい」
俺は鷹揚に頷く。
「構わない。犠牲?ああ、それは、確実にこっちの方が少ない。」
近年のシュレディンガーの猫理論を元にした世界線及び運命のパターンの解析、AIによる学習と未来予測の技術の発展により、俺たち人類は、“選択”による未来の複数パターンを予測できるようになった。
「だから…そうだ。たとえそれが発覚したとして、俺たちが頭を下げれば全て収まる。大のために小を選ぶか、小のために大を選ぶか、つまりはそういうことだ。」
高度に発展した未来予測は、民衆個人には秘匿され、国よって、人類の全体的な平和維持と文化推進のために、極めて中立的、公的に扱われることとなった。
「誰も俺たちを責めれやしないさ。つまり俺たちは合理的に、人類全体にとってより良い選択をした、実質的なヒーローとなんだから」
俺は今、未来予測によって得られた結果を元に、人類先行教化委員として、公務員として、人類にとってより“マシ”な選択を支持する仕事に就いている。
「だから…それでいいんだ。人が1人2人死のうが世界は滅びやしない。だが、この選択を間違えれば、何千人もの人たちを地獄に突き落とすことになる。」
現在、俺は今…“選択”を実行する部下たちに、電話で指示をしているところだ。
「ああ、だからそれでいいって。…しつこいなお前も。そうだよ。それで全て上手くいくんだ。」
尚も食い下がる部下を俺は宥めすかす。
「いや、それは今更だろう?…それでいい。…いいからやれ。それが人類にとって最善の選択だ。」
「…ほ、本当に、いいんですね?」
「ああ、やれ」
俺の目の前、震える手で電気銃を突きつける部下に、俺はそう言った。
「コイツと付き合って数年、やっと気づいたよ。…こんな機械を開発し、利用する国家なんてのは、別の国家にとっては脅威だ。ようやく気づいたんだ。この機械とそれに関する組織はいずれ、戦争を引き起こす。」
背後にある、未来予測AIを俺は指し示す。
「だから、俺が命令した通りだ。それでいい。この機械の管理者諸共、吹き飛ばしてくれ。」
「…」
俺は今にも泣きそうな部下にそう告げる。
「…これで、人類の平和は維持される。迷う余地はないさ。徹底的にここを破壊しろ」
「…はい。」
部下は震える声で、それでも、なんとか答えた。
「…お前は相変わらずだな。新人の時に返事は大切だと、教えたろう?今の返事じゃ、及第点すら出ないぞ」
「…っ」
俺の笑い声だけが、部屋の中に響く。
「まあ、今日くらいはそれでいい。さあ、頼むぞ」
「っ、はい」
部下の指が、電気銃の引き金を引く。
「それでいい。…最期の部下が、お前で良かったよ」
霞ゆく視界の中で、部下を見る。相変わらずの情けない顔をしているが、それでも、見違えるほどに良い職員となったものだ。
「…ありがとうございました。さようなら……」
情けない顔をした自慢の部下の、震える、か細い声が、最後に聞こえた。
木製のテーブルの上に、1つだけ、可愛らしいまんまるのものが転がっている。
白くて、手のひらに包めるくらいの可愛らしい大きさの。
私は紅茶のカップを手に取る。可愛らしいアンティークのティーカップ。白い陶器にちょこんと描かれた、1つだけのピンクのバラの絵が上品で、お気に入りだ。
向かいの席にはテディベアが座っている。
私の1つだけの同居人(?)だ。
この家は、私の好きなものの詰め合わせだ。頑張って、徹底的に好きなもの1つだけを詰めたこのお家を作った。
そして、ようやく完成したこの好きなものだらけの家で、好きなものと好きなことに囲まれて、私は暮らしている。
私の父親は、ほとんど家にいなかった。そしてある時、とうとう死んだ。
母はその心労で、私を異常なほどに可愛がり、保護したがった。私と母は、ずっと2人きりで生きてきた。
その母も、5年前に倒れて、今も意識は戻らない。
その日から私は“オンリーワン”に拘り続けた。誰かの“1つだけ”になりたくて、何かを“1つだけ”愛したかった。
3年前、私には家族も同然の仲間ができた。
愚直な僕くん、そんな僕くんを支える幼馴染くん、そして頼れるアドバイザーの彼。
みんなと過ごす時間は、私にとっては“1つだけ”の“大切なもの”だった。
でも、みんなにとって私は“1人だけ”じゃなかったらしい。僕くんは、1年前、私たち以外の“大切なもの”を守るため、戦いにいった。
私は自分が“1つだけ”になれなかったショックで、「大丈夫。」なんて心にもないことを口走った。
私は“1人だけ”になりたい。“1つだけ”になりたい。変えの効かない“1つだけ”に。
私は“1つだけ”。私が愛するものも“1つだけ”。私にとって、何もかも“1つだけ”、たった“1つだけ”でいい…
だってほら、1つだけならこんなに世界は綺麗だ。
見たくないものも、1つだけなら、見なくて済む。
私は窓の外を見て、そう思う。
だから私は、紅茶を一口飲んで…口ずさみながら…テーブルの上の白いまんまるを手に取る。
ぬらぬらガラス玉のように光るそれ。
私はそれをゆっくり潰す。
くちゃり、と柔らかな音を立てて、それは呆気なく潰れた。
これで、私の目は世界で“1つだけ”の目。
いいでしょ?
座るテディベアに向かって微笑んだ。
今日も他にないほど素敵な1日!