『どこにも書けないこと』
どこにも書けないこと、なんていうものは、多分この世に存在していないんだと思う。
実際僕は、誰にも言えないと抱え込んできた秘密も、表立って口にするのは憚られると飲み込み続けてきた不平不満も、あの人への叶いもしない恋心だって全部、日々の記録とともに日記帳の中に書き記している。
要するに、書けはするのだ。行き場のない想いを言葉にして、文字として綴ること自体はいとも簡単に出来てしまうのだ。それがどれだけ酷い内容であろうが、くだらないことであろうが、文章として残すことにはなんの問題もない。
でも、多分多くの人は、どこにも書けないことを腹の中に抱えている。というよりは、抱えているように感じている。
けれどそれは、正確には『どこにも書けない』のではない。
『どこにでも書けるが、誰にも見せられない』もの。
それが、僕たちが『どこにも書けない』と感じるものの正体。
だから、僕は思うのだ。飲み下して溜め込んだ負の感情をどこにも書けない、誰にも言えない。そう嘆く前に、一度、目の前にまっさらなノートと一本のペンを用意してみて欲しい。誰にも言えないのなら、せめて自分自身にだけ見えるような場所に、文章として残してみて欲しい。
きっとそれだけで、心は軽くなるから。
『旅路の果てに』
この旅路の果てに、君は一体何を想うのだろう。
一足先に去った恩師への未練は、あの日の後悔は、無事に捨て去ることが出来たのだろうか。
いいや。きっと君は、それら全てを抱えたまま歩いていくのだろう。
それら全てに深い慈しみを持って、三途の川を渡るまでの長い長い時間を過ごしていくのだろう。
この旅路の果てに、君が想いを馳せる記憶。
その一欠片だっていい。そこに僕との日々が映り込んでいたのなら、僕はきっと、君と別れるその瞬間まで笑顔でいられるだろう。
「行こう」
振り返った君が、こちらに向かって手を伸ばす。
昇る朝日を背にして、君の黒い髪がきらきらと輝いている。
この旅路の果てに僕が思い出すのは、この光景なのかもしれない。いや、そうであって欲しい。
「そうだね。行こうか」
君の姿を、僕がずっと覚えていられるように。
シャッターを切る代わりに一つ瞬きをして、僕は君の手を取った。
『タイムマシーン』
もしもタイムマシーンがあったなら。
もしも時間を戻すことができたなら。
俺はあの日の君に、手を差し伸べられただろうか。
もしも君が生きていたあの頃に戻れたなら、俺は今度こそ君のことを、なんて。
もしもタイムマシーンがあっても、もしも時間を戻すことができたとしても、意気地なしの俺はきっとまた、君を見殺しにしてしまう。そんなことは分かりきっている。
だから。
タイムマシーンなんて無い。過ぎた時間も戻らない。
そんな世界を、俺はこれからも生きていくことにする。
君のいない地獄のような世界を、君の分まで。
『海の底』
暗くて、さみしくて、冷たい。
陽の光も届かないような真っ暗な場所で、今日もぼくは生きている。
ここは、ふかいふかい海の底。
息を吸おうとすればたちまち水が気道を塞いで、言葉を紡ごうと吐き出した息はぽこぽこと小さな泡へと変わる。
上手に泳げないぼくは、どこにも行くことができない。
ただずっと、ここで静かに沈んでいるだけ。
誰も見つけてはくれない。引き上げてくれる人なんていない。そもそも誰も、ぼくのことを見てすらくれなかった。
ここは、ふかいふかい海の底?
明るくて、たくさんの人がいて、あたたかい。
太陽は穏やかに街を照らして、地面にできた水たまりがきらきらと輝いている。
地面に足が着いている。口を開いても、しょっぱい海水が入り込んでくることはない。いろいろな音が、空気を震わせて両耳にはっきりと届く。
でも、それなのにどうして、ぼくはこんなにも息苦しいんだろう。どうして、言葉が一つも出てこないんだろう。
誰もぼくを見てくれない。誰も、引き上げてくれない。
ああ、きっとここは、暗くてさみしくて冷たい場所。
ぼくにとっての、ふかいふかい海の底。
『逆さま』
窓の向こう、逆さまのあの子と目が合った。
真っ青な空を背にして自由落下していく、僕よりも少し小さな体。ぱらぱらと舞う長い黒髪と、風に翻る濃紺のスカート。一切の光を感じられない真っ黒な両目と、視線がぶつかった気がした。
本当に一瞬だった。瞬き一つで消え失せてしまうほどの、ほんの僅かな時間。
音は、聞こえて来なかった。しんと静まり返った教室に佇んでいれば、運動部の声や吹奏楽部の楽器の音だけが微かに響く。何もかもがいつも通りだ。まるで何もなかったかのように。
けれど、白昼夢と呼ぶにはあまりに生々しい光景が、今も網膜に焼き付いて離れてくれない。
疲れていただけかもしれない、きっと見間違いだろう。
僅かに残された希望に縋るように窓に手を掛け僅かに開けば、そんな甘い考えを打ち砕くかのようにざわざわと騒がしい声が窓下から聞こえて来る。
「人が落ちた!」
「救急車!早く!」
どくん。分かりやすく心臓が跳ねた。彼女が屋上から飛び降りたのだと、先程見たあの光景が現実の物だったのだと、そう確信した。反射的に窓を締める。全身から力が抜け、へたりとその場に座り込んだ。荒くなっていく呼吸と震える手足を抑え付けるように、自分の身体を抱え込んで蹲る。
脳裏に蘇ったのは、遠い昔に笑い合った時の彼女の笑顔。そしてついさっき目撃した、いつからか全く笑顔を見せなくなった彼女の、見たこともないほど虚ろな表情。
――どうして助けてくれなかったの?
見て見ぬふりをしてきた自分を責める声が、聞こえる。
すぐそばで、耳元で、彼女の声が。
「ごめん、ごめん、ごめん…ごめんな…」
自然と口から零れ出たのは、謝罪の言葉だった。
今更になってとめどなく溢れ出した言葉は、伝えたい相手に届くことはなく、ただ冷たい空気に溶けて消えて行く。
視界の端でゆらりとカーテンが揺れたのは、きっと気のせいだと思うことにした。