『逆さま』
窓の向こう、逆さまのあの子と目が合った。
真っ青な空を背にして自由落下していく、僕よりも少し小さな体。ぱらぱらと舞う長い黒髪と、風に翻る濃紺のスカート。一切の光を感じられない真っ黒な両目と、視線がぶつかった気がした。
本当に一瞬だった。瞬き一つで消え失せてしまうほどの、ほんの僅かな時間。
音は、聞こえて来なかった。しんと静まり返った教室に佇んでいれば、運動部の声や吹奏楽部の楽器の音だけが微かに響く。何もかもがいつも通りだ。まるで何もなかったかのように。
けれど、白昼夢と呼ぶにはあまりに生々しい光景が、今も網膜に焼き付いて離れてくれない。
疲れていただけかもしれない、きっと見間違いだろう。
僅かに残された希望に縋るように窓に手を掛け僅かに開けば、そんな甘い考えを打ち砕くかのようにざわざわと騒がしい声が窓下から聞こえて来る。
「人が落ちた!」
「救急車!早く!」
どくん。分かりやすく心臓が跳ねた。彼女が屋上から飛び降りたのだと、先程見たあの光景が現実の物だったのだと、そう確信した。反射的に窓を締める。全身から力が抜け、へたりとその場に座り込んだ。荒くなっていく呼吸と震える手足を抑え付けるように、自分の身体を抱え込んで蹲る。
脳裏に蘇ったのは、遠い昔に笑い合った時の彼女の笑顔。そしてついさっき目撃した、いつからか全く笑顔を見せなくなった彼女の、見たこともないほど虚ろな表情。
――どうして助けてくれなかったの?
見て見ぬふりをしてきた自分を責める声が、聞こえる。
すぐそばで、耳元で、彼女の声が。
「ごめん、ごめん、ごめん…ごめんな…」
自然と口から零れ出たのは、謝罪の言葉だった。
今更になってとめどなく溢れ出した言葉は、伝えたい相手に届くことはなく、ただ冷たい空気に溶けて消えて行く。
視界の端でゆらりとカーテンが揺れたのは、きっと気のせいだと思うことにした。
12/6/2023, 11:17:56 AM