〈鋭い眼差し〉
彼の最初の印象は猫のようだという印象を受けた。同じアイドルを目指す仲間として、彼が事務所に入所した時はかなり周りがざわついていたのを今でも覚えている。何でも、オーディションなしのスカウトで入所したというらしい。別にオーディションなしのスカウトは珍しくはない。現に俺も他のメンバーにも同じようなルートで入所した人もいる。ただ、周りがざわついていたのは、未経験という言葉にざわついていた。彼の入所日は誰もが浮足が立っていた。なんだって、ダンスもボーカルも未経験なのに卒なくこなす練習生がくるのだから。自分のスケジュールを確認して、彼にとって始めてのダンスレッスンの日は、他のメンバーも見学と言いつつも野次馬としてやってきた。
俺は彼と同じグループだったため、そんな野次馬としては見られなかったが、内心はどのくらいのレベルなんだろうと好奇心が躍っていた。
レッスン室にダンスの講師の後ろに着いてきた彼は俯きながら入ってきた。
「今日から新しく加入する종시우(チョン・シウ)だ。未経験だから色々教えてやってくれ」
講師がそう言うとシウの背中を押し、前で自己紹介をするように促した。彼も最初は先生の期待に応えようとしたが、何を言えばいいのか分からないようで俯いていた。しかし、気を利かせたうちの最年長が「どっから来たの?」と質問して、やっと小さな声で「京幾道」と答えた。すると一人のメンバーが「俺も!京幾道だよ一緒じゃん」と場を和ませるように言った。そのおかげか少しだけ、レッスン室の雰囲気がほぐれた。彼も照れるように笑っていた。場を和ませてくれた彼には感謝する。
先生もその雰囲気に気がついたのか、にこにこしていた。この時間が続けばいいと思ったが、いつまでも続けば良いなと思ったがそういうわけにもいかない。俺たちはデビューすることが最初の目標だから。それは他のグループも一緒で、常に競い合っている。
少し時間がだったところで、「じゃあ、今日は新曲だからまずは一通りやるからな」と先生の一声がかけられる。
その瞬間、今まで和やかな雰囲気だったのが、一瞬でピリッと変わった。シウもそれに気づいたようで目の色が変わり、どきまぎし始めた。俺は彼に近づき、「隣、いい?」となるべく優しくこえをかけ、俺なりに彼の緊張をほぐそうと思った。彼も少しホッとしたのか、お願いしますとぺこりと頭を下げた。
俺は彼のことを講師から背中を押され、簡単な自己紹介をしている時まではシャイな人だと思っていた。
まぁ、そうなるのも無理はないし、彼も彼なりの理由があるだろう。いきなりスカウトされ、家から離れた場所で赤の他人との共同生活とレッスンが始まる生活に驚きを隠せないのは仕方ない。しかも、目の前には興味津々の目をした人たちが自分に目を向けているのは、居心地の良いものではない。それ故、俯きながら入室するのも、大きいとは言えない声で自己紹介をするのも自然なことだと思う。
しかし、彼の自己紹介が終わり、いつも通りにレッスンが始まると、彼は途端に変わった。
自分たちの目の前で教えながら踊る先生を見よう見まねで踊る彼は、とても未経験とは思えなかった。
先生が一度、Aメロ部分のダンスを一通り踊れば、彼は完璧に先生のダンスを披露した。
それは鏡越しで見ていた先生も、隣にいた俺もシウを取り囲むように練習をしていたメンバーもすぐに気がついた。
彼は、一度見れば完璧に再現することができる。
同じことを思っていたのか、俺の後ろにいた이수현(イ・スヒョン)も口をぽかんと開けていた。
誰か見ても、彼にはダンスの素質があると分かりきっていた。
〈高く高く〉
産婦人科からの帰り道、小さな駄菓子屋に寄った。
駄菓子が特別好きではないが、気晴らしにひとつやふたつ、懐かしい菓子でも買おうと寄った。
店内はこじんまりしていて、店主と見られる60代後半の男性もぺこりと頭を下げるだけだった。私以外の客は、小学校低学年くらいの男の子3人だけで、大人の客は私以外誰もいなかった。
どの駄菓子も見覚えあるもので、よく食べていたものまであった。
久しぶりに心躍る感覚に驚きつつも、冷静に商品を見ていく。
「ねぇねぇ、シャボン玉飛ばそーぜ!」
店内にいた一人の男の子が急に言いだした。
一瞬、私に向かって言ってるのかと思ったが、隣にいた2人の男の子に対して言っていたようだ。
2人も「いいね」「俺、赤のやつにする」とわいわい騒ぎ始め、各々シャボン玉キットや駄菓子を手に取り会計をしていた。
彼らがいなくなった店内は、同じ店とは思えないほど静かになった。
「何かあったのですか?」
いきなり店主が、声をかけてきた。
私は驚きつつも「少し、身内の不幸で」と簡潔に答えた。店主は顔を変えず、シャボン玉キットを渡した。
私はその意味をすぐに理解した。
お代を払おうとしたら気持ちだけでいいと断れ、体に気をつけてとにっこり微笑む店主がいた。
家に着き、ベランダに向かう。
さっき買ったシャボン玉キットを開け、シャボン玉を飛ばす。
液の香りがつんと鼻を刺激する。
ぽろぽろ涙が溢れ出てくるが、それでもシャボン玉を飛ばし続けた。
シャボン玉は高く、高く飛んで行く。
〈子供のように〉
子どものように笑う彼女が好きだ。
けたけた笑い、ツボにハマってひーっ、ひーっ笑う彼女が好きだ。
私があなたに「好きだ」と伝えても、きっと「酒に酔ってるの?」とからかわれるか、「私も好きー」と言われる。
きっと彼女にとっての「好き」は友情的な好きなんだと思う。
私はさ、本気なのに。
キスだってできるし、抱こうと思えば抱ける。むしろ抱きたい。愛したい。私が今まで、どれだけ我慢してきたのか。目の前で別の人とのデート話や大人のあれこれを聞かされたこっちの気持ちも考えてほしい。
君だって、同じ色が好きじゃん。
私、女だけど、君の恋愛対象外なんだね。
そうなんだね。
だって、一度も私の告白を真面目に受け入れたことないでしょ?
目の前でキスしてきて耳を赤く染まらせながら、酔った勢いだと言い訳して。
私はあなたの嫌がることはしたくないよ。
でも、私のことを少しでも気があるなら、こういう子供じみたことは辞めてよね。
「ほんの少し興味があっただけ」じゃ済まされないよ。
私は君と違って、真面目なんだ。
気があるなら、言葉にして?行動で表して?
そして、抱きしめさせてよ。
「愛してる」って言わせて。
君が望むなら、そういうこともしてあげる。
君と違って初心なんてものは捨てたし、どっちの立場でも君を悦ばせる自信があるよ。
もしかしたら子供みたいのは、私の方かもしれない。
〈放課後〉
放課後担任から呼び出された。
2限目の現国の授業が終わった後、名前を呼ばれ、教壇に向かった私に「放課後、教室に待ってて」と言われた。そして、私の有無を聞かず、教室を出て行った。
私は返事くらいさせてよ、もし私が先約があったらどうするつもりなの?と首を傾げつつ、少し苛立ちを感じていた。
私には決定権はないと言われてるようで、私の反骨精神が反応してしまうが、そういった感情は無駄だと世間知らずの私でもわかるので、取り敢えず6限が終わるまで大人しく授業を受けた。
まぁ、受けたと言っても、受けているように見えるだけと言った方が良いだろう。実際授業は退屈だし、私は人より要領が良いのか、地頭が良いのか、教科書を読んだだけで大抵のことは理解できる。それに、授業は退屈だと言いつつも、毎日予習は欠かさずしている。きっと、その効果もあるだろう。
先に知っていた方が後々楽になるし、テストで良い点が取れるということを知ってるからだ。
別に勉強が好きという訳ではない。ただ、やるべきことを淡々とこなしていき、自分に合う勉強法で勉強をすれば、評定も上げてくれる。
大学受験を2年後に控えてるが今からこつこつ実績を作れば、年内に入試が終わらせることも不可能ではない。嫌なことはさっさと終わらせたい性分なので、結局は入試目当てでもある。
やりたくないことでも、やるからにはいい結果を出したいという私のクソ真面目が発動してしまう。
結局、担任からの一方的な予定をすっぽかすことだってできたのに、私は自分の席に座って教壇で他の生徒の対応をしている担任を見ていた。
そっちから言い出したくせに、待たせるのか。
担任が中々こっちに来れないのは仕方がないことなのに、私はまた少しの苛立ちを感じていた。
あと5分したら帰る。
私はを11を指してる長針を見てそう決めた。
私だって予定はあるのだ。今日はたまたま部活はないが、明日の授業の予習だってあるし、何より疲れた。
はやくベッドに飛び込みたい。
はやく時計の針が進めばいいのにと心の底から思った。そしてあわよくば、担任との予定をすっぽかしたかった。
しかし、そんな私の期待は裏切られた。
あと1分のところで担任がやって来たのだ。
教壇から降りてじりじりと近づく担任に、私は顔を背け、まるで人違いだと振る舞う。だが担任はそんな私の抵抗を無視して、「待たせてすみません。場所を移動しましょう」と無神経に言った。
目の前で言われたからには、流石に無視できず、無言で床に置いてたリュック片手に担任の後に着いていった。
着いたのは教室から離れた進路相談室だった。
たしかここを使うには進路指導主任の許可が必要だったことを思い出し、せめて許可取りを忘れていたと言わせたくて、わざと「ここって許可は必要ないんですか?」と聞いた。担任は淡々と「昨日、主任に許可を取ったのでご心配なく」
私は「昨日」という言葉が引っかかった。急に私と話す時間を作ったのではなく、少なくとも昨日の時点で、もう既に決めていたということになる。
担任の手の上で転がされてる気分になり、嫌気が差す。
渋々担任の目の前の席に座った。しょうがないだろう。
席は対面で、1つずつしかないのだから。
聞かれる内容は何となく分かる。
心当たりもある。ただ、聞いてはほしくない。
しばらくの沈黙が続いて、担任が口を開ける。
「最近はどうですか?」
「どうって…?」
「学校のことです。クラスメイトとどうですか?」
あまりにも抽象的な質問におどおどしていると、担任が補足を付けた。
「普通です。特に問題はないです」
AIのような答えだなと我ながら思いながら答えた。すると先生は、少しはにかむように笑い、それはよかったですと言った。
「他に気になることはありませんか?」
「特にないです」
「そうですか」
また沈黙が降り注ぐ。
大体、そっちから呼び出してるのであればさっさと用件を言ってほしい。なぜそんなにも焦れったく、遠回りするのか。相手の意図が全く読み取れず、不安になる。
「庄司さんの作品見ましたよ、書道部の。木簡が好きなんですか?」
「はい」
「私も高校生の頃木簡が好きでした。昔の人にとってみればただの荷札だったかもしれませんが、今の私たちからすれば貴重なものになる。もしかしたら同じようなことが数100年後に起こるかもしれませんね」
「そうですね」
「木簡は元々ご存知だったのですか?」
「いえ、書道部の荒木先輩から勧められて」
「あぁ、荒木千春さんのことですか?」
「はい、そうです」
「確か、3年生になってましたね。彼女も庄司さんと同じくらいの頃、木簡を書いてました。荒木さんの木簡も庄司さんの木簡も、それぞれ違った味が出て良いですね」
〈カーテン〉
保健室は学校内にあるはずなのに、別世界にいる気分にしてくれる。
保健室のベッドに寝そべり、独特の消毒のような匂いが鼻につく。アルコールのような匂い。
いつも保健室にいるような生徒ではない。不登校でもサボりでもない。いつもは毎朝登校し授業もちゃんと受けて、週に3回のクラブ活動をして、帰宅する。至って普通の生徒だったが、今日はノットノーマルデーだ。
いつものように校門に突っ立ってる教頭に頭を下げは途端、下腹部に鋭い痛みに襲われた。
声にならないほどでそのまま私は蹲った。
異変に気づいた教頭やたまたま通りかかった友達、名前すら知らない生徒が次々に声をかけてくる。
私はそれに頭をふるか、頷くことしかできなかった。額には汗が伝わり、ぎゅうっと痛みが次第に強くなる。
女にしか分からない、痛み。
「おい、大丈夫か?」
「ユキちゃん?どこが痛い?」
「俺、保健室の先生呼んでくる」
親切心で声をかけてくる人には申し訳ないが、私にとっては騒音にしか聞こえない。
頼むから、ひとりにしてくれ。
心の底から願った。
やがて騒動を聞きつけた養護教諭が私の意図を読み取ったのか、私を囲む生徒らを遠ざけ、背中を擦りながら裏道から保健室に入った。
幸い他に生徒はいないようで、近くのベッドに寝かされた。
心遣いのつもりなのか無意識なのか分からなかったが、養護教諭の配慮にはとても感謝する。
「寝てて良いからね。1時間くらいして症状次第で早退するか考えよう」
そう言って、養護教諭はカーテンを閉めた。
複数のベッドが並ぶ1台に寝かされ、他に生徒はいないとは分かってるが、そわそわしてしまう。
生まれて初めて保健室のベッドを使い、枕に顔を突っ込む。柔らかい花の柔軟剤の香りが伝わり、うとうとし始めた。下腹部は相変わらず痛いが、さっきよりはマシになった。
冷房の風でゆらゆら揺れ動くカーテンを見ながら、瞼を閉じた。
このまま時が止まればいいのにと願いながら。