ひらひらと舞い踊るように飛ぶ蝶はかつて魂の象徴とされていた。
そんな話を思い出しながら春の訪れを告げる風景を眺めた。色とりどりの花々にたくさんの蝶が舞う。絵に描いたような美しい、まるで楽園そのものだ。
その中に設置されたベンチに私は座っていた。白く塗られた木製のベンチは少し古ぼけていたが壊れそうなほど軟くはなかった。
澄み切った青空は高く、濃い青が延々と続いている。どこまで続いているのかは分からない。ただただ青い空が遠い彼方まで続いていた。そして不思議な事に花々までもが空に連なるように彼方まで咲き誇っていた。
不思議な場所だと周りを見渡すと、ひらひらとモンシロチョウが近くに飛んできた。はっきりと意思があるかの如くモンシロチョウは私の隣で羽ばたき、ベンチの背もたれに止まった。
人に慣れているのか珍しいな、と蝶に手を伸ばす。すると真っ直ぐ前を向いていた蝶は体をこちらに向けた。
「違う」
どこからともなく声が聞こえてきた。ここには私しか居ないはず。それなのに声は確かに私の耳に届いた。
驚いた私は周りを見渡した。やはり人の姿はなく、人間は私だけ。あとは皆、花から花へと飛ぶ蝶だけである。だとするとこの声は。そう思い当たり隣のモンシロチョウへ私は視線を向けた。
「違うの」
蝶と視線が交差するとまた声が聞こえた。やはりこの声はこのモンシロチョウから聞こえてきたのだ。
人のような口を持たない蝶はただ静かに私を見つめるだけだが、聞こえてくる声はどこか懐かしく思えた。
「違うとはどういう事だ? 君は何か知っているのかい?」
思ったままの疑問を私は蝶に投げかけた。少しの沈黙の後、蝶はまた声を発した。
「貴方にはやるべき事が他にある」
「やるべき事とは?」
「思い出して……」
「思い出す……?」
瞬間、頭を殴られたような痛みが走った。
「時間……」
蝶は無慈悲にそう伝えるとふわりと羽ばたきだした。同時に私の痛みも増していく。
耐え切れず頭を抱え蹲ると、心臓が早鐘の如く鳴り響き視界がぐるりと一転した。
──ベンチから落ちた、と理解した時。私の視界は蒼穹と美しい花畑から、暗い天井と重々しい機械が並ぶ世界へと姿を変えた。
どうやら私は夢を見ていたらしい。実験室に置いていたベンチで仮眠を取ったまま床に落ちたようだった。腰を摩りながら立ち上がるとぼんやりと青緑色に光る巨大な試験管が視界に入った。
中にはふわふわと揺蕩い長く白い美しい髪が揺れる。胎児の如く膝を曲げ液体の中で浮かぶ姿はさながら蝶の様だ。
今日も我が妻は素晴らしく美しい。
もげた四肢は蘇り、爛れた皮膚はシミ一つない。あとはその美しい器に美しい命を宿すだけ。
もうすぐだ。私の願いはもうすぐ叶う。
モンシロチョウ
淡いピンク色の空間に色とりどりの花々。純白のドレス、同じく純白のタキシードを着た二人を讃えるかのように円卓が並ぶホール。その一つに私は座っていた。
眼前に広がる豪華な食事に周りの友人達は会話に花を咲かせながら舌鼓を打つ。私もナイフとフォークを持ちステーキの一切れにフォークを刺した。上等な肉なのだろう。刺した箇所から肉汁が溢れソースと絡まる。そのまま口に運べば甘い肉と酸味が効いたソースの風味が交わり広がっていく。
美味い。
生憎、ボキャブラリーが貧弱な私にはその言葉しか浮かばなかった。
視界の端では白い二人が仲睦まじい様子で食事をしている。微笑む姿は今このホール全体で一番幸せだと側から見てもわかるほどだ。
二人と私には深い深い溝があると感じた。
白と被らないようにネイビーのドレスを着てパールのアクセサリーを身に着け髪を上げ着飾り、美味い食事を楽しみながら埋まらない溝をこれでもかと味わう。我ながら忙しいなと自嘲した。
何かが違えば私も白に包まれあの席に座っていただろうか。そんな事を考えては頭を振る。考えても詮無い事だ、と。
意識を逸らすように目の前の肉に集中する。やはり美味い。美味しい物に罪はない。美味い物の前にはどんな言葉を並べても意味は無いのだ。そう思い込み、口内で纏わりつく脂を流すようにワインを煽る。美味い。美味いのだが、心の中で駄々をこねる幼い私は言った。
「帰ってビールと焼き鳥が食べたい」
今日はあなたの幸せを願いながら一人で呑みたい。それが私なりの祝辞であり、決別なのだ。
ハッピーエンド
ポツポツと浮かぶ星に白い街灯。ネオンが輝く煌びやかな風景でもなければ、宝石を散りばめたように美しい星空でもない。所謂、閑静な住宅街。その先には天に向かって伸びる高層ビルが立ち並ぶ。都会の片隅から覗く味気ない景色をアパートのベランダから眺め私はグラスを傾けた。
氷で冷えたコーヒーが喉を潤す。含まれたカフェインが訪れる睡魔を撃退してくれるだろう。そう期待を込めて私はただただグラスを傾ける。だけど虚しいかな、味はしなかった。
氷だけ残ったグラスを置くと私は近くにあったコンビニのビニール袋を漁った。中にはタバコとライターが入っている。箱を開けてタバコを一本取り出すとライターで火をつけた。タバコの先端が燃え、ふわりと白煙がくねりその後筋の様に立ち昇る。その煙を逃さぬように私はタバコを吸い込んだ。
苦い空気が肺に流れ込んで私は思わず咳き込んだ。なんだってこんな苦い物を好んで吸うのか、理解ができないと思った。
銘柄は知らない。ただあの人が同じ様な物を吸っていたので選んだだけだ。たったそれだけ。
立ち昇り黒檀の空に溶けていく煙を視界の端にとどめてから私はそっと瞳を閉じた。
視界を覆う暗闇の中、思い出すのはあの人の浮かれた声と喜色を含んだ笑み。どうしてかその笑みが腹立たしくて、恨めしくて、仕方がない。
再度タバコを吸い込む。やっぱり苦くて身体が受け付けない。咳き込む度に目尻に浮かぶ涙は感情の発露か、それとも生理的現象か。私には分からなかった。
好きじゃないのに
朝、おはようと言う。朝が苦手な君は寝ぼけながらもおはようとふにゃふにゃした顔で返してくれた。
昼、お疲れ様と君からメッセージが送られてくる。お疲れ様とメッセージを返した。
夜、電気を消しながらおやすみと言う。寝付きが良い君は既に目がとろんとしていて、朝と同じようにふにゃふにゃした顔でおやすみと返してくれる。
そんな毎日を繰り返す。
何もない、ただの習慣。
それが特別な事だと理解したのは、君が目の前から消えてしまってからだった。
朝、おはようと言う。
昼、お疲れ様とメッセージを送る。
夜、おやすみと言う。
自ら発した言葉も文章も空気に紛れ霧散する。誰にも届く事のない、行く当てのない音はただ虚しく響く。
美しい花々に囲まれ額縁の中で微笑む君は、笑うだろうか。あの頃のように返してくれるだろうか。