地方都市にあるささやかな駅ビルに、ある気高き婦人の名を冠した世界的チョコレートブランドが出店している。
いつもなら、値札だけを横目に見て、「お高~い」と胸の内で苦笑しながら通り過ぎる場所だった。
しかしわたしは今日、初めて立ち止まり、
「これください」
迷わず大箱を指さして、一万数千円を差し出した。
大切な私へ、愛を込めて。
いつもありがとう、がんばっているね。
とびきりの感謝は、わかりやすく値段に乗せた。
家路をたどる足取りがはずむ。
ひとりでこっそり箱を開けて、戸惑いながら選び、えいやっと頬張って、小さな背徳と手をつなぎ、陽気に小躍りしてみたい。
明日からは、どんな気持ちであの店の前を通るだろう。
お得意様気取りかな。
「また来年が楽しみ」かな。
「たいして違いがわかんなかった」かもしれない。
どちらにしろ、今までとは違うはず。
わたしは今日、このチョコレートを食べて、ほんの少しだけ世界を変えるのだから。
待っててねの距離とタイム
トイレ行くだけだから、待っててね ドア1枚38秒
買ってくるから、待っててね 5メートル1分
お仕事終わるまで、待っててね 4.3キロ9時間
もうすぐごはんできるよ、待っててね いい匂い5分
すぐ戻るから、待っててね
たぶん遠く 3月11日から4723日
「みて。ソフトクリーム、売ってるね」
毛玉の多いマフラーの中から、母がぽそりと呟いた。
屋上遊園地の古いワゴン。
お客さんはずっと誰もいなくて、特製ソフトクリームと書かれた細長い旗が風に震えている。
「うん……」
我ながら、この上もなく気のない返事をしたと思う。
「……食べたい?」
私は目を見開いて、母を見上げた。
うそ。だって、450円もするよ。
「まっててね」
まっててね、まっててね。
この場所で、まっててね。
さみしく流れるメリーゴーラウンドの音楽を聴きながら、私はベンチで一人、ソフトクリームを食べ終わった。
寒さに震えるわたしの隣に、係員のおじさんが座った。
「お母さんは? どこに行ったのかな?」
「わかんない」
「え?」
「ここでまってて、って」
「ここで、って……。え……。ええーっ……」
おじさんは立ち上がり、じっと地面を見つめるわたしの代わりに、辺りを見回してくれた。
別のおじさんも来て、しばらくしたら、お巡りさんもきた。
いやだ、連れて行かないで。
この場所から離れたら、お母さんが私を見つけられなくなっちゃう。
本当に伝えたいこと、伝えておかなければならないことほど、言葉にすることができないね。
好きだよ、ごめんね、ありがとう。
たったこれだけの言葉なのにね。
言えないまま、別れちゃう。
知らないまま、別れちゃう。
誰もが、みんなが別れちゃう。
分かってるんだけどやっぱり言えないから、信じよう。信じていてほしい。
「言葉にしなくても大丈夫、分かってるよ」
「自分のお葬式に飾ってもらうなら、何の花がいいだろう?」
菊と百合の花にあふれた空間を後にして黒い服を脱ぎながら、ふと考えた。
とはいえ、自分が死んだ後のことだし、真剣に考えたところで仕方がない。
黒い服をハンガーにつるしおえながら、
「ま、別に何の花だっていいか。菊や百合で文句があるはずもなし」
の結論に至る。
はたして家族なのか自治体の方かは分からないけれど、後始末をしてくれるどなた様かに一任でございます。
花を添えて送り出してくれるだけで、十分すぎるというものよ。
──ああ、でも。
本当は、ほしい花束があるんだ。
私が一番好きな花は、シロツメクサ。
最後の時には、シロツメクサの花束を持たせてほしい。
昔、小さな手が集めて作って渡してくれた、シロツメクサの花束。
もし、あの甘い匂いを胸に抱いて眠ることができたなら、いつどんな形で人生を終えるのだとしても、
「本当に幸せな人生でした」
そう神様に報告できるような気がするから。