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7/2/2024, 2:02:10 PM

「小学生の頃、一度だけ家族で海に行った事があったの」
波の音を背に、彼女は話し出した。
「最初は家族四人で楽しく過ごしていたんだけど、暫くしたらお母さんもお父さんも、お姉ちゃんに付きっ切りになっちゃって」
寂しそうな笑顔で続ける。
「目が見えないお姉ちゃんが退屈しないようにって、色々手を尽くしていたのを見て、当時の私はただ嫉妬してた」
「君はまだ小さかったんだ、仕方ないよ」
「そうだね。でも今ならわかるんだよ。お母さんもお父さんも、お姉ちゃんにもっと笑って欲しかったんだって」
彼女は頭上で飛ぶカモメを見上げるように、ガードレールにもたれかかった。

「それで私、急につまんなくなっちゃって、ひとりで海に入ったの」
「泳ぎに?」
「溺れに」
カモメがしきりに鳴いている。
「溺れたふりをすれば、皆が私を見てくれると思った」
子供って結構怖い事考えるよね、と言って笑った。
「海に入って、バタバタ手足を動かして"たすけて"って叫んで。だけど浮き輪を持って行ったから、思ったよりも岸と離れた位置に来ていたみたいで、すぐには気付いてもらえなかった」
「馬鹿だね」
「……ね。そうしているうちに足がつって、本当に溺れたの。そのすぐ後に、浮き輪が浮いているのに気付いてお父さんが助けてくれたんだけど」

海に沈んでいく途中、うっすら開けた目から入ってきた景色があまりに綺麗でびっくりした。強い日差しが海中に降り注いで、キラキラ輝いて見えたの。海の中ってこんなに明るくて綺麗なんだ、って子供心に感動したな。

「今でもはっきり覚えているんだよね。もちろん両親には叱られて、その後謝られた」
その一件で親子関係に変化はあったのだろうか。お姉さんの反応も気になったが、何となく聞けなかった。
「そろそろ帰ろっか」
そう言って彼女が前を歩き出す。僕もガードレールから降りると、一度だけ振り返って海を眺めた。曇りのせいか海に人の姿はなく、閑散としていた。

7/2/2024, 9:36:42 AM

「私と姉は腹違いの姉妹で、歳は八つ離れていました」
あの時の女の妹だと名乗る人物が訪ねて来たのは、つい一時間前の事だ。同級生だという少年も一緒だった。

「姉が亡くなって一年はあの村で過ごしました。でも、私が小学校を卒業した年、両親に連れられてあの村を出ました」
少女が真っ直ぐこちらを見て話す。
「あなたも被災して、この土地まで避難してきた。偶然とはいえ、彼女と同じ土地に」
そう言いながら、少年が一枚の写真を机に置いた。
墓の写真だった。墓前に添えられた花は、自分が置いた物だと男はすぐに気付いた。
「廃村になったあの村に、今も変わらず足を運び花を添えている人はそうそう居ません。あなたは今も姉を忘れずにいてくれているのですね」
少女の目が潤む。いつの間にか男の目にも涙が浮かんでいた。

「………わたしがした事は間違っていたのだろうか……」
遺族である少女に聞くべきではないと思いながらも、男は聞かずにはいられなかった。
少女はすぐには口を開かず、慎重に言葉を選んでいるようだった。
「姉は目が見えませんでした。両親……特に母親は、姉の将来について酷く悲観していました。良い教師に巡り会えたおかげで学校生活はそれなりに送れていたみたいですが、卒業後の進路について、母はよく父と揉めていました」
そこまで話すと、ぐっと口を継ぐんだ。涙を堪えているようだった。
「……姉は周りに迷惑をかけていると思っていたみたいです。誰の手も借りずに暮らしたいと言い続け、高校卒業後にアパートでひとり暮らしを始めました」
質素な部屋だと思っていたが、あの女にとっては念願の生活だったのだと、男は何ともいえない感情になった。

「週に一度、母が部屋を訪れるという条件付きでした。でも、母が体調を崩し何週間か寝込んでしまって……姉も一度家に帰って来たのですが、母が気を遣って姉をアパートに帰しました」
あの時だ、と男は思った。女が、恐らくは父親と電話で話していた日時よりも早く戻って来たのは、そういう経緯があったのだと納得した。

「……姉が自ら死を望んだのなら、あなただけに責任があるとは思いません」
少女は涙をこぼしながらも、力強い瞳で男に言った。その瞳に答えるように、男も口を開く。
「わたしは最後まで迷った……。それまでの人生も、決して人に誇れるものではなかったが、人を殺めてしまえば確実に一線を越え、もう戻って来れないと……」
話す途中で女の顔が浮かんだ。
耐えられなくなり、思わず畳に頭を擦り付ける。
「申し訳ございませんでした………」

少女は、そんな男の後頭部を肩を震わせながら見ていた。少年が少女の背中をぽん、と叩く。
窓越しに猫がその様子を眺めていたが、そのうち飽きたのかつまらなそうに、にゃん、と鳴いて何処かへ歩いて行った。

6/30/2024, 11:25:44 AM

突然の来訪者に男は動揺した。この家の家主が三日も早く帰宅したのだ。
おかしい、下調べは完璧なはずだったのに……。
咄嗟に押し入れに身を隠したが、見つかるのも時間の問題かもしれない。男は家主の滞在が一時的なものである事を祈った。

男には持ち家はなく、他人の家から家へ転々として暮らしていた。"借りぐらし"といえば可愛らしく聞こえるが、立派な犯罪である。男に自覚はあった。だが改めようにも、この歳で何か職に従事する事など無謀に思えた。社会経験もほぼ無いに等しい。何かを始めるのに遅い事などないと言うが、男の心が変わるにはあまりにも遅すぎた。
深夜零時、家主が床についた。男は張り詰めていた神経を少しだけ緩めた。これからどうしようか。明日になれば家主はまた家を空けるのか。男に為す術はなかった。
少しだけ開いた押し入れの隙間から、そっと部屋の様子を窺う。布団に横たわった家主の足先が見える。六畳一間の和室に、布団とテーブル、本棚が一つ。テレビはない。初めてこの部屋に入った時、質素な部屋だと男は思った。それでも自分の稼ぎで部屋を借り、日々暮らしているというだけで、既に男よりも何倍も立派で自立した大人だという事実に、男は情けない気持ちでいっぱいになった。

困った事になった。催してから暫くは我慢していたが、とうとう限界が来たようだ。そっと押し入れの戸に手をかける。家主に気付かれぬよう、ゆっくり戸を動かした。
ガタ、ガタ、と戸が音を立てる。古い木造アパートなので、どう頑張っても無音で行動するのは不可能だと悟った。男は無意識のうちに息を止めていた。家主が起きていないか、先程よりも開いた戸の間から恐る恐る確認する。どうやら家主は疲れているのか、深く寝入っているようだ。
どうにか押し入れから出て、畳に足をおろす。家主の足元を通過し、頭側を通ってトイレへ向かおうとした時、急に足首を掴まれた。
「………!」声にならない声が出た。
いつの間にか家主は覚醒していたようだった。
「誰?」
家主の声は小さく、今にも消え入りそうだ。
「誰なの?」
男が黙っているので、今度は少しだけ大きい声で言った。しかし恐怖からだろうか、若干声が震えている。
男の頭はフル回転していた。どうすれば怪しまれずにこの場を切り抜けられるのか。いや、どうしようと男が怪しいという事実は変わらないように思えた。だが、どうにか自分は無害だという事だけでも伝えようと、男は口を開く。

「あ、怪しい者ではありません……」
どう考えても怪しい者が言う台詞である。
「あなたは誰ですか?」
「あの、ちょっと、部屋を……」
男は正直に言おうとして踏み止まった。部屋を借りていたなどと言えば、通報されて終わりだ。
「あなたに危害を加えるつもりはありません。すぐに出て行きます」
そう言って家主の手を振り解くと、一目散に玄関を目指した。
「ちょっと待ってください」
まさか呼び止められるとは思いもしなかったので、男は驚いて足を止めた。
「私は目が見えません。あなたがどなたか分かりませんが、少しだけ手助けしてもらえませんか?」
そうすれば、お咎め無しにしてあげます、と家主は言った。

―――――――――
あれから五年以上の月日が経過した。
女の墓の前で手を合わせながら、あの時の選択は間違っていなかったのだと、男は自分に言い聞かせた。

6/29/2024, 2:08:20 PM

「入道雲の正体って知ってる?」
「積乱雲。ちなみに夏に入道雲が多く見られる理由は、他の季節よりも頻繁に上昇気流が起こる為で……」
「あ、もう大丈夫です」
彼女は顔の前に手を出し制止すると、コホンと咳払いをした。
「私が生まれた村の言い伝えでね、こういうのがあって……」

夏に命を落とした人間の魂は、上昇気流に乗って空へと昇る。発生した雲の大きさは、死んだ人間の数に比例する――。

「小さい頃にこの話をお婆ちゃんから聞いてね。夏になると空を見るのが怖かったんだ」
今はもう大丈夫だけどね、と彼女は笑った。
「馬鹿馬鹿し……面白い話だね」
「正直なところが君の良いところでもあり、悪いところでもあるよね」
「ありがとう」
「褒めてないよ」
まったく君は……と小声で何やら呟いていたが、聞こえないふりをした。
「小学校を卒業するまでその村に住んでいたんだけど、村で過ごす最終日、荷造りをしている最中にふと外を見たの」
夏の暑い日だった、と彼女は言った。

ひと際大きい入道雲が出ていて、ふと言い伝えを思い出して怖くなった。だけど、何故か目が離せなくて、そうしているうちにどんどん入道雲が大きくなっていったの。
あっという間に空が暗くなって、激しい雨と雷の音に、思わず耳を塞いだ。どれくらいそうしていたのかわからない。ほんの数分だったのかもしれない。気が付くと、母親に手を引かれて車に乗り込むところだった。
逃げるようにして村を出た。車の窓から見える景色は、知らない場所のようだった。強い風と打ち付ける雨の音、氾濫する川。濁った川の水面から、人の手が見えた気がした。

「それから暫くして、あの場所は廃村になったって、両親が話しているのを聞いた……」
話し終わって一息ついた彼女は、不安そうな顔をしていた。両手で自分を包み込むように二の腕を摩っている。
「今、その村がどうなっているのか見に行ってみない?」
どうしてそんな提案をしたのかわからない。ただ、彼女が生まれた村を見てみたいと思った。
窓から見える入道雲は、いつもより一段と大きく見えた。

6/29/2024, 2:40:09 AM

細く長い長い農道を抜けると、山の麓に竹林が見えてくる。そこに頂へ繋がる階段があるから、一段一段数えながら登って。途中で何があっても数えるのをやめちゃいけない。何段かわからなくなったら、四十九段から数え始めるんだよ。決して振り返ったり、走り出したりしないこと。丁寧に、確実に、登り続ける。その先が私達の合流地点だよ。

星が綺麗だな、なんて呑気な事を考えながら農道を歩いた。田舎の夜は静かなようで、実は結構五月蝿い。
蛙が一斉に鳴く。遠くでホーホーというフクロウの鳴き声が聞こえた。
「二十三、二十四、二十五……」
なんとか三十段まで来たが、いよいよ疲れがピークに達しそうだ。
「あと何段あるんだよ……」
ぶつぶつと文句を言いながらも登り続ける。数えるのをやめたら何が起こるっていうんだ?
「………。」何かが聞こえた気がした。足は絶えず動かしながら、耳をすませる。
「………!」祭囃子だ。何処からか、祭囃子が聞こえる。
何処かで祭りがあるのか?わからないが、少しずつ音が近付いてくるように感じた。
「……しまった」
段数がわからなくなってしまった。一瞬、足を止める。何段から数え始めればいいんだっけ。確か……。

―ドンッ。
背後で鳴った太鼓の音と同時に、僕は意識を手放した。

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