Open App
6/30/2024, 11:25:44 AM

突然の来訪者に男は動揺した。この家の家主が三日も早く帰宅したのだ。
おかしい、下調べは完璧なはずだったのに……。
咄嗟に押し入れに身を隠したが、見つかるのも時間の問題かもしれない。男は家主の滞在が一時的なものである事を祈った。

男には持ち家はなく、他人の家から家へ転々として暮らしていた。"借りぐらし"といえば可愛らしく聞こえるが、立派な犯罪である。男に自覚はあった。だが改めようにも、この歳で何か職に従事する事など無謀に思えた。社会経験もほぼ無いに等しい。何かを始めるのに遅い事などないと言うが、男の心が変わるにはあまりにも遅すぎた。
深夜零時、家主が床についた。男は張り詰めていた神経を少しだけ緩めた。これからどうしようか。明日になれば家主はまた家を空けるのか。男に為す術はなかった。
少しだけ開いた押し入れの隙間から、そっと部屋の様子を窺う。布団に横たわった家主の足先が見える。六畳一間の和室に、布団とテーブル、本棚が一つ。テレビはない。初めてこの部屋に入った時、質素な部屋だと男は思った。それでも自分の稼ぎで部屋を借り、日々暮らしているというだけで、既に男よりも何倍も立派で自立した大人だという事実に、男は情けない気持ちでいっぱいになった。

困った事になった。催してから暫くは我慢していたが、とうとう限界が来たようだ。そっと押し入れの戸に手をかける。家主に気付かれぬよう、ゆっくり戸を動かした。
ガタ、ガタ、と戸が音を立てる。古い木造アパートなので、どう頑張っても無音で行動するのは不可能だと悟った。男は無意識のうちに息を止めていた。家主が起きていないか、先程よりも開いた戸の間から恐る恐る確認する。どうやら家主は疲れているのか、深く寝入っているようだ。
どうにか押し入れから出て、畳に足をおろす。家主の足元を通過し、頭側を通ってトイレへ向かおうとした時、急に足首を掴まれた。
「………!」声にならない声が出た。
いつの間にか家主は覚醒していたようだった。
「誰?」
家主の声は小さく、今にも消え入りそうだ。
「誰なの?」
男が黙っているので、今度は少しだけ大きい声で言った。しかし恐怖からだろうか、若干声が震えている。
男の頭はフル回転していた。どうすれば怪しまれずにこの場を切り抜けられるのか。いや、どうしようと男が怪しいという事実は変わらないように思えた。だが、どうにか自分は無害だという事だけでも伝えようと、男は口を開く。

「あ、怪しい者ではありません……」
どう考えても怪しい者が言う台詞である。
「あなたは誰ですか?」
「あの、ちょっと、部屋を……」
男は正直に言おうとして踏み止まった。部屋を借りていたなどと言えば、通報されて終わりだ。
「あなたに危害を加えるつもりはありません。すぐに出て行きます」
そう言って家主の手を振り解くと、一目散に玄関を目指した。
「ちょっと待ってください」
まさか呼び止められるとは思いもしなかったので、男は驚いて足を止めた。
「私は目が見えません。あなたがどなたか分かりませんが、少しだけ手助けしてもらえませんか?」
そうすれば、お咎め無しにしてあげます、と家主は言った。

―――――――――
あれから五年以上の月日が経過した。
女の墓の前で手を合わせながら、あの時の選択は間違っていなかったのだと、男は自分に言い聞かせた。

6/29/2024, 2:08:20 PM

「入道雲の正体って知ってる?」
「積乱雲。ちなみに夏に入道雲が多く見られる理由は、他の季節よりも頻繁に上昇気流が起こる為で……」
「あ、もう大丈夫です」
彼女は顔の前に手を出し制止すると、コホンと咳払いをした。
「私が生まれた村の言い伝えでね、こういうのがあって……」

夏に命を落とした人間の魂は、上昇気流に乗って空へと昇る。発生した雲の大きさは、死んだ人間の数に比例する――。

「小さい頃にこの話をお婆ちゃんから聞いてね。夏になると空を見るのが怖かったんだ」
今はもう大丈夫だけどね、と彼女は笑った。
「馬鹿馬鹿し……面白い話だね」
「正直なところが君の良いところでもあり、悪いところでもあるよね」
「ありがとう」
「褒めてないよ」
まったく君は……と小声で何やら呟いていたが、聞こえないふりをした。
「小学校を卒業するまでその村に住んでいたんだけど、村で過ごす最終日、荷造りをしている最中にふと外を見たの」
夏の暑い日だった、と彼女は言った。

ひと際大きい入道雲が出ていて、ふと言い伝えを思い出して怖くなった。だけど、何故か目が離せなくて、そうしているうちにどんどん入道雲が大きくなっていったの。
あっという間に空が暗くなって、激しい雨と雷の音に、思わず耳を塞いだ。どれくらいそうしていたのかわからない。ほんの数分だったのかもしれない。気が付くと、母親に手を引かれて車に乗り込むところだった。
逃げるようにして村を出た。車の窓から見える景色は、知らない場所のようだった。強い風と打ち付ける雨の音、氾濫する川。濁った川の水面から、人の手が見えた気がした。

「それから暫くして、あの場所は廃村になったって、両親が話しているのを聞いた……」
話し終わって一息ついた彼女は、不安そうな顔をしていた。両手で自分を包み込むように二の腕を摩っている。
「今、その村がどうなっているのか見に行ってみない?」
どうしてそんな提案をしたのかわからない。ただ、彼女が生まれた村を見てみたいと思った。
窓から見える入道雲は、いつもより一段と大きく見えた。

6/29/2024, 2:40:09 AM

細く長い長い農道を抜けると、山の麓に竹林が見えてくる。そこに頂へ繋がる階段があるから、一段一段数えながら登って。途中で何があっても数えるのをやめちゃいけない。何段かわからなくなったら、四十九段から数え始めるんだよ。決して振り返ったり、走り出したりしないこと。丁寧に、確実に、登り続ける。その先が私達の合流地点だよ。

星が綺麗だな、なんて呑気な事を考えながら農道を歩いた。田舎の夜は静かなようで、実は結構五月蝿い。
蛙が一斉に鳴く。遠くでホーホーというフクロウの鳴き声が聞こえた。
「二十三、二十四、二十五……」
なんとか三十段まで来たが、いよいよ疲れがピークに達しそうだ。
「あと何段あるんだよ……」
ぶつぶつと文句を言いながらも登り続ける。数えるのをやめたら何が起こるっていうんだ?
「………。」何かが聞こえた気がした。足は絶えず動かしながら、耳をすませる。
「………!」祭囃子だ。何処からか、祭囃子が聞こえる。
何処かで祭りがあるのか?わからないが、少しずつ音が近付いてくるように感じた。
「……しまった」
段数がわからなくなってしまった。一瞬、足を止める。何段から数え始めればいいんだっけ。確か……。

―ドンッ。
背後で鳴った太鼓の音と同時に、僕は意識を手放した。

6/26/2024, 10:48:08 PM

「今日が、君と最後に会った日だよ」
何の前触れもなく、彼女が言った。
「どういう意味?」
「どういう意味でしょう?」
「質問に質問で返してくる人って嫌な感じだな」
「少しは自分で考えようという気がないのかね、君は」
彼女はソファに腰掛け、偉そうにふんぞり返っている。
「その一、今日が君と僕の今生の別れになる。その二、前回会ったのが今日と同じ日付だった。その三、特に意味はなく、思い付きで言ってみた」
ぱっと思い浮かぶ事をひとまず並べてみた。
「僕的に一番有力なのは、今のところ三番目だと思うのだけど」
「この私がそんな意味のない事をすると思うのかね?」
彼女はまるで長い髭を撫でるかのような仕草で、顎の辺りを触っている。
「否定してあげたいところだけど、悲しいかな、君なら十分有り得ると思う」
僕の言葉に、今度はぷくーっと頬を膨らませ、眉間に皺を寄せこちらを睨む。
「はいはい、正解は?」
軽くあしらって答えを促す。
「その一が半分正解。今日が君と私の今生の別れになった」
その言葉に、思わず僕の眉がぴくりと反応する。
「君は一度死んでいるんだよ」

6/25/2024, 11:41:08 PM

「小説を書いたんだ」
二人きりの教室に僕の声が響く。思ったより声は小さい。
「へぇ、君が書いたの?すごいね。なんてタイトル?」
「タイトルはまだない」
「何それ?夏目漱石?」
ふふっと笑った彼女の髪が揺れた。
「いや、まだ完成していないんだ」
「いつ完成予定?」
「わからない。一生終わらないかも」
「一生をかけて綴られる物語……なんか素敵!」
そんなにいいもんじゃないけどね、と思った。
「僕には長編を書く才能がないんだ」
「短編でもすごいと思うけどな」
「いや、短編とすら呼べない程短いんだ。場面毎のちょっとしたストーリーは思い浮かぶのだけど、それを繋げて一つの物語にする事が出来ないんだ」
彼女に伝わるか不安で、少しだけ早口になってしまった。
「なるほどね……。君、小説家になりたいの?」
想定していなかった質問が飛んできて、動揺してペンを落とした。
「なれるわけないだろ」
「可能か不可能か、じゃなくて、意思の話だよ」
「……そんなになりたいわけじゃない」
「そんなにって事は、少しはなりたいんだ」
否定できなかった。
「私にはよくわからないけどさ、ひたすら書くしかないんじゃない?」
「簡単に言うなよ」
「言うよ」
一瞬、沈黙の時間が流れる。
「簡単に、はっきり、言うよ。そうしないと君は何かと理由をつけて逃げる」

Next