【言葉にできない】
換気のために開けられた窓の隙間から、暖かなそよ風が吹き込む。それは、窓際の席に座る彼女の繊細な髪をなびかせ、ヘアオイルだろうか、優しく甘い香りを私の鼻腔に行き届かせた。
「今日はお散歩日和だね」
隣に座る私に向かって彼女が微笑む。
その静かに囁くような声は、教室に充満した種々様々な談笑の中でも、私の耳にはより際立って聞こえる。
なんの変哲もない日常的な会話だというのに、細められた目や頬に浮かんだえくぼ、彼女の静かで遠慮がちな笑い声が心をくすぐった。
密かに芽生えた、決して表に出してはいけないはずの感情が、彼女と接するたびに膨らみ、自らを主張する。
『私、あなたのことが好き』
何度、そう言えたら、と夢見たか。彼女と交際をする夢想を繰り広げたか。それが叶った人生が、どれほど鮮やかに晴れ渡った世界だったか。
それでも、現実として進んでいるこの世界において、彼女への気持ちを言葉にすることはできないだろう。
スカートの裾をきゅっと摘みながら、コップ一杯に満ちた気持ちに蓋をする。
私は、拒絶に染まるあなたの顔など、望んでいないのだ。
【また会いましょう】
凍てつく外気が皮膚を刺す。真っ暗闇が広がった夜空には、ぼんやりと月が浮かんでいる。
今が何時で、ここがどこなのか定かではない。ただ、感覚に訴える刺激が、ここは現実だ、と言っているようだった。
俺は、ビルの隙間を縫うように逃げ惑う男の背中を追っていた。彼がなぜ逃げていて、俺がなぜ彼を追っているのかはわからない。意識が晴れた時にはすでに、この関係が始まっていた。
俺は懸命に駆ける。冷えで鈍くなった関節を無理矢理に動かす。男の背中が眼前にまで迫ると、腕を伸ばしてそいつを突き飛ばした。
男は突然の衝撃に耐えかね、情けない声をあげながらコンクリートの地面に転げ落ちた。車に轢かれた蛙のようにひしゃげると、おどおどとした顔でこちらを振り返る。
なんとも情けない顔だった。その顔を見ていると、なぜか無性に殺意が湧いた。自分の中にこんなにもどす黒い感情が潜んでいるなんて、信じられなかった。
俺の手には月光を反射する一本のナイフが握られていた。柄を握りしめ、思い切り得物を振り上げる。
なんの躊躇いもなく、男の首筋に鋭利な刃先を突き刺した。鮮やかな血飛沫が吹き上がり、鉄の匂いが後から鼻腔へ入り込む。
何度か鮮血の噴水を出したところで、俺はふと我に返り前方に目を向けた。
男が立っていた。俺に似た男だ。そいつが暗闇でもわかる程ニヤリと微笑む。
「また会いましょう」
何を言っているかわからなかった。
俺はそこで意識を失った。
目を覚ますと、見知ったベッドの上にいた。
何か嫌な夢を見たような気がする。あまりにも現実味が強かったためか、全身が汗でぐっしょりと濡れている。
とりあえずシャワーでも浴びようとベッドから降りた時、何か嫌な匂いを自分が発していることに気がついた。
汗? いや、違う。記憶にある匂いだ。それもつい最近。
俺は急いで洗面所へ向かった。鏡で自分の姿を確認すると、そのおぞましい姿に絶句した。
返り血を浴びたかのような血塗れの俺が、そこには立っていた。
【飛べない翼】
男はギプスに包まれた右腕を天井にかざし、上から注ぐ照明を遮った。
外からは見えない掌を動かそうとしても、雁字搦めに腕を捕らえた包帯がそれを許さない。骨が軋むような痛みだけが右腕には残されていた。
「これじゃ、もうお前を抱きしめることもできないな。使い物にならない腕になっちまったよ。こんなもの、飛べない翼と同じだ」
男は、隣に寝転んでいる彼女へそう呟く。
彼女は無言で、男の腕を見つめていた。
数秒の沈黙を置いて、彼女が口を開ける。
「……何たそがれてんだ。腕折っただけだろうが」
「うるせ! だけってなんだ! こちとら――」
「はいはい、私を車から庇おうとしたら転けて骨折したんでしょ? 何回目?」
「クッソ〜〜〜! 覚えてやがれよ恩知らず!」
「はーい、ありがとうございました優しい彼氏さん」
彼女はそっと男の肩に頭を預け、ギプスに包まれた右腕を優しく撫でた。
男はそれだけで何もかも許せてしまうのだった。
【理想郷】
俺は夢を見ていた。
目を覚ませば、至るところに俺を好く女がいる。酒は湯水の如く湧いて出るし、嫌味ったらしい上司も俺に平伏している。
俺はその国の絶対的な王者だった。何をしても許されるし、俺が言ったことがその国の秩序になるのだ。
以前まで俺が暮らしていた国は、本当にどうしようもない場所だった。俺を馬鹿にする奴らばかりの、腐りきった国。
頭ごなしに俺を否定する、人格が破綻した上司。俺の気持ちをちっとも理解しようとしない、口だけでかい女。少し社会に出るのが遅れただけで、そのことをグチグチと言い続ける毒親。
あいつら全員腐ってやがる。俺は常日頃からそう思っていた。
だから、全員手に掛けた。俺が新しい国へ行く前に、せめてもの配慮で全員あの世に送ってやった。
あいつら、今頃閻魔様の御前で泣き喚いているに違いない。
そう思うと、今までの鬱憤も晴れるようだった。死ぬ間際にも関わらず笑みが止まらない。
俺は新しい国へ行くための切符を思い切り蹴り上げる。椅子がガコンッと倒れ、俺は宙吊りになった。
意識が遠のいていく。待っていてくれ、俺の理想郷。
目を覚ますと、はじめに飛び込んできたのは死体の山だった。腐乱臭と血の臭いが充満している。
あちこちから想像を絶するほどの悲鳴と怒号が耳へ流れ込んでくる。
「俺じゃない、俺はやってない!」
「どうしてこんな酷いことするの、私じゃないんだって!」
「あいつが悪いんだ! 俺はこんなところにいるはずじゃないんだ!」
「さて、君の前科は?」
いつの間にか、目の前には巨大な男が座っていた。口ひげを蓄えた威厳のある赤鬼。そいつが、私を見下してにやりと嫌な笑みを浮かべていた。
【懐かしく思うこと】
私がまだ小学校低学年だった頃の話だ。
私の祖父母は××県の山村で民宿を営んでいた。帰省した際はその空き部屋を使わせてもらったものだ。
民宿は山に通った国道のちょうど真ん中辺りに建っており、その上にもさらに急勾配で幅の狭い道路が続いていた。
帰省して数日、その日も私は暇を持て余していた。一人っ子の私には遊んでくれる兄弟もいなかったし、帰省先のため友達なんているわけもない。そんな私に残された娯楽は、山中を探検することくらいだった。
祖父母に出かけてくる、と告げて外へ踏み出す。夏のじりじりと皮膚を焼くような陽射しが私を照り付けている。既に首筋へ浮かび始めた汗の玉を拭い、蝉時雨が降り注ぐ山林へと進んでいった。
スギの大木があちこちに聳え立っている。生い茂った葉が地面に影を落とし、先程までの茹だるような暑さは消えていた。代わりに、肌寒いというか、薄暗く不気味な雰囲気が漂っている。
私はずんずん奥へと進んでいった。奥と言っても目的地があるわけではなく、ある程度飽きるところまで進めば引き返そうと思っていた。
そんな時、前方に構えたとあるスギの上から、密かな視線を感じた。
小動物だろうか?
咄嗟に私はそう勘ぐった。この森にはリスやムササビ、そういった類の小動物が暮らしているからだ。
私はじっと視線を感じた先を見やる。スギの幹の後ろ、十数メートルほどの高さから、何かの頭が覗いていた。
子どもだ。私と同じくらいの子どもが、頭だけを幹から出して、無表情が張り付いた顔でこちらをじっと覗いていた。
目が合った、と感じるや否や、私はそいつに背を向けて駆け出した。直感的に恐怖を覚えた。
懸命に足を前に踏み出して、なんとか祖父母の民宿へ飛び込むと、私はそこに倒れこんだのだった。
私はあの時、あれはこの世の者じゃない、と直感した。よくよく思い返してみれば、スギの木は頭の方に多く枝を茂らせる。地上十数メートルのあたりまで、当時の私と同じくらいの子どもが登れるわけがなかったのだ。