【放課後】
放課後を知らせるチャイムの音が鳴り渡る。
授業を終えた同級生、下級生たちは一斉に廊下へ駆け出し、数人のグループとなって帰宅を始めた。
もちろん最上級生となった私も例外ではないのだが、未だ一人教室に残って宿題を進めている。
「華子ちゃん、お勉強?」
そう声をかけたのは、同じクラスの女生徒だ。二人の友人を連れている。
「う、うん。もう少しだけ、勉強するの」
「まだ私たち小学生なのに、すごいね」
「そんなことないよ、することがないだけ……みんなは気をつけて帰ってね」
私は彼女らに軽く手を振ると、向こうも「ばいばい」と残しながら背を向けて帰路についた。友人と言える程ではなかったが、私に気を遣って話しかけてくれる優しい子たちだ。
私には友達と呼べる人間がクラスにいなかった。何もいじめられている訳ではないのだが、元より引っ込み思案な私は誰かと仲良くてきるはずもなく小学六年生まで上がってしまったのだった。
少しだけ手を付けた宿題をとんとんと机で角を整え、そのままランドセルにしまう。こんな時間まで残っていたのは、何も宿題をするためだけではない。本来の理由は別のところにあった。
私は教室を出て、階段を降り三階へ行く。階の端に設置された女子トイレに入り、入り口から見て三番目の個室の前に立った。個室の鍵には、中に人が入っていないことを表す青色のマークが記されている。
この時間、三階の三番目の個室からは不思議な空気が漂っている。そこだけ異界につながっているかのような、現実とは違う空気の流れを感じるのだ。残念だが、言葉ではなかなか言い表せるものではない。
私はその個室に、コンコンコン、と三度ノックして呼びかける。
「花子さん、あそびましょ」
数秒の沈黙。
その後、中から「は、あ、い」と可愛らしい少女の返事が聞こえたかと思うと、ギィィと鈍い音を立てて個室の扉が開いた。
「またあんたね。全く、暇人の相手をしているほど私は暇じゃないの」
中から現れたのは、黒髪を綺麗なおかっぱに整えた可愛らしい少女であった。血色は悪く、顔や肌は少し青白いようにも思える。今時珍しい赤い釣りスカートを履いていた。
花子さんは悪態をつきながらも、私を個室の中へ手招いた。
私は放課後、時折この個室に遊びに来ていた。出会いはただの暇つぶしで、『はなこ』という同じ名前を持つ都市伝説に興味を持っただけなのだが、なんとも思いがけず波長が合ったのだ。
「ねぇ、花子さん。私、今日もクラスの子とうまく話せなかったの。こんなので中学生になれるのかな」
「何、また恥ずかしくなっちゃったの?」
「……だって、何か話そうと思うと、つまんないって思われないかなぁ、とか気になっちゃって」
「あのね、あんたに話しかけているクラスの子は、あんたと話したいからわざわざ話しかけてるのよ。あんただって、私と話したくてわざわざここまで来てるんでしょ?」
「そうだけど……」
「だったらいいじゃない。私なんて、話せる人間あんたくらいしかいないんだから。あんた、根はいい子なんだから素直になんなさいよ」
「……ありがとう、花子さん」
「ああ! くすぐったい! そんなことより、人間の世界でなんか面白いゲームとか、ニュースとか、ないの!」
こうやって、私が相談して花子さんが答える、というのがいつもの流れだった。たまに花子さんから人間界について聞かれることもあった。
花子さんは、私の背中を押してくれる。私のことをよく理解してくれている。
中学生にあがると、もうこのトイレも使わなくなってしまうのだろう。 私の小学校生活を支えてくれたのは紛れもなく花子さんであり、この放課後の時間だった。
あと数ヶ月余りに迫った小学校で過ごす放課後を、私は最愛の友人と共に大事な思い出として心に留めるのだ。
【力を込めて】
ぎぃこぎぃこと船を漕ぐ。櫂が鳴らす一定の音色は心地良く私の耳に染み付き、やはりこれは天職なのだと悟った。
私は川の渡守だった。川と言ってもただの川ではない。上流から下流まで、果てしなく霧が立ち込め全貌を計り知ることのできない広大な川だ。向こう岸へ渡るのにおおよそ二ヶ月弱掛かる。ほぼ海と言って過言はないだろう。
客は一人だった。無精髭を生やしているが、まだ若々しさが見て取れる。それでも、顔に生気は宿っておらず、視点もどこか虚ろとしていた。
もうここ一ヶ月以上は二人で無言の時間を過ごしていた。男はずっと正座のままで、何も発しないし反応しない。ぼうっと水面に広がる波紋を眺めていた。
もう少しで向こう岸に着く、という時に、私はふと思い立ち男に声をかけた。
「なあ兄ちゃん。あんた、何したんだい、そんな若いのに」
男は水面から視線を私に移した。その目の奥はやはり濁っている。喉から声をだそうしているようだが、久方ぶりに喋るものだからがらがらと喉元で音が滞っている。
「ゆっくりでいい、話したくないなら話さなくたっていいさ」
男は尚もぼうっと私を見つめるが、その口はパクパクと何かを喋ろうとしていた。
少し経って、それがようやく音を出す。その声は痰が絡まって、その上やけにか弱く聞き取りにくいものだった。
「……お、おれ、いけないこと、したんです。やっちゃいけないこと、しちまったんです。とんでもねぇことしちまったんです」
男はそう言いながら、か細い涙の筋を数本作った。飲まず食わずで脱水状態であるだろうに、涙はでるのだな、と私は感心した。男は後悔しているのだ。
「そうかい。これから行くところは兄ちゃんの罪の重さを決めるところだがな……まあなんだ、成るように成るさ。兄ちゃんが何したか知らねぇけど、冥土にだって情状酌量ってやつはあるからよ」
男は膝の上に置いた拳を握りしめていた。顔は後悔の表情で余計に歪んでいく。
私が彼の行いを知らない、というのは嘘だ。三途の川の渡守は、乗る者が生前何をしたのか全て把握しているし、そこから大方どのような判決が冥土で下されるのか予想ができた。
彼は両親を殺め、その後自ら命を断ったらしい。原因は介護疲れだそうだ。もちろん根本の理由がそれなだけであって、もっと多角的な要因が隠れているのだろう。
殺人は重罪だ。それも両親。それでも細かな要因を辿っていけば、あるいは刑が軽くなるかもしれない。
こうして嘘をつきながら声をかけることが正しいことかは未だ判然としない。過ちなのかもしれない。それでも私は、冥土へ逝く者たちが少しでも報われるように、こうして手向けの言葉を力を込めて投げかけるのだ。
【過ぎた日を想う】
ある一匹の働きアリは、餌を探し求めてとある家屋に入り込んだ。餌の匂いを頼りにあちこちをさまよい歩く。家主に見つからないよう、端の方をとたとたと辿った。
匂いは戸棚の方から降りてきていた。アリは匂いの源泉を求め上まで這い登る。
木製の戸棚には所々に錆びた螺子が打たれていた。そのうちの一本、周りのものとは違い支柱から飛び出し体が露わになった螺子が、アリに話しかけた。
「ちょっとちょっと、そこのアリさん。少し話し相手になってくれやしないかい」
「はぁ、私、急いでいるんですが」
「なに、家主は今外に出ているんだ。見つかりやしないよ」
「それであれば、少しなら」
錆びた螺子はその返答を聞き満面の笑みを浮かべた。
螺子は久々に他者と話したのか、よく口が動く。話を聞くところによると、どうにも歳のせいか錆がひどく、余命僅からしい。
「それは、お気の毒ですね」
「ははは、そう心配しなくていいんだよ……ところでアリさんは、今、生きていて楽しいかい?」
螺子は柔和な声色でそう尋ねた。
アリはすぐには答えられなかった。日々働き詰めの、巣に餌を運ぶだけの毎日だ。それが当たり前であって、楽しいかどうかなんぞ考えたこともなかった。
「……わからないです。上手くいかないこともあって、楽しいだなんて考えたことはないかもしれない」
「難しいよなぁ。でもね、時間ってのは有限なんだ。特に君たちのような、命あるものは」
アリは黙ってその話を聞いていた。
螺子は構わず話し続ける。
「体だって永遠じゃない。僕みたいな単なる螺子も、身は錆びるしいつかガタがくる。一人じゃ何もできやしない。でも、また巻かれることでもう一度踏ん張ることができるのさ。役に立つことができるんだ」
「それは、螺子さんが望んだことなんですか? それで楽しいんですか?」
「ああ、僕は命を持たないものだからね。一本の螺子としてこの戸棚を支えることが僕の使命なんだ。でも君は少し違うだろう? 働きアリとして社会の歯車の一部分を担っているんだろうけど、脳みそを持って、日々懸命に生きてる。何度でも言うけど、時間は有限なんだ。過ぎた日を想っているにはあまりにも時間が足りないんだよ。それなら毎日を楽しんだ方が余程利口さ」
「……螺子さんも、悩むことってあるんですか」
「そりゃあ、そろそろこの戸棚も新調かなぁ、なんて思うことはあるけどね。そんなこと考えたって仕方ないさ。僕に何かできるわけはないし。……と、話し過ぎたね。歳を取ると若い子に説教じみたことを言ってしまって自分が嫌になってしまうよ。そういえば--」
「もう結構です」
「あ、そう?」
アリは話が長引きそうだったので、ぴしゃりと螺子の言葉を遮る。少し寂しそうな螺子の顔が良心をチクチクと痛めた。
「でも、なんだか楽になりました。お元気で」
「そうかいそうかい、嬉しいこと言ってくれるねぇ。アリさんも達者でな」
アリは螺子へ別れの挨拶をすると、餌の源泉へ再び足を向ける。戸棚を登っている最中、ふと周囲の景色が視界に入った。
だだっ広いリビングだ。人間が使う特大サイズの家具が所々に座している。
アリはその景色がやけに気になった。先の螺子の影響だろう。匂いの源泉から引き返し、この景色のあちこちを散策してみたくなった。彼の話で、少しだけ、世界が開けた気がした。
【巡り会えたら】
僕は小さな小さな命を持ってこの世に産まれた。
小さな、というのは何も比喩的な表現ではない。本当に小さな命なのだ。
僕は、僕よりも小さな命を食べて暮らしていた。それはぶんぶんと飛び回るハエであったり、草陰にじっと構えるバッタであったり。そいつらが目の前に現れたら、備わった鎌で餌を捕らえ雁字搦めにするのだ。
そんなある日、僕は恋に落ちた。同種のメスだ。豊満なフォルムに大きく愛らしい複眼。一目惚れだった。僕たちは番となり、本能が赴くままに交尾をした。
交尾中、彼女はじっとこちらを見つめていた。少し照れて僕も見つめ返す。彼女のクリクリとした複眼は、僕の顔を一つひとつの個眼に反射して映し出していた。
すると、突然彼女がその強靭な鎌で僕を押さえつけ、頭の端を顎で噛み砕いた。ごきりと僕の頭が割れ、中を満たす体液が溢れ出す。しゃくしゃくという咀嚼音が谺する。彼女は美味しそうに僕の一部を食んでいた。
僕はふと、ヒトという生物について思い返していた。生物界を支配していると言っても過言ではないヒトという種族は、番になると生涯愛し合い連れ添い続けると聞いた。
体液が溢れ死がその際まで差し迫っていることを感じる。もし違う形で君と巡り会えたなら。例えそれが叶わぬことだったとしても、そう思わざるを得なかった。
【たそがれ】
日がゆっくりと沈み始める。夕焼けは徐々に夜空へと移り変わり、昼と夜の境界が淡くぼんやりとしていた。
太陽がその身を隠すと、それに合わせるようにひょっこりと姿を現す者たちがいる。
逢魔時が始まるのだ。人間らは黄昏時とも呼ぶらしい。
どんからどんから、しゃんしゃんしゃん。
どんからどんから、しゃんしゃんしゃん。
ほら、賑やかな音が聞こえてきた。
そいつらは何も二、三匹で現れるわけではない。百鬼夜行、おどろおどろしい異形たちの行進だ。
鼓や三味線、琵琶の付喪神たちは自ら音を奏でている。
その一歩後ろをがらがらと進むのは、どでかい顔が貼りついた牛車の妖怪。そいつの中から何者かが声を出し、どでかい顔と何かを話していた。
「おぅい朧車、もう少し早くできんかぇ」
「なにを言う取りますか。轢いちまったらとんでもねぇ」
「そうかいそうかい。であれば、あっしはゆったり外の景色でも見ていようか」
「おお、おお、それは良いご身分ですなぁ」
「なんとでも言っておけ」
会話が終わったのか、朧車と呼ばれた牛車の物見から、ぎょろりとした二つの目玉が外界を覗く。そこには、目玉の他に真っ赤な複眼が備わっていた。そいつはまたも牛車の中に姿を隠すと、今度は朧車の背中についた簾を上げ、その全身を晒した。
そいつは、妖艶な雰囲気を纏った美しい女だった。人間の四肢の他に背面から四本の、毛の生えた昆虫のような脚が生えており、蜘蛛を彷彿とさせる。その脚は節をうねうねとさせ、まるで別の生き物かのように蠢いていた。
「絡新婦(じょろうぐも)や。後ろの景色はどうですかな」
「行列のケツはどこにあるやら。果てしなく遠くにも灯りが見えるぞ」
「かっかっか。さすがは百鬼夜行、愉快ですなぁ」
どんからどんから、しゃんしゃんしゃん。
どんからどんから、しゃんしゃんしゃん。
賑やかな御囃子を奏でる異形の行列は、今日もまた、この国のどこかの通りを練り歩くのだった。