心が芽吹くような、そんなちょっとした感情の揺らぎ。
いつの間にか感じるようになって、それは何度も繰り返していく。そのうちに気づいた。僕は"彼女"に恋心を抱いている、ということを。
彼女は、なんてことない同級生でしかなかったし、関わる機会なんて無かった。これからも差程ないだろうと思っていた。
しかし、とある時にふと呟くように話した、とあるアニメの話。その時に、彼女は過去一番に食い付いたのだ。あの時の目の輝かせ方、身の乗り出し方、「自分だけでない」という感情の現れだろう。多分、僕も同じ様子を浮かべていた。
そこから、熱く語っては、真っ暗な空を見て慌てて二人で帰る、でも帰りながらもまた語る…そんな日々が続いた。この時までも自分は彼女を友達以上に感じていなかったのだから、驚きだ。
ふと朝目覚めた時、布団の中で気づいた。
あ、これは好きだな。告白したい。と。
さて、最悪告白の失敗については差程恐怖を感じていない。むしろ、告白によって友達関係でない何かに変わるのであるから、それが他人であれ恋人であれ、変わるのだ。それが怖いのだ。
もはや自分でも何を言っているのか、分からないままどこか浮き立つ気持ちで登校する。よくもまぁ道中轢かれなかったものだ。クラクションの音が未だ耳腔に響いているが。
その人の顔を見て、やっぱり朝の感情は尚顔を出す。なんなら今朝より感情はハッキリしている。
「あ、あのさ……!」
最早衝動とも捉えられる僕の誘いに、彼女は簡単に承認してくれた。
成功か失敗か。恋人か他人か。
僕はまだ、愛おしげに笑ってくれる君を、知らない。
サラサラと、万年筆が原稿用紙の上を滑る音だけが響く、書斎。他に一切の雑音を聞こえさせない。この万年筆の音すら無くなってしまえば、私は自身の筋肉が振動している音さえ聞こえてしまうのではないかと言うほど、無音に等しい。
そしてこの空間で書を書けることが、今となっても誇らしげに思える。
私が書いていたのはただの一作の物語―いや、「書かされている」という受動態の方がいっそ正しいかもしれない。何故ならこの万年筆の音は私が意図している音では無いからだ。何、シンプルに言えば腕が勝手に動いているようなもの。故に私もこの先の展開が分からない。だからこそ、面白みがあるというのだが。
しかし、今私の前に「書かれている」物語は、ありきたりで、陳腐で、根の腐った植物のような、つまらない物語だ。俗―長いこと外の世界からこの書斎に遮断された私にそのような言葉を使う資格があるかどうかは疑問だが―に言えば、戦士と魔王の話だ。いやはや実につまらない。しかし筆は動き続ける。一定のテンポで、まさにこの筆の1秒ごとに話も1秒更新されていく。
気づいた者もいただろう。私はこれまで物語と表現していたが、実際のところ、人の人生も物語だ。
だからこそ私の手は止まらない。なぜならこんなつまらない作中を長々と続けさせるこの忌々しい戦士が生きているからだ。しかし私からは何も出来ない。出来ることなら、こいつの頭に象でも落としてやったんだが。
つまらない作業だが、時折興味深いことも起きる以上、辞めることはまぁできない。
そら、もうすぐ転じるだろう――何?
…ありえない、まさかありえない。ただでさえ下らないこの物語は、魔王さえも戦士の玩具か?こんな容易く魔王は殺されるのか?
神の作る作品にケチはつけられないが、いやはやこれは。最早嫌がらせに等しい。こんなやつの最期まで描き続けろと私に言うか?
ふざけるな。
私は無理やり自分の動き続ける腕を引っ掴んで、下に引きずり下ろした。
バリバリバリ、と、唯一書く音しか聞こえなかったこの書斎に、紙が破かれる音が響く。
これで、良し。私はそのまま拘束していた腕をようやく離す。そして破れた、つまらない、掃き溜めのような原稿用紙を退け、新たに用意する。いっそのことこの戦士の物語全てを白紙に戻したかったが、やはり長編は厳しい。
さぁ、戦士よ。
「やり直しだ。」
私は再度、筆を取り直した。
サラサラと、万年筆が原稿用紙の上を滑る音だけが響く。
永禄3年、5月19日。駿河、遠江、三河を領国とする将軍今川義元が、自軍陣地にて構えていた。
しかし実際、陣地内は勝利を確信した兵たちによる、お祭り騒ぎであった。
ある者は酒を飲み、ある者は陽気に歌を歌い、ある者は笛まで吹いている。
そんな中、今川義元は高笑いをしながら、白く化粧された自らの頬を軽くさすった。
「皆の衆、織田軍の拠点も打ち崩したとの伝達を、松平元康から受けた。尾張の国が我の領になる日も近いぞ!」
義元がそう叫ぶと、兵たちは勝ち誇ったように槍を上へ向け、一斉に雄叫びを上げた。
だが、空模様はその雄叫びをものともしていないかのように、じっと曇った様子を見せている。
その時ポツ、と、一雫の雨粒がとある兵士の兜に当たり、弾かれた。
と、その直後。そんな1滴から始まった雨はすぐに地面を穿つような激しい雨へと変わった。
「まったく、天候は我に味方せんか……」
義元はぶつくさと不満げに呟きながら、慌てて屋根の下へと避難していった。外を見渡しても、あまりの雨量で霧が立ち込め、ただの会話だけでも、少し声量を大きくしなければまともに行うことが出来ない。
「……不吉な予感がするのぅ……」
扇子で顔を仰ぎながら、暗く雨を落とす雨雲を、虎のように冷たく睨んでいた。
幸い、雨は短時間で止み、暗い空の端から眩い日光が差し込んでいた。
避難していた護衛兵も、いそいそと武器を持ち、持ち場へ戻っていく。ぐちゅ、ぐちゅと、ぬかるんだ地面が踏まれる度、不快な音を立てていた。
その時だった。大きな荒声と、集団が走る足跡。時折馬の蹄の音や、鳴き声が聞こえてきたのだ。しかも、その方角は全て同じ、北側である。
と、その直後に、北側の護衛兵が驚愕の声を上げた。
義元は、分かっていた。
「織田軍の奇襲! 織田軍の奇襲!各い……」
護衛兵の声は、一気にかき消された。北側の布壁を引き裂き、踏み越えてやってきたのは、
「狙うは義元の首ただ一つ!!! かかれぇぇぇぇ!!!」
織田の家紋を掲げた、織田信長だった。
一対一であれば、足元にも及ばない相手であった。
しかしそれは、「互いの兵力が集中していた時」の話である。義元は、不覚にも万単位の兵力を、織田軍の陣地侵略へと向かわせていたのだ。
つまるところ現在、当の本人義元の護衛部隊は、織田軍の半分にも満たなかったのである。
数時間前まで、お祭り騒ぎであった陣地は、今では完全な混乱状態に陥っていた。あちこちで悲鳴や、命を斬られる音が響く。当然義元も将軍である、戦闘経験は心得ている。しかし、混戦状態でその実力を発揮できるはずもなかった。
逃げるしかない。屈辱的にも、しかし最適な方法であった。幸い本丸は戻っている最中、その軍と合流できれば……そんな僅かな望みを抱いて、敗走の手段に出た。
が、彼のふくよかな身体と、さらにぬかるんだ地面が、彼の足を引っ張る。それでもなんとか、あと一歩で混戦状態の陣地から抜けられる、そんなところまで来ていた。
だが、彼は、背後からの馬の気配に気づくのが、一瞬遅れてしまった。
後ろの者の影が、自分に重なる。
「義元、覚悟ぉぉぉ!!!」
ここまで来ては、彼は引き下がれない。必死に刀の柄を握り、反撃に転じようとした。
抜刀する、という脳の命令は、否、脳から送られていた全ての命令は、ストンと、瞬く間に断ち切られた。
ヒラヒラと、風になびかれて、赤く染った葉が空を舞う。
今年は季節外れの暑さが続いたせいで、随分と遅い秋に突入している。去年までなら、「もうすぐ冬だ」なんて言ってただろう。
ふと前を向くと、紅葉の木は川沿いにそって伸びている。その様子も、とても綺麗だ。
川には紅葉の絨毯が敷かれ、次から次へと継ぎ足されていく。川の水は絨毯を川下へ流しながら、ゆったりと自分も流れていく。かつて、平安前期の六歌仙の一人である在原業平が、「ちはやふる…」から始まる短歌を詠みあげた理由が、何となくわかった気がする。
また、冬になれば葉が落ち、雪が積もる。春になれば今度は桜の出番だ。夏はみずみずしい緑の葉を生い茂らせ、虫達を集める。
それもまた、とても綺麗だ。
ジリリリリ、ジリリリリ。
真っ暗な寝室に、鳴り響くスマホのアラーム音。私は唸るような声を出して、また静かな空間を作り出す。
「……いつもながら……慣れないなぁ…」
寝癖でぴょんぴょん跳ねている長い髪を、軽く手で解かしながら、カーテンを勢いよく開ける。シャッ、という音と共に、真っ暗な空が窓から見える。
現在時刻、午後十一時半。この昼夜逆転は、やっぱり慣れない。私はそのままこじんまりとしたリビングで、支度を始める。
スーツに身を通すと、眠気でだらけていた体が、ピシッと引き締まる。原理は不明だが、毎朝……ではなく、毎晩この原理で助かっている。色々入れたバックパックも背負えば、準備万端だ。
「じゃ、行ってきますっ」
誰もいない部屋にそう声をかけ、外に出る。マンションの5階から一気に階段を駆け下り、駅まで走っていく。改札口を通った時には、その場に座り込んでしまうほど、息を弾ませていた。自転車とかバイクでも使えばもっと早く、楽に済むだろうが、いつもこの通勤方法を使ってる所以、そう乗り換えたくはなかった。
バッと上を見上げ、電車の便を確認する。画面にはただ一つ、おそらく別の言語で読めない駅の名前がぼんやりと映っている。良かった、間に合ったようだ。
ほっとしながら、やっと息が落ち着いたので立ち上がり、また階段を勢いよく駆け下りた。
駅のホームには、ほとんど誰も居ない。せいぜい、顔を真っ赤にし、酔っ払ってベンチで盛大にいびきをかきながら寝てしまい、終電を逃した哀れな中年の会社員が一名いるくらいだった。
「まもなく、電車が到着します……黄色いブロックの内側まで、お下がりください……」
聞き馴染んだそのアナウンスと共に、電車がやってくる。見た目は普通の電車だ。相違点があるとするなら、車掌席の窓は曇って一切中が見えないことくらいだ。
電車はホームに停り、ドアが開く。中に入ると、やはり誰もいなかった。誰にも迷惑をかけなくて済む、と意気揚々としていると、ドアが閉まり、発車し始めた。落ち着いて座席に座り、窓を眺める。ほとんどの民家や店は明かりを消していて、時折見える大きなショッピングモールなどは、明かりをつけ続けている。それか、点々と見える明かりはコンビニだろうか。
そんなことをぼんやり考えながら、じゃ、また後で、とつぶやく。そして、窓に指で線を引く。キュ、キュ、と、自分以外誰もいない車両内に、指で窓を擦るような音を響かせる。
数分ほどで、自社のロゴが描けた。意外と描く量が多いので、時間がかかるのだ。そんな時。
「……合図を…検知しました…行き先を変更します……次は…『███鄉』です…」
やっぱり一部はよく聞き取れないが、上手くいったようだ。窓の景色はたちまち、トンネル内で何も見えなくなる。
トンネルを抜けると、そこには、大自然が広がっていた。初めの時は、どういう原理か不明で、ずっと困惑してたのをよく覚えている。
もうお気づきの方もいるだろう。この電車の便は、一般人にとっては「存在しない」便なのだ。だからこそ、真夜中に電車が走ってても、誰にも不審がられたりしない。まぁ、駅前の会社員は、普通の電車が来ても起きそうにないが。
行き先が途中で変更されたのも、カモフラージュのため。特定の人物が特定のアクションを起こさない限り、行き場所は██鄉にはならず、最寄駅となるのだ。
一度そのアクションを間違えて、思いっきり遅刻したこともあったな、なんて思い出し笑いをしていると、またアナウンスが流れた。
「まもなく…███鄉…███鄉…お出口は…右側です…」
さて、お仕事頑張りますか。そう気合を入れるように、狐の面をカバンから取り出し、顔に装着する。
電車が止まり、女はサッと立ち上がって、カバンを持って下車する。
ふわり、と、名刺が落ちた。
「ブラゴネ・アプリケーション社員 ███ ███
(以下省略)」