その時はただ、ぼんやりとしか考えてなかった。
凄く綺麗な声だと。流暢で、余程上手いニュースキャスターでしか聞けないような――先輩にとっては普通かもしれなくても――綺麗な滑舌だった。
初期はこの人が部長だと勘違いしたほどだった。――正直後々を見れば訂正しなくとも良いが。
でも、それこそまだぼんやりしていた。あれに至るまでの感情は抱いていなかった。
次に、面倒見のいい人だと思った。というより、気配りが信じられないレベルで強いと。誰かが苦戦してたら支え、そして組み合わせれば最悪喧嘩になるメンバー同士を上手く躱させたり、仕事に不備があれば誰かに言う暇すらなく終わらせる。
いつの間にか、その心に甘えていた自分がいた。正直今でも申し訳ないと感じている。
体育祭で叱ってくれたり、クリスマス会で家にあがらせてもらったり。
知らなかった。知ろうともしなかった。先輩が、限界だったってことに。
1月のあの日、先輩の声を聞いて愕然とした。
笑っているのに、声は震えている。先輩の癖だ。辛い事を話す時、失笑する。口元を抑えたりしてるのか、時折音が篭もる。
『もう限界』
今でも、あの言葉は脳に焼き付いている。
当然だ。聴いた後、何度も何度も頭を殴り付けたから。二年前から何も変わってない自分が、それどころか『先輩を追い詰めた』ということが、今でも戒めとして残っている。
あの時、改めて先輩と下校した時に、先輩は様々な事を吐露した。文化祭の以前から、みんなが仕事をしなくなったこと。ずっと仕事に忙殺されていたこと。そして、行動に移したことを感謝された。
思えばあの日から、あの時から、先輩の事を強く意識し始めた。恋愛感情すら追い付かない、『この人を支えられるようになりたい』という感情。
先輩と接する事が多くなるにつれ、その感情が尊敬に変わるのは早かった。先輩の見えていなかった凄い所を知る度、惹かれていった。いつしか、先輩は人生初めて『人生における』尊敬者となった。
当然今も、それは変わらない。仕事が出来て、ユーモアもあって、周りどころか先のことすらも見ることができて。話は上手く、周りを引き込む。リーダーシップもあり、そして正しく叱ることが出来る。発想も豊かで、頭も良い。人の話にも乗れるし、興味のあるなしもはっきり言える。
頭の中だけだった、作り上げた理想に最も近い人。もしも同僚なら、最も恋焦がれた人だっただろう。
無論簡単に追いつけるとは思っていない。先輩に追いつくということは、理想に追いつくに等しい。数年、或いは数十年以上要するだろう。自分を曲げなければいけない時もあるかもしれない。方向性が違う以上、卒業後は関われないかもしれない。
それでもいつか、先輩の隣に立てたら。支えられたら。真に認められたら。唯一になれたら。
夢叶うとは、そういうことだろう。
私は彼が好きだ。
いつも明るいし、笑ってるし。こっちも笑顔をくれる。
誰にでも話しかける気さくだし。
私は彼が嫌いだ。
空気を読まずにヘラヘラ笑って、バカみたい。
他の人たちも巻き込んで、雰囲気もぶち壊し。
私は彼が好きだ。
誰にでも優しいし、相談あればちゃんと聞くし、アドバイスもくれる。その後も、ちゃんと心配してくれる。
私は彼が嫌いだ。
周囲に甘すぎるし、第一他人事のくせに責任強過ぎ。自分がいつか潰れるって、分かってない。
私は彼が好きだ。
マイペースで、縛られない。一度こうだと決めたらその道にまっすぐ突き進む、その心は簡単にブレない。
私は彼が嫌いだ。
人のアドバイスも、忠告も、全く耳に貸してくれない。意気地無しもムカつくけど、意気地あり過ぎもムカつく。
私は彼が好きだ。
大切な人のことを大事に思える。他の人とも関わりながら、ちゃんとその人の事は見続けられる、そんな、一途。私の方に向いてたら、同じ感情を注いでくれるのかな?
私は彼が大嫌いだ。
どんなに話しても、笑ってても。こっちのことはどうせ見てないんでしょ?だったら話しかけないで。
希望なんて見せないで。
私は彼が好きだ。
あの子の話をすれば、彼は決まって赤い顔を見せる。嬉しかったら笑うし、悲しかったらちゃんと泣く。
分かりやすくて、かわいいな。
私は彼が嫌いだ。
あの子の話をすれば、決まって彼は顔を赤くする。
少しくらい、表情隠しなよ。隠し事も下手くそだから、かえって夢を見なくて済むけどね。
私は彼が好きだ。
私が「どうかな」って言った時、彼は素直に伝えてくれる。『可愛い』って言ってくれた時、ほんとに嬉しかった。彼はいつも気持ちがストレートだ。
私は彼が大嫌いだ。
誰にでも言うくせに、あのこの前だけ、特別。私は彼の特別になれない。そのくせ『可愛い』だなんて、バカげてる。彼はバカだ。私もバカだ。
私は彼が好きだ。
私は彼が嫌いだ。
私は彼を、愛していた。
心が芽吹くような、そんなちょっとした感情の揺らぎ。
いつの間にか感じるようになって、それは何度も繰り返していく。そのうちに気づいた。僕は"彼女"に恋心を抱いている、ということを。
彼女は、なんてことない同級生でしかなかったし、関わる機会なんて無かった。これからも差程ないだろうと思っていた。
しかし、とある時にふと呟くように話した、とあるアニメの話。その時に、彼女は過去一番に食い付いたのだ。あの時の目の輝かせ方、身の乗り出し方、「自分だけでない」という感情の現れだろう。多分、僕も同じ様子を浮かべていた。
そこから、熱く語っては、真っ暗な空を見て慌てて二人で帰る、でも帰りながらもまた語る…そんな日々が続いた。この時までも自分は彼女を友達以上に感じていなかったのだから、驚きだ。
ふと朝目覚めた時、布団の中で気づいた。
あ、これは好きだな。告白したい。と。
さて、最悪告白の失敗については差程恐怖を感じていない。むしろ、告白によって友達関係でない何かに変わるのであるから、それが他人であれ恋人であれ、変わるのだ。それが怖いのだ。
もはや自分でも何を言っているのか、分からないままどこか浮き立つ気持ちで登校する。よくもまぁ道中轢かれなかったものだ。クラクションの音が未だ耳腔に響いているが。
その人の顔を見て、やっぱり朝の感情は尚顔を出す。なんなら今朝より感情はハッキリしている。
「あ、あのさ……!」
最早衝動とも捉えられる僕の誘いに、彼女は簡単に承認してくれた。
成功か失敗か。恋人か他人か。
僕はまだ、愛おしげに笑ってくれる君を、知らない。
サラサラと、万年筆が原稿用紙の上を滑る音だけが響く、書斎。他に一切の雑音を聞こえさせない。この万年筆の音すら無くなってしまえば、私は自身の筋肉が振動している音さえ聞こえてしまうのではないかと言うほど、無音に等しい。
そしてこの空間で書を書けることが、今となっても誇らしげに思える。
私が書いていたのはただの一作の物語―いや、「書かされている」という受動態の方がいっそ正しいかもしれない。何故ならこの万年筆の音は私が意図している音では無いからだ。何、シンプルに言えば腕が勝手に動いているようなもの。故に私もこの先の展開が分からない。だからこそ、面白みがあるというのだが。
しかし、今私の前に「書かれている」物語は、ありきたりで、陳腐で、根の腐った植物のような、つまらない物語だ。俗―長いこと外の世界からこの書斎に遮断された私にそのような言葉を使う資格があるかどうかは疑問だが―に言えば、戦士と魔王の話だ。いやはや実につまらない。しかし筆は動き続ける。一定のテンポで、まさにこの筆の1秒ごとに話も1秒更新されていく。
気づいた者もいただろう。私はこれまで物語と表現していたが、実際のところ、人の人生も物語だ。
だからこそ私の手は止まらない。なぜならこんなつまらない作中を長々と続けさせるこの忌々しい戦士が生きているからだ。しかし私からは何も出来ない。出来ることなら、こいつの頭に象でも落としてやったんだが。
つまらない作業だが、時折興味深いことも起きる以上、辞めることはまぁできない。
そら、もうすぐ転じるだろう――何?
…ありえない、まさかありえない。ただでさえ下らないこの物語は、魔王さえも戦士の玩具か?こんな容易く魔王は殺されるのか?
神の作る作品にケチはつけられないが、いやはやこれは。最早嫌がらせに等しい。こんなやつの最期まで描き続けろと私に言うか?
ふざけるな。
私は無理やり自分の動き続ける腕を引っ掴んで、下に引きずり下ろした。
バリバリバリ、と、唯一書く音しか聞こえなかったこの書斎に、紙が破かれる音が響く。
これで、良し。私はそのまま拘束していた腕をようやく離す。そして破れた、つまらない、掃き溜めのような原稿用紙を退け、新たに用意する。いっそのことこの戦士の物語全てを白紙に戻したかったが、やはり長編は厳しい。
さぁ、戦士よ。
「やり直しだ。」
私は再度、筆を取り直した。
サラサラと、万年筆が原稿用紙の上を滑る音だけが響く。
永禄3年、5月19日。駿河、遠江、三河を領国とする将軍今川義元が、自軍陣地にて構えていた。
しかし実際、陣地内は勝利を確信した兵たちによる、お祭り騒ぎであった。
ある者は酒を飲み、ある者は陽気に歌を歌い、ある者は笛まで吹いている。
そんな中、今川義元は高笑いをしながら、白く化粧された自らの頬を軽くさすった。
「皆の衆、織田軍の拠点も打ち崩したとの伝達を、松平元康から受けた。尾張の国が我の領になる日も近いぞ!」
義元がそう叫ぶと、兵たちは勝ち誇ったように槍を上へ向け、一斉に雄叫びを上げた。
だが、空模様はその雄叫びをものともしていないかのように、じっと曇った様子を見せている。
その時ポツ、と、一雫の雨粒がとある兵士の兜に当たり、弾かれた。
と、その直後。そんな1滴から始まった雨はすぐに地面を穿つような激しい雨へと変わった。
「まったく、天候は我に味方せんか……」
義元はぶつくさと不満げに呟きながら、慌てて屋根の下へと避難していった。外を見渡しても、あまりの雨量で霧が立ち込め、ただの会話だけでも、少し声量を大きくしなければまともに行うことが出来ない。
「……不吉な予感がするのぅ……」
扇子で顔を仰ぎながら、暗く雨を落とす雨雲を、虎のように冷たく睨んでいた。
幸い、雨は短時間で止み、暗い空の端から眩い日光が差し込んでいた。
避難していた護衛兵も、いそいそと武器を持ち、持ち場へ戻っていく。ぐちゅ、ぐちゅと、ぬかるんだ地面が踏まれる度、不快な音を立てていた。
その時だった。大きな荒声と、集団が走る足跡。時折馬の蹄の音や、鳴き声が聞こえてきたのだ。しかも、その方角は全て同じ、北側である。
と、その直後に、北側の護衛兵が驚愕の声を上げた。
義元は、分かっていた。
「織田軍の奇襲! 織田軍の奇襲!各い……」
護衛兵の声は、一気にかき消された。北側の布壁を引き裂き、踏み越えてやってきたのは、
「狙うは義元の首ただ一つ!!! かかれぇぇぇぇ!!!」
織田の家紋を掲げた、織田信長だった。
一対一であれば、足元にも及ばない相手であった。
しかしそれは、「互いの兵力が集中していた時」の話である。義元は、不覚にも万単位の兵力を、織田軍の陣地侵略へと向かわせていたのだ。
つまるところ現在、当の本人義元の護衛部隊は、織田軍の半分にも満たなかったのである。
数時間前まで、お祭り騒ぎであった陣地は、今では完全な混乱状態に陥っていた。あちこちで悲鳴や、命を斬られる音が響く。当然義元も将軍である、戦闘経験は心得ている。しかし、混戦状態でその実力を発揮できるはずもなかった。
逃げるしかない。屈辱的にも、しかし最適な方法であった。幸い本丸は戻っている最中、その軍と合流できれば……そんな僅かな望みを抱いて、敗走の手段に出た。
が、彼のふくよかな身体と、さらにぬかるんだ地面が、彼の足を引っ張る。それでもなんとか、あと一歩で混戦状態の陣地から抜けられる、そんなところまで来ていた。
だが、彼は、背後からの馬の気配に気づくのが、一瞬遅れてしまった。
後ろの者の影が、自分に重なる。
「義元、覚悟ぉぉぉ!!!」
ここまで来ては、彼は引き下がれない。必死に刀の柄を握り、反撃に転じようとした。
抜刀する、という脳の命令は、否、脳から送られていた全ての命令は、ストンと、瞬く間に断ち切られた。