永禄3年、5月19日。駿河、遠江、三河を領国とする将軍今川義元が、自軍陣地にて構えていた。
しかし実際、陣地内は勝利を確信した兵たちによる、お祭り騒ぎであった。
ある者は酒を飲み、ある者は陽気に歌を歌い、ある者は笛まで吹いている。
そんな中、今川義元は高笑いをしながら、白く化粧された自らの頬を軽くさすった。
「皆の衆、織田軍の拠点も打ち崩したとの伝達を、松平元康から受けた。尾張の国が我の領になる日も近いぞ!」
義元がそう叫ぶと、兵たちは勝ち誇ったように槍を上へ向け、一斉に雄叫びを上げた。
だが、空模様はその雄叫びをものともしていないかのように、じっと曇った様子を見せている。
その時ポツ、と、一雫の雨粒がとある兵士の兜に当たり、弾かれた。
と、その直後。そんな1滴から始まった雨はすぐに地面を穿つような激しい雨へと変わった。
「まったく、天候は我に味方せんか……」
義元はぶつくさと不満げに呟きながら、慌てて屋根の下へと避難していった。外を見渡しても、あまりの雨量で霧が立ち込め、ただの会話だけでも、少し声量を大きくしなければまともに行うことが出来ない。
「……不吉な予感がするのぅ……」
扇子で顔を仰ぎながら、暗く雨を落とす雨雲を、虎のように冷たく睨んでいた。
幸い、雨は短時間で止み、暗い空の端から眩い日光が差し込んでいた。
避難していた護衛兵も、いそいそと武器を持ち、持ち場へ戻っていく。ぐちゅ、ぐちゅと、ぬかるんだ地面が踏まれる度、不快な音を立てていた。
その時だった。大きな荒声と、集団が走る足跡。時折馬の蹄の音や、鳴き声が聞こえてきたのだ。しかも、その方角は全て同じ、北側である。
と、その直後に、北側の護衛兵が驚愕の声を上げた。
義元は、分かっていた。
「織田軍の奇襲! 織田軍の奇襲!各い……」
護衛兵の声は、一気にかき消された。北側の布壁を引き裂き、踏み越えてやってきたのは、
「狙うは義元の首ただ一つ!!! かかれぇぇぇぇ!!!」
織田の家紋を掲げた、織田信長だった。
一対一であれば、足元にも及ばない相手であった。
しかしそれは、「互いの兵力が集中していた時」の話である。義元は、不覚にも万単位の兵力を、織田軍の陣地侵略へと向かわせていたのだ。
つまるところ現在、当の本人義元の護衛部隊は、織田軍の半分にも満たなかったのである。
数時間前まで、お祭り騒ぎであった陣地は、今では完全な混乱状態に陥っていた。あちこちで悲鳴や、命を斬られる音が響く。当然義元も将軍である、戦闘経験は心得ている。しかし、混戦状態でその実力を発揮できるはずもなかった。
逃げるしかない。屈辱的にも、しかし最適な方法であった。幸い本丸は戻っている最中、その軍と合流できれば……そんな僅かな望みを抱いて、敗走の手段に出た。
が、彼のふくよかな身体と、さらにぬかるんだ地面が、彼の足を引っ張る。それでもなんとか、あと一歩で混戦状態の陣地から抜けられる、そんなところまで来ていた。
だが、彼は、背後からの馬の気配に気づくのが、一瞬遅れてしまった。
後ろの者の影が、自分に重なる。
「義元、覚悟ぉぉぉ!!!」
ここまで来ては、彼は引き下がれない。必死に刀の柄を握り、反撃に転じようとした。
抜刀する、という脳の命令は、否、脳から送られていた全ての命令は、ストンと、瞬く間に断ち切られた。
9/27/2024, 12:32:57 PM