「飛ぶ」
「行く時期が来たようね」
お母様が私達に囁きます。
お母様のおっしゃる通り、私達の足元は力無くゆらゆらと揺れており、時期を悟っておりました。
あともう少しでお母様から離れてしまいそうな気持ちが、前々からしていたのです。
「さあ私の可愛い娘達、次の機会が訪れたら、それに合わせて行ってらっしゃいね。」
お母様は美しく根強いお方です。
私達のために、この広い世界を飛び回ってくださいました。そうして辿り着いたのが、この素晴らしい大地。日当たりも良く、柔らかな大地に、豊富な水も揃う、素晴らしい我が家です。
私もそうでありたいと願います。お母様の様に、強く強く生きていくのです。
___と、その時。
大きな影が私達を覆いました。そして、ゆっくりと動く固まりが私達の支柱を掴み、プツンとお母様から切り離したのです。
これは____お母様のおっしゃっていた人間。
人間は静かに空気を飲み込むと、口から春風を吹きだしました。
私はいつの間にか宙に浮いて、お姉様達も違う方向へ離れて行きます。
いってらっしゃい____お母様のお声が聞こえました。
二つ縛りの少女は、たんぽぽの茎を片手に、空を優雅に飛んでいく綿毛の姿にはしゃぎまわった。
暖かな春の風が吹いていた。
お題: 春風とともに
「ふきのとう」
アルツハイマー型認知症、とおばあちゃんが診断されたのは去年の春だったか。
それまで笑顔を絶やさなかったおばあちゃんは、近頃うつろな目をして座ったきりで、会話する量も減った。
僕は小さい頃から大のおばあちゃん子だった。
おばあちゃんの住む場所も好きだった。
おばあちゃんの家のわきから出たところに、小道があった。その舗装されていない急な坂道を下っていくと、そばで長く細い川が流れている。
昔は川の水を使って、洗濯や炊事をしたんだそうだ。
水流の少ない箇所には季節の草花が咲き乱れ、川からささやかな恵みを授かって生きている。
川のちょっと深い所からは、ときたま銀色に光る小さな魚の群れを見かけた。
おばあちゃんはトラックに積んできた大根を担いで川に降ろし、たわしでゴシゴシと擦り始める。
僕も見よう見まねでたわしを貸してもらったけれども、思うように土の色が取れなかった。
おばあちゃんの力強さに不思議と安心感を抱いた。
「もう少し暖かくなったら、おばあちゃんの特製おやきが食べたいな」
「そうだねぇ。ふきのとうを入れて、おまえが好きな味噌味に作ってあげるよ」
川の斜面につぼみを作っていた幼いふきのとうを見つけ、僕はおばあちゃんに微笑んだ。
そう言葉を交わした去年の春。
僕は平日の放課後、おばあちゃんの家を訪ねた。
通常はホームヘルパーの人が来るので、必要な家事は済んでいるが、今日は母さんがおばあちゃんの様子を見に行く日だった。
「お母さん、火は危ないから近付かないでって言ったじゃない!」
玄関のドアを閉じるやいなや、母さんの慌てた声が聞こえた。台所に駆けつける。
ざるに水で洗われた大きなふきのとう、その横に小麦粉の袋や出しかけの味噌や、卵が散らかっていた。ガスコンロの上にはフライパンが出してある。
おばあちゃんは、でも、と口にしかけて寂しそうに黙った。
僕は居ても立ってもいられなくなって、一生懸命呟いた。
「僕も一緒に作るよ」
それからおばあちゃんと一緒に食べたおやきの味は、今まで食べたおばあちゃん特製おやきよりも、ちょっとしょっぱくて、優しい味がした気がする。
お題: 涙
「小さな幸せ」
高校の新一年生説明会。
同校出身だった一人と、慣れない手つきで電車に乗る。
私達が小中学校を共にした地域は田んぼや木々などの自然に囲まれた静かな田舎。
駅に着いた最初に二人の目を輝かせたのは、なんといっても、四角い建物が溢れかえる景色と、そのすっきりとした変わりようだった。
「駅前に軽く食べ歩きができるお店があるといいね」
「こじんまりとして勉強机もある喫茶店なんてのも素敵かも」
二人で話が盛り上がる。
でも
高校の門へくぐるまでに唯一目にしたのは、
ハンバーガーショップ、焼肉屋、ラーメン屋。
「いや、ごっついなあ」
と少しがっかりした二人の顔は笑っていた。
小さな発見、小さな幸せ。
放課後にラーメン屋も、もしかしたらアリかもしれない。
「お弁当」
朝5時はいまだに真っ暗だった。
台所の照明に目を慣らしながら、足元の棚からフライパンと鍋を取り出す。
お弁当作りを任されたのは今回が初めてだ。改めて何を作るべきか、とソワソワしてしまう。
とりあえず、冷蔵庫から卵を取り出す。
水を半分まで張った鍋に4個の卵をそっと入れ、ガスをつけた。
卵サンドイッチにしたいのだけれど、ゆで卵の加減はどれくらいが適度なんだろう。個人的には半熟が好きだけれど、黄身がしっかり固まっている方がコクがでるのかしら。
と、去年捨てずに取っておいた6年家庭科の教科書を引っ張り出して見てみる。どうやら、沸騰から何分か放っておけば良さそうだった。
鍋にタイマーをかけている間に、前菜の用意をする。
アスパラはまだ旬ではないから、肉巻きにはカブを縦切りにしたものを代わりに使おう。そうだ、ブロッコリーもお弁当に欲しい。ブロッコリーの肉巻きなんてのも素敵かも。
空がまったく明るくなる頃には、お弁当はすっかり出来上がっていた。バスケットに一つ一つサンドイッチを詰めて、タッパーにたっぷりと肉巻きを並べる。卵サンドイッチに使われなかった完熟たまごも半分に切って入れてみる。
完成だ。忘れないうちにリュックへ詰めておこう。
「お、これ全部スズナが作ったのか。大したもんだなあ。」
「ぼくこのベーコンぐるぐるしたやつ大好き」
「お母さん、ちょっと心配していたけれど、こんなに美味しい卵サンドを作れるなんて驚いたわ」
ちょっと早めの昼下がり、桜が満開の木の下で、菜の花の香りがただよう春爛漫の野に囲まれて、家族がお弁当を美味しそうに頬張る。
私は嬉しさに満面の笑顔で、くしゃみをした。
「七色」
「ねえ、お母さん」
雨が上がったばかりの清々しい空を見上げると、一筋の虹が弧を描いて空を飾っていた。
透き通る息子の目には、水溜りのように虹が映っている。
動物の耳のついた雨がっぱのフードが、息子の頭からはらりと落ちた。
真っ直ぐに上を指差して、息子が言った。
「ねえ、お母さん。あの虹、まんなかでちぎれてるよ」
「___ちぎれている?」
息子は頷いた。
「あそこだけね、色がないの。上からあか色、オレンジ色、きいろ、えめらるどぐりーん色。さいごはむらさき色なのに、あいだにそら色が入ってるでしょ。これじゃあ、虹がお空にちぎれたままだよ。」