「子供の頃はさ、俺、何にでもなれると思ってたんだ。恐竜にでもヒーローにでも宇宙飛行士にでも。本当になんにでもなれると、そう思ってたんだ。
いつからかそれは無理だろうなってなんとなく気付いたんだよな。恐竜にはなれるわけないし、ヒーローなんてどこにもいない。宇宙飛行士だってなるのはかなり難関だ。それを知るたびに一つずつ諦めてったんだ。
サッカー選手だって、医者だって、歌手だって。
勿論、なれる人はいるけど、相当な努力をしなきゃいけない。努力をしたってなれない人は沢山いる。
子供の頃はあんなに無敵だったのに、大人になるたびにどうして無力になるんだろうな」
「子供の頃、本当になりたかったものってあるの?」
「色々あるけど、多分『なにか』になりたかったんだよ。誰かの記憶や記録や心に残るような『なにか』に。それがかなり難しいと知ったのは最近だけど」
「あら、それならもう叶えてるじゃない?」
思いもよらない言葉に彼は彼女を見つめた。彼女はにっこりと微笑みながら愛おしそうな眼差しで彼を見つめ返す。
「その『誰か』は私じゃだめなの?」
朝、カーテンの隙間から差し込んだ陽の光で目が覚める。ぼんやりと天井を眺めること15分。そろそろ起きなくてはとのそのそと布団から抜け出す。
顔を洗って髪の毛をとかすと鏡の前には眠そうな顔。
醒ますにはキリリと苦いコーヒーが必要だ。お湯を沸かし、お気に入りのコーヒーをフィルター越しに大きな大きなマグカップにゆっくりと淹れる。ゆっくり、ゆっくり、慌てずに。
カップに滴る音を聞きながら、食パンをトースターに入れ、卵は軽くスクランブルエッグに。少し緩めでふわふわな状態で火を止めるのがコツ。ベーコンは油たっぷりにカリカリに。
適当にお皿に載せて、窓際のお気に入りのテーブルに持っていき、朝ごはん。
トーストした食パンにベーコンとスクランブルエッグを挟んで齧り付く。熱々のコーヒーを一口飲むと、なんとも言えない幸せな気持ちになった。
あの人が「君には白が似合うね」と言ったから白色が好きになった。手入れには気を使って白い肌になるように努め、着る服は白のワンピース、白のシャツ、白のスカートが多くなった。
あの人が「君には桃色が似合うね」と言ったから桃色が好きになった。唇に引く色も、爪に塗る色も、首にかけるアクセサリーも桃色のものになった。
あの人が「君には黄色が似合うね」と言ったから黄色が好きになった。足元は黄色の靴で揃え、鞄や小物は黄色のものだけを持つようになった。
これで、あの人の好みになった。あの人に染まった、あの人だけの、わたし。
それなのに、あの人は赤が似合う彼女を選んだ。
私とは真逆の、赤い唇が印象的な彼女を。
爪には赤いマニキュアが塗られ、着る服も身につけるものも人目を引いた。あの人以外の人の視線をたくさん浴びるような彼女。それでもそんな彼女をあの人は選んだ。
私はあの人だけの視線が欲しくて、あの人だけのものになりたくて、それだけだったのに。
あの人が私の元を去ってから、私の世界は急に色褪せた。あれほど好きだった色が憎くて嫌いで仕方がない。そう思うのと同時に分からなくなった。
私が本当に好きだった色ってどれなんだろう。
もう、そんな季節になったのか。
家の周りに鮮やかに色づいた花の花弁に朝露が佇んでいるのを見つけ、彼は独りごちた。
全てがモノクロに映る彼の世界の中で、この花だけが色鮮やかに見えた。それは年に一月ばかりのひとときのこと。
この花がなんという名前なのか、彼は知らない。割とありふれた花だということは知っている。あちらこちらで世界に色が付き始めると、彼はその季節がやってきたことを知る。
「……あれ」
家の周りに咲き誇る花を見ながら、ふと、この花はこんな色だったろうかという疑問が彼の中に湧き上がった。
普段からモノクロの世界に慣れきっているせいだろうか。恐らく自分の勘違いだろうと首を振るが、どうにも違和感が拭えない。昨年までは紫色だったのに、今年はやけに赤に近い色に見える。自分の思い違いだろうか、それとも見えてる世界が違うのか。
「移り気、なんですよ」
どこからか鈴の音を連想させるような声がした。驚いて振り返ると、そこには若い女性がいた。長い黒髪と微笑んだ口元に塗られた、紅い口紅が印象的な。
「は……」
咄嗟に何かを口に出すことはできなかったが、彼女は特に気にすることもなく、再び「移り気なんです」と口にした。
「う、移り気……」
「ええ、移り気」
何がおかしいのか、鈴の音を転がすようにコロコロと笑う彼女から、なぜか彼は目が離せなかった。それはその言葉が気になるからか。それとも、
「毎年少しずつ色を変えるんです。土壌の色が酸性かアルカリ性かによって変わるんですよ。だから移り気」
「はあ……」
なぜ、自分にこのような話をするのか。彼女の意図が掴めないが、その口元から目が離さずにいた。
なぜ、モノクロの世界の中でこの花と彼女だけは鮮やかに映るのだろうか。
「きっと貴方は気付きましたよね、昨年とは違うって」
なにか意味が込められたような台詞に何も答えられずにいると、彼女は「それでは」と言い、彼に背を向ける。立ち去ろうとする彼女に何か言わなくては。何か。
「あのっ……名前は」
考える間も無く口から咄嗟に出た言葉に、彼女は足を止めた。そして振り返ると、彼をまっすぐに見つめる。
「紫陽花」
紅い唇から漏れた言葉を頭の中で反芻してる間に、気付けば彼女はこの場から去っていた。それに気がついたのは、静かに少しずつ降り始めた雨が彼の肩を濡らしてからだった。
ハロー、神様
お元気ですか?私は相変わらずクソッタレな世界にいます。
今日も父親は酒臭かったし、母親は化粧臭かった。臭い毎日の中でヘラヘラと媚び笑い浮かべながら、うんざりな世の中に中指立ててます。
ねえ、神様。
敬虔な信者は救われるって本当ですか?
別に毎日辛いわけじゃないけどさ、なんで生きてるのか分からなくなる。
敬虔な信者は救われたら、幸せになれるんですか?幸せになるってなんだろう。
今だって不幸なわけじゃ無い。美味しいもんは食べてるし、友達とテキトーにバカやって、笑って泣いて。
でも「幸せ」がずっと分からない。生きる理由も分からない。
ただ酸素を消費する人生になんの意味があるんだろう?
ねえ、神様。
敬虔な信者しか救わないなら、なんで私たちはここにいるの?なんのために生きてるの?
ねえ、神様。
あんたがこんなクソッタレな世界を作ったんなら教えてよ。私にはその権利があるはずだ。
もし、なんの意味もないとしたら。
あんたはサイテーなクソ野郎ってことで唾を吐きかけてやる。届かない天の上まで絶対に吐きかけてやる。
なんてね。