土曜日の夜

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もう、そんな季節になったのか。
家の周りに鮮やかに色づいた花の花弁に朝露が佇んでいるのを見つけ、彼は独りごちた。
全てがモノクロに映る彼の世界の中で、この花だけが色鮮やかに見えた。それは年に一月ばかりのひとときのこと。
この花がなんという名前なのか、彼は知らない。割とありふれた花だということは知っている。あちらこちらで世界に色が付き始めると、彼はその季節がやってきたことを知る。
「……あれ」
家の周りに咲き誇る花を見ながら、ふと、この花はこんな色だったろうかという疑問が彼の中に湧き上がった。
普段からモノクロの世界に慣れきっているせいだろうか。恐らく自分の勘違いだろうと首を振るが、どうにも違和感が拭えない。昨年までは紫色だったのに、今年はやけに赤に近い色に見える。自分の思い違いだろうか、それとも見えてる世界が違うのか。
「移り気、なんですよ」
どこからか鈴の音を連想させるような声がした。驚いて振り返ると、そこには若い女性がいた。長い黒髪と微笑んだ口元に塗られた、紅い口紅が印象的な。
「は……」
咄嗟に何かを口に出すことはできなかったが、彼女は特に気にすることもなく、再び「移り気なんです」と口にした。
「う、移り気……」
「ええ、移り気」
何がおかしいのか、鈴の音を転がすようにコロコロと笑う彼女から、なぜか彼は目が離せなかった。それはその言葉が気になるからか。それとも、
「毎年少しずつ色を変えるんです。土壌の色が酸性かアルカリ性かによって変わるんですよ。だから移り気」
「はあ……」
なぜ、自分にこのような話をするのか。彼女の意図が掴めないが、その口元から目が離さずにいた。
なぜ、モノクロの世界の中でこの花と彼女だけは鮮やかに映るのだろうか。
「きっと貴方は気付きましたよね、昨年とは違うって」
なにか意味が込められたような台詞に何も答えられずにいると、彼女は「それでは」と言い、彼に背を向ける。立ち去ろうとする彼女に何か言わなくては。何か。
「あのっ……名前は」
考える間も無く口から咄嗟に出た言葉に、彼女は足を止めた。そして振り返ると、彼をまっすぐに見つめる。
「紫陽花」
紅い唇から漏れた言葉を頭の中で反芻してる間に、気付けば彼女はこの場から去っていた。それに気がついたのは、静かに少しずつ降り始めた雨が彼の肩を濡らしてからだった。

6/13/2024, 11:57:20 PM