「今日は風が強いわねぇ」
直帰の途中、ふと先輩がそんなことをつぶやいた。
「そうですね。午後になったら少しは収まるかなって思いましたけど」
春先によくある突風レベルの強さではないものの、髪の長さが肩ぐらいまである先輩はちょっと大変そうだった。こっちもこっちで前髪が崩れそうでハラハラしていたけれど。
「ねえ、もし風に乗ってどこかに気軽に行けるとしたら、どこに行ってみたい?」
そんな質問をしてきた先輩は、いつものしっかりした雰囲気とは違い、無邪気に映る。
「風に乗って、って鳥みたいに空飛んで、ってことっすか?」
「まあ、そんな感じ。マント広げて飛ぶでも、なんでも」
「自由に飛べたらいいなって思ったことありますけど、急に言われたらわかんないもんっすね……」
ベタに海外とか、あるいは国内でも結構遠い西日本のほうとか?
「私は、誰も追いかけてこれない場所かなぁ」
小さな声だった。
なんだか穏やかじゃない内容に思考を止めて隣を見つめると、先輩はわずかに目を見開いてこちらを見返した。
「え、どうしたの?」
「誰も追いかけてこれない場所って……」
たぶん、先輩は聞こえていないと思っていたのだろう。明らかに言葉に詰まっている。
「いや、ほら、最近忙しいじゃない。だから静かな場所にサクッと行けたらなってこと」
先輩は誤魔化せていると思っているようだったが、俺には効かない。
いつもエネルギッシュで情けない俺を鼓舞してもらうことも多くて、あっという間に憧れの存在になっていた先輩。
そんな彼女を一番近くで見てきたから、ある日から様子がおかしいことにもすぐ気づいてしまっていた。今日だって「いつもの姿」を懸命に保とうとしている様子に胸を痛めていたところだ。
「どこか遠くに逃げたいんですね」
ついに、先輩の足が止まった。少ししてから動き出したかと思うと、近くにあった木製のベンチに力なく座り込む。
「あー、うかつだったなぁ。なんで私、あんなこと言っちゃったんだろ」
無意識だったのだとしたら、相当追い詰められている証に違いない。
いつも以上に、先輩の身体が小さく見える。
「逃げたって、しょうがないのよ。結局は、私が解決しなくちゃいけないんだけど……」
「じゃあ、俺がその役目引き受けますよ」
ほとんど勢いだった。
顔を上げた先輩は驚いた顔をしていたが、俺自身も同じ気持ちだった。
でも、放っておけない。
「先輩が一人で逃げにくいなら、俺が先輩の手を引っ張って、無理やりでも連れていきますよ。立派な足になってみせます」
先輩が、力なく笑った。
「逃げたい理由も聞かないで、一緒に逃げてくれるんだ?」
「少なくとも、膨大な借金を作ったとかいう理由ではないと信じてます」
「借金! それは確かに違うかな」
今度は肩を震わせながら笑う。
「……ありがとね。いい後輩をもって、私、それだけでも、救われてるわ」
俯いている先輩がどういう表情なのかはわからない。
それでもたぶん、泣いている。
根拠のない確信を抱きながら、先輩の前に跪いた。
「遠慮しないでください。俺、本気ですから。いつも先輩に助けてもらってるし、恩返ししたいんです」
背後では、いつもの街の喧騒がBGMのように流れている。俺と先輩だけが切り取られて、宙にでも浮かんでいるみたいだ。
どれだけ、その感覚を味わっただろう。
先輩が、遠慮がちに俺の手を掴んだ。
お題:風に乗って
「君の存在が、僕の生きる意味なんだ。君がいてくれるから、僕はこうしていられるんだよ」
「……そう。それは嬉しいわね。だったら」
――私が死んだら、後を追ってくれるの?
――私が一緒に死んで欲しいって言ったら、うなずいてくれるの?
「も、もちろんだよ。いきなりな質問だからびっくりしたけどね」
言いよどんだのがその理由だと言いたげだけれど、いずれ私の前からいなくなるのは目に見えている。
私の見た目に惹かれて寄ってきた人間はみな、そうだ。
「……添い遂げる覚悟もないくせに」
軽々しく、私を生きる意味になんてしないでほしいわ。
お題:生きる意味
※BL要素がありますので、苦手な方はご注意ください。
「所長って流れ星に三回願い事唱えたら、ってやつ信じてなさそうですよね」
まとまった休みを、僕の家で一緒に過ごしているときだった。
前日まで友人と一泊二日の小旅行に出かけていた昇(のぼる)くんの土産話を聞いている途中、突然なにかを思い出したかと思えば、そんなことを言われた。
「突然だね。まあ、その通りだけども」
「やっぱり」
隣に座る昇くんは小さく笑った。年齢より幼く見えるその顔に、いつも密かに「萌え」ていたりする。
子どもの頃、助けてもらった祖父が憧れの人だったと目を輝かせながら、孫の僕が引き継いだ探偵事務所の門をくぐってやってきてから一年ほどが経った。
彼はすっかり馴染んだし、先輩の梓くんにもいい感じに可愛がられている。
なにより、僕の大事な大事な恋人にもなった。
「泊まったホテルの屋上で星空鑑賞会やってて、参加してみたら流れ星が見れたんですよ! でも一瞬過ぎて願い事なんて言うヒマないですねアレ」
「当たり前だよ。ていうか来るのがわかってたとしても、単なる迷信だから無駄無駄」
ちょっと言い過ぎたかな? でも理屈が通らない事柄ってどうにも気持ち悪くて納得できないんだよね。昇くんはこんな僕の性格は充分わかってくれているとは思うけれど。
「まあ、願い事がないわけじゃないよ」
「えっ、なんですか?」
瞳を輝かせた昇くんが覗き込んでくる。そんなに期待されるとちょっと恥ずかしい。
「絶対叶うなら、愛愛愛! って叫ぶかな」
「あい……?」
眉根を寄せている昇くんの頬に触れて、続ける。
「昇くんともっとラブラブになりたい、ってこと」
単なる悲鳴か反論だったのかはわからない。
唇を食むように何度か角度を変えたキスをし終わると、怒ればいいのか恥ずかしがればいいのかわからない昇くんの表情があった。
「所長っていきなり論理的じゃなくなりますよね」
「え、そう?」
「そうですよ! いきなりら、ラブラブとか言い出して!」
結構本気で願っているんだけどな。今でも充分幸せだけど、たとえば「僕なしじゃ生きられないです!」とか言われてみたい、なんて。本当にそうなったら、昇くんらしさが消えてしまうから本気で願っているわけでもないけど、一日くらいなら……。
「だ、大体今も結構そうじゃないですか。おれ、ほんとに所長のことす、好きですもん」
視線は逸らしつつ、こちらの服の裾を遠慮がちに掴んで、なんとも可愛らしいことを言ってくれる。なのに僕ったら、ちょっとだけ意地悪したくなってしまった。
「本当に?」
「だったらキスとかしません」
「じゃあそのキス、たまには昇くんからしてほしいな」
反射的に僕を見た昇くんの瞳がいっぱいに開かれている。昇くんは照れ屋さんだし、僕からするのは全然嫌いじゃないけど、たまにはされる側の立場に立ったっていいでしょ?
「願い事三回唱えれば叶うかな? あーい」
ずるい、と恋人の表情が訴えている。別に激しくなくても……いや、それはそれで嬉しいし、燃える。
「あーい」
一瞬視線を伏せた昇くんが、勢いよく距離を詰めてきた。背中にソファーの柔らかな感触が走る。
「あー……」
三回目の言葉は、押し倒した勢いとは裏腹に優しく、けれど深いキスに飲み込まれた。
お題:流れ星に願いを
俺が好きな人は、決して望む場所まで招き入れてくれない。
「あの、俺、もう少し一緒にいたいです」
「だめよ。ご両親が心配するでしょう?」
「今日はいないんです。明後日まで帰ってきません」
「うん、それでもだめ。あなたは未成年なんだから」
通っている塾の講師だ。初めて見たときから好きだった。彼女に褒められたくて、少しでも印象をよくしたくて、勉強もテストも頑張っているようなものだ。
もうすぐ、目標の大学入試がやってくる。つまり、塾に通う理由がなくなる。
彼女に会えなくなってしまう。
「……べつに、先生は、学校の先生じゃないじゃん」
ジュースの入ったままのグラスを握りしめながらこぼれた台詞は、しっかり彼女の耳に入ったらしい。眉間にはっきりと皺が刻まれる。
「関係ありません」
「未成年だから? だったらなんで俺とこうして会ってくれるの」
「君がわからないところがあると言うからよ」
「何回もやってたら、それが口実だって先生ならわかるでしょ?」
彼女の口が閉ざされた。違う、こんな言い合いみたいなのをしたいわけじゃない。けれど勢いが止まらない。
「先生ずるいよ。俺の気持ち知ってるくせに、誘ったら乗ってくれるんだもん。期待するなって言う方が無理じゃん」
頑張って声を抑えているこの努力を褒めて欲しい。俺だって下手な騒ぎにするのは本意じゃない。
「……そうね。それは、私が悪いわね」
本当にそう思っている口振りと表情だった。ずるい、そんなふうにされたら下手な反論ができない。
「私、付き合ってる人がいるの」
思わず立ち上がってしまった。なんとか今いる場所を思い出して、すぐに腰を下ろす。
「だから、悪いのは先生。君は優秀な生徒だし、気に入っていたのはうそじゃないから、本当に申し訳ないことをしたわ」
うそだ。今までそんなそぶり、一度も見せなかった。諦めさせようとして、下手な芝居を打っているだけだ。
でも、仮に本当だとしても――
「俺、諦めないよ」
テーブルの上にあった彼女の手を取る。一瞬震えはしたものの、振り払われはしなかった。場所のせいかもしれない。
「先生には悪いけど、未成年なんて関係ない。先生が誰かのものになるのを待ってるつもりなんてない」
たとえルールに反していたとしても、目的が永遠にかなわないとわかってしまったら、「いい子」のレッテルなんていらない。
「全力であなたを奪いにいくから、覚悟しててね」
お題:たとえ間違いだったとしても
※ほんのりBL要素がありますので、苦手な方はご注意ください。
覚悟を決めていつもの桜の木を訪れる。
遠目からでも薄桃色の花たちはすっかり跡形もなくなり、代わりに葉が若々しい緑色をまとっているのがわかる。
だが、恐れていた光景はなかった。
「こんにちは。私の言った通り、消えなかったでしょう?」
「あれ、君……いつもの、君?」
「はい。ただ、歳を少し遡っておりますが」
つまり若返ったということらしい。
最愛の恋人を、春を迎えたと同時に失った。
胸に深く暗い穴をつくったまま、俺はいつも恋人と訪れていた一本の桜の木に、縋るように毎日足を運んだ。
人目を避けるようにひっそりと、けれど確かな存在感で生えているこの木を、俺たちは毎年見守っていた。
その想いがきっかけだと、「彼」は言った。
桜の木の精だと名乗り、突然目の前に現れた「彼」。
『このようにお会いするつもりはありませんでした。ですが、心配で。あなたまで、そのお命を失ってしまいそうで、黙って見ていられなくなりました』
夢としか思えなかったが、このときはそれでもかまわないと、彼の存在をとりあえず受け入れた。
そうでもしないと――恋人がいないという現実に、耐えられなかったから。
今は、違う。
彼の包み込むような優しさと雰囲気に、空いたままの穴が少しずつ小さくなっていくのを、確かに感じていた。
だから、怖かった。
桜が散ってしまったら、彼の姿は消えてしまうのではないかと。
二度と、会えなくなってしまうのではないかと。
「先日も申しました通り、私たちは新緑の時季を迎えるとこのように若い姿となります」
「じゃあ、あの薄ピンクで長い髪の状態は二週間くらいしか続かないんだ?」
彼はひとつ頷く。耳のあたりまで短くなった、絹を思わせるような白髪がさらりと頬を滑る。
「そうか、って納得するしかできないけど」
俺と同じ人間ではないから、疑う余地も当然ない。面白いなと感じるほどには余裕はできた。
「姿は見えなくとも、毎年あなた方にお会いしていましたから消えることはありませんよ」
少し笑って彼は告げる。そうだとしてもやっぱり、この目で確認するまでは心配で仕方なかったのだ。
「……でも、完全に枯れたら、会えなくなるよね?」
木に触れながら、気になっていた疑問を口にする。
この桜の木は彼そのもの。
今はまだ、大丈夫だと信じられる。太陽の光を存分に浴びている葉はどれも生き生きとして、生命力に満ちているのが素人目でもわかる。
それでも、いつまで無事かはわからない。
――突然この世を去った、恋人のように。
「ご心配なく。あなたがこうして足を運んでくださる限り、私は生き続けておりますとも」
隣に立った彼は、優しく頭を撫でてくれた。まるで子どもにするような手つきなのに、反抗する気になれない。
「私に会えなくなると、そんなに寂しいですか?」
「そ、それは……まあ」
「そうですか。……ありがとうございます。私もあなたに会えなくなるのは、たまらなく苦しく、悲痛で、耐えられないでしょう」
ほとんど変わらない位置にある茶と緑のオッドアイが、長い睫毛の裏に隠れた。
どくりと、覚えのある高鳴りが身体を震わせる。
いや、これは彼があまりにも美しすぎるゆえだ。人ならざる者の優美さにまだ慣れていないせいだ。
「俺も、大丈夫だよ。簡単に死んだりしたら、あの世であいつに怒られそうだし。今はそう思うよ」
視線を持ち上げた彼は、心から嬉しそうに微笑んだ。
喉の奥が、変に苦しい。
お題:桜散る