「私の大切な大切なひと、今度はあっさりこの手に捕まってくれたわね、ふふ」
この場に似つかわしくない台詞だった。下手に刺激しないことを念頭に置きながら、ゆっくり声を出す。
「お金が一番って言ってるやつの台詞とは思えないな。いつの間にそんな昇格したんですかね?」
馬乗りになり銃を突きつけたままの彼女は子どものように笑った。
「いやね、気づかなかったの? 貴方が逃げたあのときからよ。この私から一度でも逃げられたひとは貴方が初めて」
誰一人として、命を奪うのはおろか傷ひとつつけられないほどの実力を持つという、界隈では非常に恐れられる殺し屋だった。気まぐれに変動する高額な依頼料さえ払えば、どんな依頼でも必ずこなすという話を知らない者はいない。
怖いもの見たさで身辺調査の依頼を受けたのはやっぱり間違いだった。気配を悟らせないのは一番の得意技だったのに、二度目は運に見放されたあげく最終的にこんな危機的状況に陥るとは。
『まったく、最近調子に乗りすぎじゃない? 痛い目に遭わないといいわね』
贔屓にしているカフェのオーナーの言葉が今さらながら耳に突き刺さる。
「でも、ちょっと興ざめかもぉ。あのゾクゾクする気迫はどこいっちゃったの?」
「とにかく必死だったんでね。さっきもそうだったはずだけど、足りませんでしたかね」
「足りないわよぉ。もっと私を楽しませてくれなくちゃ、殺しがいがないでしょ?」
銃口が移動したものの、まったく隙がない。
脇汗が止まらない。いっそここで果てた方がマシかもしれないとさえ思えてきた。
急に彼女は立ち上がった。これは同じように立て、ということなのか。
頭半分ほど低い身長の美しい殺し屋は、恍惚の表情を向けた。
「この世で一番大切な貴方の命を奪うことが、今の私の楽しみなの。だから――こんな簡単にじゃなく、もっともっと素晴らしく心躍る方法で、殺してあげる」
今から一緒に遊びにでも行くような、無邪気だけにあふれた声だった。
「それはそれは、光栄ですね」
内心の恐怖を悟らせないよう口角をあげるのが精一杯だった。
突如視界が鋭い白に包まれ、思わず腕を持ち上げる。
緊迫感の消失に気づいたときには彼女の姿はなく、生死をかけたゲームが一方的に始まってしまったことに天を仰ぐしかできなかった。
お題:お金より大事なもの
この日が近づくといつも行くスーパー全体の雰囲気がどこかほんわかして、可愛らしい配色が目立つ。
私が好きな淡いピンク色がところどころで目に入る。
「今日は特別よ」
そう言う母親と、心から嬉しそうな笑顔を浮かべてお菓子の袋を買い物かごに入れる子どものやり取りも微笑ましい。つられて、二個入りの小さな菱餅をかごに入れていた。
「せっかくだからいろんな具入れた豪華ちらし鮨作るか」
「ちょっ、私が食べられるのにしてよ?」
「このわたしの料理の腕を信じなさい」
「嫌な予感すんのはなんでだろ……」
客観的にはこれも微笑ましい会話をするカップルの横を通り過ぎ、すでに完成しているものをかごに入れた。
雛人形を飾るのはもちろん、ちらし鮨を一緒に作ったことも、ひなまつりならではのお菓子を食べたこともない。
だから毎年、こうしていわゆる「おすそわけ」をさせてもらっている。
いろんな行事があるなかで、このひなまつりが一番好きだった。冬が去りかけ春の足音が聞こえ始めるからか、いっそう華やいで見える。
たぶん、自覚がなかっただけで、昔から「憧れ」を抱いていたのだと思う。女の子にとって特別とされている、この一日を。
逆に、どうして自分だけの特別にならないのかと羨ましさを募らせることもあった。そうしたらまったくつまらない。意味もなく終わらせてしまうだけの状態が続いた。
どうせなら自分なりに楽しもうと方向転換したのはそのときだ。
(そうだ、せっかくだから来年は雛人形でも飾ってみようかな?)
一年後に楽しみを予約して、先ほどよりも軽くなった足取りで買い物を再開した。
お題:ひなまつり
終点です、のアナウンスに沈んでいた意識が浮上する。
運よく座れた朝の通勤電車だったが、しっかり居眠りしてしまっていたようだ。
一瞬突き上げた焦燥感が、同じスピードで下降する。
……まあ、いいか。
適当な欠勤理由を会社のメーリングリストに連絡して、下車してみる。
駅名をスマホで検索してみると、どうやら隣県まで移動していたらしい。辺りを見回すだけでも、都内とは雰囲気がだいぶ違うとわかる。まず空気が違う。
観光案内所があるから、観光地として有名な場所らしい。正直旅行のたぐいをあまりしないのもあって、地理にはてんで弱い。
とりあえず、適当にぶらついてみる。なにも考えず、歩いてみたい気分だった。
……このまま、あてもなく旅をしてみたいかも。
ただの逃避なのはわかっている。それでも特に今は、あの会社で働き続ける気力はなかった。
必要のない媚を売って、必要のない泥をかぶって、無駄に矢面に立つことを求められる。
この時代になっても不必要な言動を続けなければならない会社など願い下げだ。
――そうあっさり切り捨てられたら、どんなに楽だろう。
ある公園にたどり着いた。どうやら展望台があるらしい。
いつもなら疲れる、という理由で階段をめったに使わないのに、その三文字に惹かれて足を進める。早い段階で息が切れ始め、太股も重くなってきても、登ることをやめない。
――気まぐれが、報われた。
雲ひとつない快晴も手伝って、かなり遠くまで景色が見通せた。森だらけかと思っていたが、車で移動しないと無理そうだが海辺にも行けるようだ。軽く深呼吸してみると、嗅ぎ慣れた埃臭さのような、澱んだ香りはしない。「空気がおいしい」の言葉にふさわしい。
木製のベンチがあったので、腰掛けて目を閉じてみる。
少し汗ばんだ身体に、そよ風が心地いい。都会なら必ずある喧噪もほぼないものの、ときどき聞こえてくるエンジン音や人の声などが確かな生活感を伝えてくれていた。
こんな時間、もう何年も味わっていなかった。味わえるとさえ思っていなかった。
喉の奥からこみ上げるものを、自然と受け入れた。一度はずれた枷は止まるどころか勢いを増して、無理やり押し込んでいたさまざまな感情たちを押し流していく。
――今日が平日でよかった。うっかり居眠りして、たどり着いたのがこの街でよかった。この公園に足を運べてよかった。
再び目を開けて立ち上がると、歪んだ視界でも景色の美しさは変わらなかった。
お題:遠くの街へ
現実逃避ってそんなに悪いこと?
現実のわたしには逃げ場がない。
空想に縋るしか自己を保てないの。
わたしの唯一の拠りどころを否定しないで。
あの頃付き合っていた君は今、いったいなにをしているのだろう。
たまに、思い返すことがある。
お互い眩しいほど一途で若くて、愛さえあればなんでもできる、乗り越えられると信じて突き進んで、着いた先は不幸のスタート地点だった。
何度怒りをぶつけ合い、泣き合い、傷つけ合っただろう。
どちらかだけが悪いわけではなかった。ほんのわずかから始まったすれ違いが、気づけば軌道修正の効かないところまで進んでしまっていた。
『もう、いや……もうあなたの顔は見たくない! 消えて、私の前から消えてよ!』
その言葉を叫んだとき、自らもズタズタに切り刻まれていたに違いない。深い悲しみが見え隠れしていたのはきっと、そう。
――これらはすべて、距離を置き、長い時間が経ったからこそ見えたものだ。
今は、少なくとも自分は新たな出会いを迎えて結婚をして、可愛い子どもも授かった。きっと、君と過ごした日々がなければ得られなかった。
会っても仕方ない。向こうは忘れたい過去のままでいたいかもしれない。
それでも叶うなら、今の君を一目でもいいから見てみたいと思う。
お題:君は今