もうすぐ日付の変わる時間に、わたしは目の前に差し出された手のひらにためらいなく自らの手を重ねた。
門限以降は一歩も外に出てはいけないという言いつけを、この日はじめて破った。
誰も外を歩いていないと思っていたけれど、そんなことはないのね。
夜も、耳を澄ますといろんな音が響いているのね。優しくも、どこか寂しくも聞こえる不思議な音の数々。
初めて入ったこのお店、この時間でも開いていただけじゃなく、見たことのない品物がたくさんあって、驚いたけれど、楽しい。
なにより、たくさんのことを知っているあなたが、気になって仕方ない。
もうすぐこの魔法は解ける。
無理を言って連れ出してもらった特別な夜も、終わりが来る。
――特別は、一度しかないから、特別なの。
わかっているから、少しでも長く、この魔法に浸らせて。
お題:特別な夜
一番最初に写真で見た海の底は、まるで碧の宝石を敷き詰めたみたいにきらきらとしていた。
また別のときに見た海の底は、どんなものも容赦なく飲み込んでしまいそうな闇がただ広がっていた。
今は、絶望きわまりないような海の底がとても心地よい。
誰にも自分を見つけられない。
ずうっとひとりぼっちでいられる。
もう他人の目の届く場所で過ごすのはうんざりだ。
ただのひとりも、「 」という人間をおこさないで。
お題:海の底
※ほんのりですがBL表現があります。
玄関のドアを開けた君はとても驚いた顔をした。
「な、なんだよお前、マジで来たのかよ!?」
「うん、ごめん」
「べ、別に謝んなくてもいいけど」
つい一時間ほど前に「またな」と別れた人間が、一応許可をもらっているとはいえこうして押しかけてきたら確かに驚く。というか気持ち悪ささえ感じるかもしれない。
「とりあえず上がれよ」
「え、いいの?」
「そのまま帰すのもなんか、気が引けるし」
困惑とも羞恥ともいえる表情で招き入れてくれた。それをさらに加速させてしまうかも、と申し訳なくなりつつ、ドアを閉めた瞬間背中を包み込む。
「ちょ、お前っ」
「我慢できなくてごめんね。どうしてもまた会いたくて」
一日たっぷり使って一緒にいたのに、離れた途端気持ちが抑えられなくなって、気づけば踵を返していた。
恋人同士になってからどんどん欲張りになっていく。呆れられても文句は言えない。
短いため息が聞こえて、みっともなく身体をこわばらせてしまった。
「お前、ほんとに俺が好きなんだな……」
好きだよ。
特別な想いを抱いたのも、告白したのも、デートも全部君が初めてでよかったと感謝したいくらい、好きだよ。
たぶん重いくらいの気持ちを汲み取ってくれたのか、小さく「ばーか」とつぶやくと、回した腕に頬をすり寄せてくれた。
お題:君に会いたくて
鍵をかけたこの日記は敢えてここに置いていく。
好奇心旺盛なきみは見つけたらきっと我慢できずに鍵を探してしまう。それとも開けてほしいのだと気づくかな。
中身を見たきみはどんな反応をしてくれるだろう?
ふふ、想像するだけでたまらなくわくわくしちゃうね。
お題:閉ざされた日記
思わず、声が漏れた。
隣をそっと盗み見ると、一見不機嫌そうに唇をとがらせた愛しい人の横顔。
「なんだよ」
「う、ううん。なんでもないよ」
車の通りは激しくない、というかほぼ歩道みたいな道だから肩を抱いてきた理由とは考えにくい。そもそもとても珍しい行動ゆえにびっくりしてしまった。
「どうせ、似合わねーことしてるとか考えてんだろ」
バレてた。
だって、今風に言うとものすごく「ツンデレ」だから。とても可愛い性格だと思っているけれど、なかなか素直になれないことを密かに悩んでいるのも知っている。
「……今日はすげー寒くなるって言ってたろ。んな薄着してくんなっての」
もしかして、風が吹くたび身をすくめてたの、気づかれてた?
確かに天気予報では「木枯らし一号」という注意喚起をしてくれていた。ただ気温の数字に振り回された自分が悪い。
——ああ、そうか。ようやく、行動の意図に気づけた。
「……あたためてくれてありがとう」
回されたままの腕に頬を寄せると、さらに距離が縮まったように感じた。
お題:木枯らし