「夜の海」
夜の海の、まっくら。
夜の海の、底の底の、もっとまっくら。
そのまっくらな海の底で、私はバスに乗っている。
たったひとりで膝をかかえて、壊れたバスに乗っている。
だあれもいないまっくらな、ほんとうは、よるかどうかも、わからない海の底で、
たったひとりでバスに乗ってる…
バスのライトは生きている。
なぜだか灯台の灯りのようにぐるぐる、ぐるぐる回りながら、
古代の魚の大きな骨の連なりが、
ぎゅるぎゅる、ぎゅるぎゅる回っているのを灯りの中に捕まえる。
私は怯えて肩を抱き顔を膝にもっと埋める。
これをごらん?と言って来るような灯りの中から目を反らして、ぎゅうっと目を瞑ったら…
…目が覚めた。
全身から力が抜けた。ホッと息をついた。
「自転車に乗って」
母がどこからか貰ってきた自転車。
その名も「青龍号」。(私が名付けた)
母はそれに乗って、ビューンと商店街まで飛んでって、ビューンと帰って来る。
…思えば、可愛いヤツだった。
乗ってる人間も、何か次第に可愛く思えてきていた。
乗り物にはそういうところがある。…え?順番が逆?
昔のドラマかドキュメンタリーに出て来た田舎の
お医者さんが、これもまた自転車に乗って、ビューンと患者さんのもとへ飛んで行く。
すれちがう子ども達が目を丸くする。「すげーはええー!!( ゚д゚)」…「もぉ、あんなところに!!」
診察カバンを前カゴに乗せ、先生が飛んで行く。
切実な場面の相棒としての自転車は、感動的ですらある。
だけど私は、自転車に乗れない。
欲しいとも思わなかった。
幼い頃の私にとって自転車は、小さい恐竜のようなものだった。
「あんなん、言うこと聞くわけないじゃん🙀」
って感じだった。
だから自転車に乗ってちょっとそこまでお買い物に行く人は、今もって憧れなんである。
幼児がバスや電車の運転手さんに憧れる気持ちは、私にはよくわかる(ような氣がする)のである。
「いいなーあれ。かっけえ。」と
今も、けっこうたびたび思っている。
「心の健康」
誰かが言ってたなぁ…疲れは後から来る。
ああ~そうかぁ~と思った。
だからこう、こまめにぐったりしてしまうわけね…。夏バテもあるよね……。
しかたない…休息しよう。出来たら頭空っぽにして。(出来たことはない😹)
好きなことする元氣もない時は、3ページだけ本読んだりする。
ぼーっとしている時間が、息を吹き返させる。
すべての人々がゆっくり、ゆったり休めたらいい。
とりあえず最初のひとり(私)を休ませてあげよう。
ありがとうね、いろいろ。って言いながら…
ゴミ捨て、ちょっとお片付け、いろいろちょこちょこ、ありがとう。
夕方、ちょっと涼しくなって、灯りもつけずにゴロンと横になって、遠くを行くバスや飛行機の音を聞いている。
静かな休息時間です。
そろそろ起き上がって、冷たくしたわらび餅でも食べようかな。
あぁ、アイスがもうない…。…😺。
「君の奏でる音楽」
窓の外に佇んで聴いてる、ピアノの音。
水の流れを思わせる…雨の響きを思わせるそれを、
恩寵のように大切に聴いている。
君の奏でる音楽は、私には痛くて…ひとりの時じゃないと聴けない。……泣いてしまうから。
こんなに心の奥深くに切り込んでくる音を、私も出せたらいいのに…。
悲しいし悔しいけれど、君の音楽を知らないで生きるよりはいい。
こんなに痛い幸せをもたらしてくれる神さまに、苦し紛れに感謝している。今日も密かに。
君の音楽を聴いてから私は、苦しみと優しさと、よろこびと悲しみを、ふたつに切り離せなくなった。
幸せに宿る悲しみ、悲しみに宿る幸せ。
複雑でシンプルな(だってふたつがひとつになるんなら、その分シンプルじゃない?そして混ざってしまうなら、やはり複雑。)悲しみに満ちて、まるきり恋をするように君の音を聴く。
窓の外、たったひとり、世界中の誰にも氣づかれない、日だまりの死角に……今日の日も私は、君の音楽を聴く。
「麦わら帽子」👒
幼稚園のとき持ってた麦わら帽子が、大好きだった。
一生かぶるんだって思ってた。( ー`дー´)キリッ。
当然、しばらくしたらかぶれなくなった。(;_;)。
でも、質感を覚えてる。
麦わらのざらざら、リボンのさらさら…
くるんとしたフォルム。後づけのアップリケ…
あれ、また欲しいなぁ~
かぶれなくても大事にするんだけど。
「神さま、私の麦わら帽子、どこ行っちゃたんだろう?」
…とある映画の一場面のように、呟くのだった。
…そして何だか主題歌まで、歌い出すのであった🎶
✾映画では神さまじゃなくて、母さんですが🐾