お気に入りの服
お気に入りの鞄
お気に入りの靴
お気に入りの喫茶店
お気に入りのコーヒー
お気に入りの席
お気に入りの…あの子
お気に入りにはこだわりがあって絶対譲れない
お気に入りは大事に大事にする
お気に入りはいつも目の届くところに置いておきたい
お気に入りは長く長く大事にする
お気に入りが壊れるのも
お気に入りが古ぼけるのも嫌だ
ずっとずっと綺麗に置いておくから
「きょ、今日の…ロクは…」
肩で息をしながら、絶え絶えに吐き出した。
三段飛ばしで駆け上がってきた、震える膝を押さえながら呼吸を整える。
連続不審水死事件。その調査としてあてがわれた鑑識官の守山の元に届いた“新たな水死体”の速報。
休みであったが、逸る気持ちを抑えられずに職場に飛んで来たのだ。
「今日揚がったのは男。年齢は…10代後半から20代前半ってとこだな」
「揚がって間もないんですか?」
「ええ、検視に回ってるとこだ。じきにうちにもサンプルが回ってくる」
鑑識課長はふっくらとした腹をたわませて椅子にどかりと腰かける。
どれだけの量のサンプルが届こうとも、物ともしない課長がこれだけ疲労を見せるのは珍しい。
「課長…今回の遺体、何かあったんですか?」
聞きたいが聞きたくない。聞きたくないが聞かなければならない。
つい先ほどまで“海神様のお社”にいたのだ。現実と非現実が混ざり合う感覚に眩暈がしそうだった。
「お前には伝えんとならんな。今回は、事件性がありそうでな…」
頬から吐くように、短い呼気をプゥと吐いた口元がどこか遠い景色のようだ。
「首には絞められた痕。ポケットにはノートが詰め込まれてな…」
そっと差し出された写真には、引き揚げられてすぐの写真とみられる、濡れたノートが写っていた。
くしゃくしゃに水で固められた、かろうじてノートであったと分かる紙の塊。
そこには、赤黒い文字がびっしりと書き込まれていた。
何で何で何で何でわかってくれないの!ナンデナンデナンデナンデナンデナンデナンデナンデナンデナンデナンデナンデ
ツタエタイのに
どうして
ドウシテ
アイシテル
口角をきゅっとあげて、目は軽く見開いて。
少し口をすぼめると、アヒル口になってほら、可愛い。
アップライトに照らされて、たっぷりパニエのスカートを翻す。
スマイル満点!ほら、可愛い私を見て!
色とりどりのサイリウムの中から明るいレモンイエローを探す。
あぁ、今日も私は愛されてる。
耳を澄ませば聞こえる私へのラブコール。
偶像だって良い。作った笑顔も可愛ければ最高。
愛された分私もみんなに笑顔を振り撒くから、
だから
もっともっと愛して欲しい。
愛されるならなんだってする。
もっと
もっともっと
もっと…
時計の針がカチカチとなる音だけが響いている。
静かすぎる6畳間のベッドに、カーテンの隙間から残暑の残る陽射しが降り注ぐ。
身体中に鉛を入れられたようなずっしりとした気だるさを感じながら、鑑識官の守山はもったりと寝返りをうった。
連続不審水死事件。この事件の手がかりを探しに、昨夜から目黒探偵事と共にSNSを騒がせている“海神様”の捜査に向かい、自宅に帰ったのが今朝のこと。
今日は有給としてもらったので、今後に備えて寝倒そうと思ったのだが、己の頭はそうは思っていないようだ。
枕元にある時計で時刻が14時過ぎであることを確認して、今朝のことを頭に思い返す。
目黒探偵の姪である、紗枝。怪異や、超常現象などに強い、いわゆる、除霊師のようなものらしい。成人はしているものの、まだ大学生だという。母であり、目黒の姉が実家の寺を切り盛りしており、そのテのこと…怪異などに詳しいのだそうだ。
紗枝の話では、海神様は人の強い執着心をエネルギーとして、人を食っているそうだ。SNSで拡散された影響で急速に人を食い、泥団子のように大きくなった結果実体を持ったのではないかという。
非現実過ぎて、それ以降は日を改めて話をすることになったのだが……。
守山は肺に溜まった濁った空気を大きく吐く。
ピリリリリリリリ
「うわっ」
秒針の擦れる音だけが支配していた空間に、突如高い機械音が流れる。
初期設定から変えていないこの電子音の元である端末を探ると、鑑識課の上司からであった。
跳ねる心臓を納めながら、画面をスライドして通話に応じる。
「はい」
「休みのとこ悪い」
おっとりとした普段の上司は、普段の倍早い口調で続けた。
また揚がったんだ。あの海辺で。死体が。
身体についた塩をあらかた払い、濡れたスーツを軽くまとめて事務室に集まる。浴室に転がっていたこの事務所の主は、美少女によりひっ叩いて起こされていた。
事務室では温かいコーヒーとともに、45度に腰を曲げた美少女こと紗枝ちゃんが出迎えてくれた。
「先ほどは失礼しました。叔父に呼ばれて来てみたら、空気が重かったので。どこか行ったなと…」
黒く艶やかな髪がさらりとゆらめく。
「いや。確実に悪いとこに行ったのは俺たちだ。今回も悪いな、紗枝ちゃん」
「叔父からきっちりバイト料もらうので大丈夫です」
後頭部をボリボリと掻いてばつが悪そうな鳶田に、紗枝が口角をあげて応える。
「あの…やっぱり、悪いとこだったんですかね…なんか憑いたり、とか」
やり取りを眺めて一歩控えてはいたが、不安に駈られて守山が訊ねる。
「憑いたとか、呪われたとか、そんな感じではないので大丈夫だと思います」
きっぱりと言い切られて安堵するも、ただ…と続けられた言葉につい身を構えてしまう。
「悪い空気になってる、と言えば分かりますかね?この空気持ってると暗い気持ちに引っ張られるみたいな」
「気持ち…」
唇から漏れ出すように呟いた守山に、紗枝は軽く頷く。
「叔父から今回の件は軽くですが聞いています。恐らく人の執着心や強い念が、蟻地獄みたいに人を惹き付けては命を吸っているんだと思います」
紗枝は事務室をくるりと見渡して、理解できていないと踏んだのか、そのまま続けた。同時に差し出されたまだ温かいコーヒーに口をつけながら、続きを待つ。
「なんて例えたら良いかな…雪だるま。雪だるまは雪の上で転がしたらどんどん大きくなるでしょ?海神様もそれと同じで、すごく強い想いを吸収してるんだと思う。溢れ出た想いって、すごく重たいエネルギーで。それを吸っているのが奴なんです。」
一度軽く息をついて、ゆっくりと目を伏せる。
「雪だるまだって最初はすぐに溶けてしまう儚いものだったけど、大きくなればなるほど溶けにくくなる。泥も巻き込むから、だんだん濁って、溶けて固まって。中の方は淡い雪から氷になって。海神様もそれと同じ。最初はきっと誰かへの淡い気持ちから来てるはずなんです」
紗枝ちゃんはゆっくりと言い切ると、全てを飲み込むようにカフェオレを流し込んだ。
カップを離すと、噛み締めるように言った。
「きっと、今は実体を持っています。色々な念を渦めかせて」