【最初から決まってた】
夜雨は、いつか春歌とは離れることになると確信している。
理由はない。けれど、ただただ確信している。
いつか、が決まっているのなら、今でもいいのではないか。
離れるべきか、まだ離れずにいるべきなのか。
終えるか、終えないか。
毎日は選択の連続で、決断したくない夜雨は、天に託してみたりする。
どちらにしようかな
神様の言うとおり
「ヨウ!」
手をぶんぶんと振りながら駆け寄ってくる春歌に、ひらりと軽く上げて返す。
今日もまた、こうして春歌と共にいる。
天が言うのだから仕方ないのだ。
──結局のところ二択なら、初めに指差した方が選ばれるのだと決まっていたとしても。
【太陽】
猛暑のせいで夜雨の脳みそが沸いてしまった。
「イカロスって覚えてるか? 小学生の頃歌ったよな。勇気ひとつを友にするやつ。あれ元ネタはギリシャ神話らしいんだけどさー。いやそっちはよく知らんけど。歌の方はなんかずっと覚えてんだよな、あの薄暗い音楽。蝋で鳥の羽かためて翼にして飛び立つんだけど、太陽に近づき過ぎて熱で蝋がとけておちて死んじゃうんだよな……。ずーっと、ずっと覚えてんだよ、あの歌詞……身につまされるって言うか。つまりおれは蝋燭なんだよ。太陽に近づき過ぎたらとけるだけだって解ってんのに、近づくのをやめられないんだよな……」
ぐでっと机に懐いて「あつい……とける……」と呟きながら人の形を失っていたかと思えば、唐突によくわからないことを語り始めた。完全に暑さにやられておかしくなっている。
内容も支離滅裂でよく解らなかったので、早々にこれは聞かなくていいヤツだと判断した春歌は、冷凍庫から取り出したアイスをパキリと割って食べ始めた。チョココーヒーの冷たさが身体に染み渡る。
「聞いてんのかよ」
少し不機嫌な声とともに伸びてきた手が、残しておいたアイスの片割れを持っていった。これはふたりでわけて食べるのが正解のアイスなので、そこには何の問題もない。問題は、聞いているのかと問われたことだ。
聞いとかなきゃいけないヤツだったのかと、ほんの焦りを誤魔化して、必死に思い出す。夜雨は何の話をしていたのだったか。確か、太陽に近づきたいとかなんとか言っていた気がする。
つまり。
「ヨウは宇宙飛行士になりたいってことだよね?」
にっこりと、とびきりの笑顔を向けた春歌に夜雨は、眩しいもの──それこそ太陽でも見るかのように目を細めて、勢いよくアイスに齧りついた。
【鐘の音】
「運命の人は、出会った瞬間にわかるんだって。ビビビッときたり、頭の中で鐘が鳴ったり」
「は? そんなの、出会ったのが物心つく前だったらどうなんだよ。おれ、おまえに初めて会ったのがいつかすらも覚えてないんだけど」
何の気なしに春歌が話題にしたその内容に、何も考えず反射で返して夜雨は、最後の「ど」の音の形のまま、口をぽかんと開けて固まった。
春歌も春歌で、頬やら耳たぶやらを真っ赤に染めて、驚いた表情で固まっている。
夜雨はそっと口を閉じる。
どこか遠くで聞こえる鐘の音は絶対に気のせいだった。
【つまらないことでも】
「お、あの猫、アレに似てる。昔、近所に住み着いてて、春歌が家に連れて帰るって大騒ぎしたやつ」
言いながら夜雨が指差した猫は、ブロック塀の上で細長くだらりと伸びていた。声に反応したのかこちらを向いて、くわりとあくびをひとつ、顔を伏せる。言われて思い出したそれは確かに、ハチワレの歪み具合も仏頂面も、大変よく似ていた。
「つまんないこと覚えてるなぁ」
苦笑混じりの春歌に、夜雨はニヤリと、ひとつ笑った。
「アレは春歌が木登りしてみたいって聞かなくて、シャツ引っ掻けて破いた木」
「あそこに干してある洗濯物は、春歌のお気に入りで毎日のように着てた服と同じ柄」
「あの花は春歌が良い香りだって言って、家の庭にも植えてってねだってたやつ」
「春歌が思いっきり躓いてコケて、おでこから血ダラダラ流してて、本人はビックリしすぎて笑ってたのに、怖くておれが泣いた段差」
ふたりで歩く道すがら、記憶に、心に触れるものを、夜雨がひとつひとつ指差していく。春歌はそれに笑ったり、怒ったり、少し拗ねてみたり。
それから通りかかった自動販売機で夜雨は立ち止まり、一本のジュースを買った。
喋りすぎて喉が渇いたのかと思ったら、かがんで取り出したまま春歌にホイと手渡す。
「それでこれが、この間春歌が好きだって言ってたやつ」
春歌のするとりとめもない話をいつも、聞いてるんだか聞いてないんだかわからない態度で適当に相槌を打つだけのくせに、そんなことばかり覚えている。
くだらない思い出も、全部。
ありがとうと受け取って、春歌は体中いっぱいになった気持ちをごまかすように、ぴょこんとひとつ、両足で地面を蹴って跳ねた。そうして立った自動販売機の正面、お金を入れてボタンを押す。
買うのは、小さな夜雨が好んで毎回飲んでいた、ぶどう味の炭酸飲料だ。
【目が覚めるまでに】
春歌の目が覚めるまでにやっておくこと。
隣に体温がない寒さに慣れる。
くだらない内容のつまらない話を聞いてくれる人を探す。
今までより退屈な時間が増えるだろうから、趣味でも見つけた方がいいかもしれない。
あくびをすれば夜更かしするからだと、食事を抜けば身体に悪いと、わざわざ小言をくれる人は貴重なので、自分のことは自分で気にかけてやるようにする。
体調が悪くてどうにも耐えられないときは、気づいてくれるのを待って我慢するんじゃなくて、自分から誰かに打ち明けて休む勇気を持つ。
それから。
それから。
指折り数えて、夜雨はため息をつく。
たった一人が傍を離れるだけで、自分への影響がひどく大きい。やらなくてはいけないことを考えるだけで、その多さに疲れてしまう。
けれどいつかは春歌の目も覚めてしまうだろう。
子供は大人になって現実を知り、幼い時分を思い返してはあの頃は夢の中にいたのだと懐かしむ。夢の中の登場人物など、現実を生きているうちに忘れたことすら気づかず消える。
春歌の目が覚めるまでに、覚悟を決めておかなければいけない。
暗いところで小さく丸まって、このままずっと目が覚めなければいいのにと願う自身のことは、気づかないふりをしなければいけない。
ああでもいっそ。
夜雨は夢想する。
春歌の目が覚めてしまうその直前、誰にも触れられない場所で眠りについて、そこを永遠にしてしまいたい。