【つまらないことでも】
「お、あの猫、アレに似てる。昔、近所に住み着いてて、春歌が家に連れて帰るって大騒ぎしたやつ」
言いながら夜雨が指差した猫は、ブロック塀の上で細長くだらりと伸びていた。声に反応したのかこちらを向いて、くわりとあくびをひとつ、顔を伏せる。言われて思い出したそれは確かに、ハチワレの歪み具合も仏頂面も、大変よく似ていた。
「つまんないこと覚えてるなぁ」
苦笑混じりの春歌に、夜雨はニヤリと、ひとつ笑った。
「アレは春歌が木登りしてみたいって聞かなくて、シャツ引っ掻けて破いた木」
「あそこに干してある洗濯物は、春歌のお気に入りで毎日のように着てた服と同じ柄」
「あの花は春歌が良い香りだって言って、家の庭にも植えてってねだってたやつ」
「春歌が思いっきり躓いてコケて、おでこから血ダラダラ流してて、本人はビックリしすぎて笑ってたのに、怖くておれが泣いた段差」
ふたりで歩く道すがら、記憶に、心に触れるものを、夜雨がひとつひとつ指差していく。春歌はそれに笑ったり、怒ったり、少し拗ねてみたり。
それから通りかかった自動販売機で夜雨は立ち止まり、一本のジュースを買った。
喋りすぎて喉が渇いたのかと思ったら、かがんで取り出したまま春歌にホイと手渡す。
「それでこれが、この間春歌が好きだって言ってたやつ」
春歌のするとりとめもない話をいつも、聞いてるんだか聞いてないんだかわからない態度で適当に相槌を打つだけのくせに、そんなことばかり覚えている。
くだらない思い出も、全部。
ありがとうと受け取って、春歌は体中いっぱいになった気持ちをごまかすように、ぴょこんとひとつ、両足で地面を蹴って跳ねた。そうして立った自動販売機の正面、お金を入れてボタンを押す。
買うのは、小さな夜雨が好んで毎回飲んでいた、ぶどう味の炭酸飲料だ。
8/5/2023, 6:37:11 AM