hikari

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11/8/2024, 1:10:43 PM

意味がないこと


私は、
意味がないことや無駄なことを嫌うタイプの人が嫌いだ。

タイパ、と言う言葉を見るとゾワゾワしてくるし、
ひと暴れしたくなる。

これは単なる好みの話。

無駄を無駄として毛嫌いしたり、
意味がないことを否定したり、
その根底には損得勘定が働いている。

損得勘定は、何を考えるにしても重要ではある。
会社の売り上げ、人間関係、立ち振る舞い。
私の前職といえば、モロ経営分析に関係するような職業だったので、損得・損益を考えることは人生の舵を取る上でも大切な観点と知識であることを当時は色濃く認識していた。

前職の職場に限らず、ありふれている、無駄なく、卒なく、そこに意味を成し得ないことを嫌う人たち。

仕事をする上で、そういう思考は身につけておくべきことなんだと思う。

だけど生きていく上で必要なことは、意味がないことの積み重ねなんじゃないかと思ったりする。無駄にすぎる時間も、しょうもない恋愛も、人生の指針にもよるけど大体意味はない。けど意味もなくて、価値もないものは、「私」を生かす重要な項目であることには間違いない。それはまさしく、「感情」であり、感情を尊重することはすなわち、自分を愛することと同意義であると私は思っている。

器用に生きる人もいれば、不器用にもがく人もいる。人生の荒波がない人は、たぶんそういう人生なんだと思う。器用に美しく生きられる人もよし、不器用で情けない人も、それはその味しか出せない魅力がある。きっと、その魅力に気がつくためには、いくらか自分の意味のなさを許容してきたかにあると思っている。

24.11.08 - エッセイ 意味のないこと

11/7/2024, 3:25:55 PM

あなたとわたし

母子癒着、という言葉を知ったのは25歳の時だった。
親身に話を聞いてくれたカウンセラーが、少し申し訳なさそうに言うのだった。「こんな厳しいことをね、いうのもね、なんだか申し訳ないのだけれど…」という前置きを置いて。

カウンセラーはわたしの母よりも10歳ほど下の女性だった。彼女が経験してきたことは、私とひどく似ていてとてもただの他人とは思えなかった。彼女は先ほどの前置きの後に一つ息をついて、いった。

「あなたとお母さん、『癒着』してるんですよ」
「ユチャク?って、癒着?」


途中保存

眠い。眠すぎる。

11/4/2024, 4:34:18 PM

哀愁を誘う

哀愁を誘うもの
大分むぎ焼酎二階堂のCM。
わたしはこのCMが好きでYouTubeで何度も検索して観ている。
特段人に話すようなことでもないが、
それなしでは生きていけないもの。
そういうものが知らないうちに集まって、
それがわたし。



あーあのCM作ってくれた人、ありがとう。
哀愁漂うもの、だいすきです。

11/3/2024, 3:03:55 PM

鏡の中の自分 

私には嫉妬する層がいる。それは、ストレートな人間。容姿、部活、職業、家族。全てが、可もなく不可もなく持っている。外見も平均、学力も平均、身体能力も平均、会社員勤めで25-28歳あたりで結婚する。女性であれば、女性性を表面上は強く持ち、内面はしっかりした内向型の人が多い。男性は落ち着いているが、スポーティな印象。当たり障りのない性格と、コミュニケーションを持ち、誰も貶すことなくはははと笑える協調性。興味のない異性にも不快にならず対応し、同性にはかわいいポジションとして仲間に入る。人畜無害を極める。また、レールから外れた人間と話す時は、顔を片方少し引き攣らせながら優しく対応する。万物に対応しつつも、決して、ストレート以外は受け止めていない人。

そのような人は一定数存在する。どこの学校でも職場でもいる。不器用な側の人間としては、そのような人と出くわすたびに器用に生きることに尊敬する。また、とても嫉妬する。私も受け入れることもなければ、受け入れられることもない。

きっと、目の前に親から相続した資産家が現れるより彼らがいた方が私の心は乱される。宝くじを何億と当てた人間よりも心を乱される。彼らが涼しい顔で成し得ているものが、日々の細やかな努力の上に成り立っていることを、不器用な私は知っている。


鏡の中の自分に映るのは、いつも少しだけ歪んで見える存在。彼らのように「ストレート」には生きられない、少しねじれた自分だ。鏡の前に立つたび、そこに映る自分が本当に自分の一部なのか、それとも、自分が抱く「ストレートな人々」への反発や憧れが作り出した幻なのか、疑問が湧いてくる。

私は彼らの生き方に憧れながらも、どこかで抗っているのだろう。自分の中の「不器用さ」が、どうしようもなく強く染み付いているから。自分の「歪み」や「ねじれ」を引き剥がそうとしても、それは無理なのかもしれない。逆に、それを「自分」として受け入れることが、私にできる唯一の方法かもしれない。

とはいえ、日常生活の中で何度もストレートな人々と出会うたび、その「鏡」はひび割れていく。彼らと自分の間に広がる、見えない透明な壁。それはどこから来たのか、いつから存在するのか、はっきりとはわからない。だが、その壁があるせいで、彼らと目を合わせても、心の奥底では通じ合うことがないと感じてしまう。まるで鏡越しに見ているかのような、届かない距離感がそこにはある。

この鏡の中の自分を、ただ見つめ続けるだけでは、きっと何も変わらない。自分が歩んでいる道が「ねじれた道」であるならば、そのねじれをそのまま「私の道」として生きていくべきなのだろうか。それとも、鏡の向こう側にいる「ストレートな彼ら」のように、少しずつでも「まっすぐ」になろうとするべきなのか。

鏡に映る自分が、私に問いかけている。

24.11.04-創作-鏡の中の自分

11/2/2024, 2:14:51 PM

眠りにつく前に


夜9時という健全すぎる時間に寝床に着き、アダルトビデオを鑑賞しながら咽び泣く女が日本に何人いるだろうか。調査したいところだが世間体を気にすると安易に行動に移せないが、少なくともこの中野区では1人だけだろう。狭い6畳のベッドの上で、また、この煌びやかな都会で、私は何をしているんだ。

きっとこの光景を子供が見れば、大人の慣れ果てに膝から崩れ落ちるだろう。大人が見ても結構ドン引きである。いや、高校時代の私が見たら顔を引っ叩いている。
この涙はいったい何なのかというと、一種の自傷行為のようなものである。

タイムリーに浮気された私は、AVだろうが、バラエティだろうが、自分の心が一ミリでも動かされるものには全てに涙を流せる状態だった。多分、今なら蚊に刺されただけで1日は泣ける。指先で、ツン、と背中を押されでもすれば、1週間は泣き喚き家から出ない。あまりにもセンチメンタルな状態で自分でも手に負えないのである。はっきり言って、仕事いってるだけでも偉い。

当然、結婚する流れだった。4年付き合って、2年同棲した。結納の日も決めて、結婚式はもう少ししてからだね、なんて話もしていた。勿論ゼクシィも買った。ゼクシィ、買ったら綺麗な手提げ袋くれたの、びっくりだね、なんて話していた思い出もまだ色濃く脳に記憶されている。そんなペラリとピンク色に輝く封筒にキャッキャと喜んでいた馬鹿な私と並行して、奴は器用にも他の女を抱いていた。そしておまけに、子供まで作っていた。
それから、今日に至るまでの過程は、いろんな話し合いというか、私の一方的な怒りの話し合いばかりが続いた。もはや、相手の子供を思うと、相手を許す以外の選択肢を持たされていない私は、今から仏教に入信するくらいの悟りの心を求められていた。いや、もしこれを乗り越えられたら、私が令和の釈迦にでもなれるのではないかと烏滸がましくも願ってしまうほどの大きな壁に思えた。
浮気というもののダメージは、された側が大真面目であるほど顕著に現れると思う。今までさほどダメージを受けてこなかった前頭葉と海馬は、今回の一件で大きく縮んだのではないだろうか。例えMRIで確認されなくても、縮んだに違いない。だってこんなにも頭の働きが悪い。アダルトビデオみて号泣してるんだもの。

じゃあ、昼ドラでも見ればええやないか、という意見もその通りであるが、今は感情移入しすぎて自分でも何をしでかすかわからないのである。もしかしたら昼ドラと同じような展開をし、火曜サスペンスのようにバーンと荒れ狂う海をバックに刑事さんに謝罪しながら泣くかもしれない。それなら、アダルトビデオ見ながら泣いてる方がマシなのである。

元彼が子を身ごもった浮気相手と謝罪しに来た時、いろんな感情があったが、浮気相手がべらぼうに美人だった。まずそのインパクトも激しく、わたしは時計の読み方を忘れるほどだった。あれ、長い針が…どっちだったっけ…という、心と脳のボケにツッコミもおらず時は流れた。そして、わたしの心が言うのである、なぁんだ、やっぱり美人がいいのね。男受け、か、と。

ほな、私だって男受けなるもの極めてやったろうやないの、と、1人になってPCを開き、あれや、これやと検索をしていた。色々馬鹿馬鹿しくなって履歴を開いたところ見覚えのない履歴があった。このPCは元彼と共有していたものだった。その見覚えのない履歴こそが、冒頭のアダルトビデオである。ワンクリックで開き、動画を見た。美しい綺麗な女性が写っていた。
私の感情はというと、履歴消しとけやアホ、というそんな一般的なものではなく、ただ目の前に映る光景が、自分が見ていなかった浮気現場そのもののように映っていた。自分とはかけ離れた美しい身体を見て、私は気づいたら、吐いてしまうほど泣いていた。

そこからというもの、私は悲しくて耐えられないはずなのに、この映像をみては心を傷つけている。そろそろこのいかれたナイトルーティンも辞めなくてはならない。自分では後戻りできないところまで心が枯れ果ててしまう。というか、この業界の作成者も、失恋コンテンツは意図してないと思う。ま、それはどうでもいいか。

いつの日かみた美術館の絵画で、ロマン主義や理想主義と対象に、現実主義の絵画が展示されていた。美しい白人女性の裸体と対照的に、リアリズムでは脂肪のついたふくよかな女性に変わっていた。その時感じた差くらい、今目の前で流れている女性と私はちがう。彼が望んでいた女性と私も、私が気がつかなかっただけでこんなに違っていたのか。

その気づきが、私にとってはまるで胸に突き刺さる現実の刃のようだった。あの美術館で見たリアリズムの絵画は、理想とはかけ離れた「ありのまま」を描いていたけれど、あの時はその意味がよくわからなかった。けれど今、目の前の画面に映る作られた美しさと自分との隔たりを感じた瞬間、私が「リアル」だったからこそ彼に選ばれなかったのかもしれない、という悲しい答えにたどり着いた気がした。

ふと、画面を閉じ、暗くなったPCの画面に映る自分を見つめる。そこには目が赤く腫れ、疲れ果てた顔があった。きっと高校時代の私が見たら、もう一度叱られるだろう。「何やってんの?」って。愛されるために必死だった私が、今はひたすら自己否定を続けている。

だけど、もしリアリズムが「ありのままの美しさ」を描くためのものであるならば、私もいつか自分の「リアル」を好きになれる日は来るのだろうか。あの美術館の絵のように、自分を誇れるようになれる日は来るのだろうか。

その夜、私は決めた。今まで続けていた、自己破壊的なナイトルーティンをやめることにした。もう、アダルトビデオで自分を傷つけるのは終わりにしよう。ありのままの自分を否定するために画面を開くのではなく、本当に自分のためになる時間を過ごすべきだと、やっと心の奥で理解できた気がした。

そして、もう一度自分を見つめ直すために、いつかあの美術館に行ってみようと思った。今度は少し違う目であのリアリズムの絵を見られるかもしれないから。

24.11.03 創作-眠りにつく前に

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