鏡の中の自分
私には嫉妬する層がいる。それは、ストレートな人間。容姿、部活、職業、家族。全てが、可もなく不可もなく持っている。外見も平均、学力も平均、身体能力も平均、会社員勤めで25-28歳あたりで結婚する。女性であれば、女性性を表面上は強く持ち、内面はしっかりした内向型の人が多い。男性は落ち着いているが、スポーティな印象。当たり障りのない性格と、コミュニケーションを持ち、誰も貶すことなくはははと笑える協調性。興味のない異性にも不快にならず対応し、同性にはかわいいポジションとして仲間に入る。人畜無害を極める。また、レールから外れた人間と話す時は、顔を片方少し引き攣らせながら優しく対応する。万物に対応しつつも、決して、ストレート以外は受け止めていない人。
そのような人は一定数存在する。どこの学校でも職場でもいる。不器用な側の人間としては、そのような人と出くわすたびに器用に生きることに尊敬する。また、とても嫉妬する。私も受け入れることもなければ、受け入れられることもない。
きっと、目の前に親から相続した資産家が現れるより彼らがいた方が私の心は乱される。宝くじを何億と当てた人間よりも心を乱される。彼らが涼しい顔で成し得ているものが、日々の細やかな努力の上に成り立っていることを、不器用な私は知っている。
鏡の中の自分に映るのは、いつも少しだけ歪んで見える存在。彼らのように「ストレート」には生きられない、少しねじれた自分だ。鏡の前に立つたび、そこに映る自分が本当に自分の一部なのか、それとも、自分が抱く「ストレートな人々」への反発や憧れが作り出した幻なのか、疑問が湧いてくる。
私は彼らの生き方に憧れながらも、どこかで抗っているのだろう。自分の中の「不器用さ」が、どうしようもなく強く染み付いているから。自分の「歪み」や「ねじれ」を引き剥がそうとしても、それは無理なのかもしれない。逆に、それを「自分」として受け入れることが、私にできる唯一の方法かもしれない。
とはいえ、日常生活の中で何度もストレートな人々と出会うたび、その「鏡」はひび割れていく。彼らと自分の間に広がる、見えない透明な壁。それはどこから来たのか、いつから存在するのか、はっきりとはわからない。だが、その壁があるせいで、彼らと目を合わせても、心の奥底では通じ合うことがないと感じてしまう。まるで鏡越しに見ているかのような、届かない距離感がそこにはある。
この鏡の中の自分を、ただ見つめ続けるだけでは、きっと何も変わらない。自分が歩んでいる道が「ねじれた道」であるならば、そのねじれをそのまま「私の道」として生きていくべきなのだろうか。それとも、鏡の向こう側にいる「ストレートな彼ら」のように、少しずつでも「まっすぐ」になろうとするべきなのか。
鏡に映る自分が、私に問いかけている。
24.11.04-創作-鏡の中の自分
11/3/2024, 3:03:55 PM