力を込めて
共依存に陥る女は馬鹿だと思っていた。
男で人生を狂わされるなんで1番滑稽な人生だと信じて疑わなかった。
そして私は、今、まさしくその滑稽な人生の真っ只中にいる。
東京都新宿区上落合。
どうしても落合に住みたかったのは、歩道が広いから。
ついでに車道も広い。歩道も、人が通る道と自転車が通る道に分かれていて、自転車や車の通りのストレスを感じることがない。歩行者だけ避ければ良い。
道路から感じる区の財力、さすが新宿区。
私は落合駅徒歩3分の好立地マンションの6階にいる。
1人布団にくるまりながら、天井を睨んでいる。
気に入っているおしゃれな窓辺からは、綺麗な空が広がっていて、窓辺に置いた頑丈なモンステラが殺風景な部屋を彩っていた。
つい数ヶ月前までは、ずいぶん賑やかな部屋だった。
6年近く連れ添った、作家志望の男がいたからだ。
そいつは、いかにもクズそうな男だった。
タレ目の優しそうな瞳と、すぐそばの泣きぼくろが、女の警告を煽る。小柄で華奢な、色白の中性的な男だった。
そして、見た目から予想できるような、優しい性格だった。
言って欲しい言葉をよく理解し、
知識も豊富、
受け止める許容量。
この6畳の空間で幸せを満たしてくれるには、飽和状態だった。
男のように力をつけよと教育された私はコロっと心を掴まれた。
私は落合のこの6畳のお城で、お姫様にでもなったかのように有頂天になっていた。
そしてこの落合のお姫様を維持するために、かかった金は膨大であった。
なんせ、その泣きぼくろの王子様は働かないのである。
端的に言えばヒモである。
だが別角度で言えば、作家志望の夢追い彼氏、という部分でもあった。
ただ、こんな美男子、こんな理解者、もう現れないんだから。と、何度も自分に言い聞かせ、読んで字の如く身を粉にして働いた。
働いて得られたものは、落合の賃貸と、働かない王子様。当時は結構それで満足していた。
ところが、無自覚に過度な稼動を続けていると人間も壊れるもので、そんな生活を数年続けたのちに私は限界に達した。40度近い熱が下がらないのである。
のちに、精神科で診断を受け、仕事を辞めた。
仕事を辞めたら、泣きぼくろの王子様は、突如大都会に消えていった。
そして私は、冒頭の職も男も金も失った、哀れな女になったのである。
シンデレラの魔法が解けた時もこんな感じだったのだろうか。いや、シンデレラは灰を被りながらめげず腐らずチャンスを掴んだ女だ。魔法が解けた後も決してこんな惨めな女にならない。どちらかというと、古事記のイザナミノミコトよろしく、黄泉の国で死者の形相で追いかけている方が近い。落合のこの部屋は、いつから黄泉の国になったのか。そして私の黄泉の国にまで、追いかけてくれる人はいなかった。
私は半裸で布団にくるまっていた。
やっとのことで入った風呂を出て、髪も乾かさず、泣き過ぎて嘔吐したのち、力尽きて布団にくるまった。
結構本気で私が1番世の中で惨めじゃない?と、友人にLINEを送ろうとしたところで辞めた。
本気で惨めな時は自分で惨めと言えない。
泣きぼくろ王子は、先月の私の誕生日に一通の手紙を送ってくれた。いい歳して、手紙だけで有頂天になっていた私は、ちょっと哀れで笑えない一線にいる。
手紙には、言い訳がましい罪悪感が述べられていた。
そして最後の文章に一つこう書かれてあった。
「こんなこと言うときっと怒るだろうけど、君が一番女の子だと思う。」
他人の恋愛模様、それは愚の真骨頂である。これは母がよく私に言っていた。私も中学生の多感な時期によく同級生を馬鹿にしたものだ。
だが、私の脳からは報酬分泌がドバドバと溢れ出していた。
泣きぼくろ王子は、ホストの星で生まれたんだろうか。
才能がある。
かく言う私もホストにのめり込む才能がある。
なるほど、こういう人の心のデコとボコを埋めるビジネスなのか。稼げる理由がわかる。
過度な厳しい教育の元、
男のように育てられた私は、
女性としての性自認が出来なくて、
酷くそれに悩んでいた。
性別が宙に浮いてるようで、
同性の女の子としか付き合ったことがなかった。
もちろん、彼女たちのことも好きだったが、
心にぽっかり空いた穴のようなものが埋まらなかった。
確かにそこにあるのに、自分で確認できていないような感覚。
泣きぼくろ王子は、私に一つ、女としての性別を与えてくれたように感じていた。
私はその手紙を見て、何度か嬉しくて泣いたのである。
私はその手紙を、力を込めて、破いた。
自分の中にある最大の力で破き続けた。
細かく破いたのち、ゴミ袋に勢いよく捨てた。
あのまるっこい女の子のような文字はもう2度と読めない。
でも、読めてなくていい。
私はあの手紙がなくても、女だ。
あの男がいなくても女なのだ。
誰になんと言われても、私は女だ。
涙とゲロと鼻水で汚れた顔を拭いた。
鏡の前にいる自分を見つめ、
貧相な胸に下着をつける。
カメリア5番のリップを出して
私は唇に色を乗せた。
過ぎた日を思う
熱にうなされた。
私は幼い頃から病弱であった。
高齢出産故か、大きいと驚かれる扁桃腺のせいか、
はたまた全く別の原因があるのか、わからない。
とにかく病弱なのだ。
病弱に加えて、私は熱を出すと泣いてしまう。
普段は軽度の痛みや、ストレスに耐えうる我慢は苦ではないのに、熱を出すと周りが引くほど泣く。
心の奥底にしまい込んでいた不安のようなものが、爆発するのである。そして1人誰もいない空間に向かって泣きながら謝罪をする。
大の大人が、1人嗚咽を漏らしながら泣いている自分を俯瞰して見ている自分がいる。なんと哀れで滑稽で、情けないことか。熱が出ると自己嫌悪の真骨頂を味わう。
私は何に泣いているのか。
私は誰に謝罪しているのか。
そして、決まって、私は幼い頃の自分を思い出す。それは、夢か、夢でなくても思い出す。
思い出す自分はさまざまである。
さまざまであるが、
特に多いのは小学2年生のころ。
私は、時計が読めない子供だった。
どこかぼけーっとしていて、集中に欠けた感情のない子供だった。それでいて学習能力も他の同級生に比べて2、3年遅れていた印象がある。
私は時計が読めないことに加えて、九九も覚えられなかった。どことなく焦りは感じていたものの、時計が読めないことをなかなか言い出せなかった。
当時何故あそこまで飲み込みが悪かったのかいまだに分からない。今でもそこまで良くない。
それにもかかわらず、私の両親や家族は、私からは考えられないほどに優秀なのである。ここはかなり世知辛い部分である。
両親共に大学を主席で卒業し、現在は小難しい資格を肩書きに小難しい仕事をしている。そしてそれを真似するかのように、兄弟も皆素晴らしい大学を出て、難関資格に合格していた。
4人兄弟の末っ子として生まれた私は、母の腹の中で与えられるはずだった学力を全て上の3人に取られてしまったかのように間抜けだった。おまけに病弱。いやはや、どこで自信を持てば良いのか。
そんな家族に、「時計が読めないし、九九も覚えられない」と夕食の席で伝えた。
そこからは、まず地獄だった。
まず、なぜ時計が読めないのかを理解してもらえず、
両親は激怒した。その場で問題責めに会い、答えられなかったら怒鳴るの繰り返しで私は泣くことしかできなかった。
なんとなく、書いていて言い訳がましくてうんざりするが、その後毎日時計を読めるように必死だった感情が熱と共に蘇る。なんとか時計も読めるようになったし、九九も言えるようになったのは、随分と成長してから。
体が熱い。熱い、熱い、熱い。
私は気味悪く、誰もいない空間に謝罪し続ける。
1人で暮らす、私の今の家に時計はない。
熱にうなされる夜、私は過ぎた日に謝罪する。
大事にしたい
木彫りの人形が私をじっと見つめている。
クーラーの効きが悪い実家のリビングで、
ソファにくつろぎながら、私は木彫りの人形を見上げていた。
その人形は、ニポポといってアイヌのものらしい。手のひらサイズの小さな女の子の形をしている。かわいい、穏やかな顔だ。私が、網走に行ったときに買ったものだ。観光地の土産といえば他人宛にしか買うことがなかったが、ニポポは自分のために買った。今は実家のピアノの上に置いてある。
ニポポとの出会いは、先週の土曜日だった。
私が網走に行ったのは、特に何の目的もなかった。ただ焦って、車を走らせていたら、網走についていた。
とにかく、何かをしたくて車を走らせていた。何かをしたいと思うほど、私はなにもしていなかった。
私は、昨年の冬、気がついたらいろんなものを無くしていた。
仕事、婚約者、都会の生活。自分の体を壊すまで我慢したものが全て水の泡になった。病めるときも健やかなるときも共に歩む予定だった婚約者は、一時の性欲に支配されて、都会の寂寞に消えていった。晴れて、30歳手前というのに無職、婚約者もなければ金もなく、実家で寄生虫の様に暮らしながら、早1年が経とうとしている。仕事を辞めてから、夜が怖ければ、朝も怖い日々が通り過ぎてゆく。眩しい光が窓から差し込むとき、私は心底嫌悪感がした。今日は何から逃げればいいんだ。
弱り果てた心では都会にひとりでは耐えられないという理由で、全てから逃げ出して実家のある北海道にやってきた。それからというもの、実家で親の生気を吸いながら、私は生きている。そうだ、私は、学生のころから何一つ成長していないのだ。
現代病の「人間関係リセット症候群」よろしく、そんな自分を克服するべく、私から絶対に人の縁を切ってはならないと決意した大学一年生の近いは虚しくも守られずに終わった。東京を離れるときに、惨めで仕方がない自分に耐えきれずに連絡先を全て消したのだ。そういうところも含めて、私はつくづく惨めな女だった。
惨めではあるが、一方で身軽でもあった。世間からは後指刺されることしかない。だが、あまりにも社会から離脱した自分は、傷つかない閉鎖空間に居て、居心地はいいものだった。
網走についたのは昼過ぎだった。網走といえば、有名な網走監獄がある。地元が北海道でありながら、なんとなく厳格そうな雰囲気の観光地だなと、食わず嫌いをしていた。何も考えず、網走監獄へ向かうと、なかなかの賑わいようであった。
天気は曇天だった。
私は北海道の曇天が好きだ。広い土地には鬱々とした天候も圧迫感を感じない。空が迫る感覚もなく、曇天を曇天として楽しませる自然の余裕がある。その余裕に身を委ねていれば、曇りに左右されず、私は灰色の空の色や雨の匂いを感じられる。
結果は、行ってよかった。
昔は知ろうともしなかった北海道の歴史が、今はスポンジの様に自分の頭と心に染み込んだ。幾人もの命の軌跡に、郷土愛のような、不思議な気持ちがじわじわと生まれる感覚があった。嬉しいも悲しいも感じなくなっていた自分の心に、じんわりと温かなものが込み上げてきて、なんとなく涙が出る様なそんな気持ちになった。そうか、これが感謝か。観光地は様々だが、地元の観光地こそ行くべきでは、と考えさせられた。
ニポポとは、網走監獄で出会った。
監獄内に、私の同じくらいの身長の木彫りの女の子の像があった。詳しい内容は忘れたが、アイヌ由来の像で、遠出をする際にニポポに無事を祈っていたらしい。かわいい女の子の像だった。直感的に、欲しい、と思った。
私のような消費者心理を悟った様に、出口の土産屋には小さなニポポが売られていた。誰の土産でも無く、私はニポポを自分のために買った。800円くらいだった。社畜として身を粉にして働き、ストレス発散の如く買ったデパコスよりも、はるかに、私の心は800円のニポポによって満たされていた。
実家に帰って、ニポポをピアノの上においた。
ピアノは私の唯一の表現場だった。特別な場所だから、その上に置いた。
色々失った昨年の冬に、手に入れたものは適応障害だった。
親や兄弟の病気やらで落ち着いていなかった学生時代から、なんとなく直向きに隠していた自分のボロが如実に現れた。そんな私に、自分の感情を吐き出させていたのがピアノだったのだ。いろんな日を生きた当時の自分が、鍵盤を触ると蘇る。置き去りにしてきた自分が、あの日のままピアノのイスに居るのだ。
今回、全てを失ったのも、決して運が悪かったのではなくて、解決されない自分の心の問題だと、私は知っていた。なるべくして、私は今この状態にいる。
私は、ニポポを見た。
私は、ピアノの上にあるニポポを、小さな頃の自分だと思うことにした。なんとなく、そうしたかった。
ピアノ椅子に座り、ニポポを手に取って、小さな頭を指で撫でた。
幸福をもたらしてくれるニポポ。でも、この子が、あの日の小さな私なら、私はこの子に何をしてあげればいいんだろう。
そんなことを日々考えていた。
散々、私は自分の人生から逃げてきた。傷つくのが怖くて、逃げて逃げて逃げてきたのに、結局なりたくない想像のまま今日まできた。
だけど、もう逃げれない。
私が幸せじゃないのは、私のせいだった。
自分を幸せにするのは、いつだって自分だった。こんな巷で何十年も言われ続けてることが、小さな木彫りの人形に宿した過去の自分を見たときに、初めて理解した。
自分を大切にする方法はまだよくわからない。愛するとかもよくわからないし、ダメな方の自己愛は強そうな気がする。
だけど、とりあえず、私は、このニポポを大切にする。
幸福を呼ぶニポポより先に、私が幸福を運ぶのだ。
緊張が解き、じんわりと体が温まる。夜を迎えることを認めた私の身体は、これからの自分を生きるための準備をし始めていた。
君に会いたくて
会いたい人いたかな、と考えていたら、
はるか昔のことを思い出した。
強烈に残る記憶の一つに、
幼稚園の夏のお祭りで出会った女の子のことを思い出す。
名前もどこの誰で何歳だったかも知らない。
出会ったのは、お寺の部屋の一部を装飾したトンネルが作られた場所だった。なぜお寺かというと、仏教系の幼稚園だったからだ。トンネルは入り口と出口が設けられていて、ダンボールで大きな簡易部屋を作っている感じだったと思う。正直そこはあまり覚えてないけど。
生意気で薄馬鹿だった私は、親の言う事を聞かなかった。見事に入口と出口を勘違いして、出てきた子と衝突し、頭を打って大泣きした。母親が呆れながら私を抱えていたら、私よりすこし背の高いすらっとした女の子が、どこからか現れて私の手を引いた。ショートヘアの、顔の小さい、ピンクの浴衣を着た女の子だった。
「いくよ」とだけ言って、強く私を引っ張った。
え!という母の声と、入り口に立つ大人を放って、私たちはトンネルに入った。
彼女は、少しも立ち止まらず、私の手を握って走っていた。きっとトンネルは、数秒の出来事だった。
だけど、私はさっきの衝突の痛みを忘れて、
キラキラした装飾が綺麗な星空の中にいるような感覚を、スローモーションのように見ていた。その光景は、今でも忘れられないほど胸と目に焼きついた。手を引く女の子の姿も、痛いくらい強く握った手の感覚も、忘れられなかった。そして、それがとても嬉しかったのを覚えている。
その後、女の子がどうだったか全く記憶にないけど、
母親が出口から出てきた私を見て安心していたのは覚えている。
あの衝突の後、悲しい気持ちを一瞬で振り切ってくれた、顔も名前もわからない彼女のことが私はとても好きで、忘れないように何度か思い出している。
2024.1.20 君に会いたくて
これは創作じゃなくて実話を書いてみました。
昔の記憶で飾られてる部分があるかもしれないけど….