――はらり、と解けていくのがわかった。それは靴紐のようにもう一度結ぼうと思えば結び直せたのかもしれない。けれど臆病な俺はそれが出来なかった。
「ねえ、雄一くん。」
横目でちらりと覗けば、神妙な顔をした沙織がこちらを見ている。なにか返事をしなければいけないとは思うが、君から放たれる次の言葉が怖くて聞こえないふりをした。
「雄一くんってば。」
次第にへの字に曲がっていく口を見てこのままではまずいと焦って返事をする。
「あぁ……すまない。少し考え事をしていて。」
沙織は納得いかない様子でへの字は更に大きく折り曲がった。
「それで、何だったっけ?」
これ以上はぐらかすのはまずいと、意を決してこちらから聞き返した。沙織は少しだけ機嫌が治ったのか、それとも諦められたのか、俺を真っ直ぐに見つめ直して口を開いた。
「……あのさ。私たち、もうおしまいにしよう。」
「…………。」
予想はできていたけど、言葉はすぐには出てこなかった。驚くほどたくさんの言葉や考えが頭の中を駆け巡っていくのに、今にふさわしい言葉が浮かばない。
別れを切り出された俺はなんて言えばいい?どんな感情であればいい?俺はまだ沙織のことが好きだが、沙織はもう同じ気持ちではないのか?俺と一緒にいるのは沙織にとって苦痛を伴うような時間になってしまっているのか?
……ぐるぐると思考だけが高速でから回って頭がありえないほど暑く熱を帯びているのを感じる。人の頭はこんなに熱くなるのか、なんてどこか他人事のように考え出す始末だ。
「俺じゃ、もう、ダメなのか……」
散々考えてやっと出た言葉は自分でも情けないほど弱々しく、独り言のように呟くのが限界だった。
「……うん。もう無理。」
「そうか……」
何を言っても沙織の心は変わらなそうだ。そもそも言葉なんて出てこないが。
いつから、どこから、気持ちがすれ違ってしまったのだろう。すれ違って、縺れて、絡まった紐は解けても元の形に戻ることはない。
「さよなら。」
沙織はそう言い残し、俺の元を去っていった。
「はあ……はあ…………」
じっとりと額を流れていく冷や汗。さっきまで見ていた悪夢が、まだ脳内に焼き付いている。現実離れした内容なのに、現実に起きそうな嫌な感覚がまとわりついてぼくを離さない。
一体どうしてだろう。最近見る夢はどれも現実離れした悪夢ばかりだ。ある日は得体の知れない怪獣のようなものに追いかけられてみたり、またある日は拷問されている人を眺めていたり。それはもう気持ちが悪くて、また寝ようなどという気持ちが全く湧いてこない。何度寝たとて悪夢を見て飛び起きそうな、嫌な予感がぼくをしっかりと捉えて「寝るな」と警告しているみたいだ。
確かにぼくは生まれつき運が悪い。何をしても裏目に出るし、何も起きずに外出を終えられたこともない。だからといって睡眠まで奪われてしまえばその先に待っているのは【死】のみだ。それだけは避けたい。
「ふぅー……」
やっと乱れていた呼吸が落ち着いてきた。カラカラに渇いた喉を潤そうと、スマホの灯りを頼りにキッチンに向かった。コップを手に取り水を入れようと蛇口を捻るも、水が出ない。今日は30度を超えた熱帯夜だ、水が凍っているはずなどない。かといって水道の水が自然の熱で蒸発するはずもない。こんなことがたまにあるのだ。
やはりぼくは運が悪い。
諦めて冷蔵庫の牛乳を取り出すことにした。少しずつコップを満たしていく、ほんのりと甘い香りを放つ白い液体。一気に飲み干せば口いっぱいに香りより強い甘みが押し寄せて身体中に染み渡っていく。潤った喉に満足してベッドに戻ろうと思った時、ふと窓の外が目に入った。
「……綺麗。」
いつもは気にも留めなかった窓の外。そこには無数の星々が煌めいていた。一階だからか他の家に阻まれてあまり見えないけど、それでも物凄く綺麗だ。
なんだか無性に嬉しくなって気がつけば数時間見とれていたらしい。真っ暗だった空はいつの間にか白みがかっていた。今日も仕事があることなんて気にもならないくらいゆっくりとした時間を過ごせたのは、認めたくないけど悪夢のおかげだ。ぼくの運の悪さも少しは役に立つ日があるんだ。
少しだけ、ぼくは自分を好きになれた気がした。
お題【暗がりの中で】
君は今、何をしてるんだろう。
料理?読書?あるいは散歩だろうか?
……なんて、もうとっくに君はいないのに考えてしまう。まだ、実はひっそり生きててほしいと願ってしまう。
こんな未練だらけの俺を見たら、君はきっと笑うだろう。
お題:君は今
お題:三日月
幼い頃から隣に住んでるふたつ上のお兄ちゃん。誰にでも優しくて、勉強もできて、背も高い。誰からも好かれる、私とは対極にいる人。
だけど本当はお兄ちゃんは運動が苦手で、生活スキルが皆無で、そして鈍感なのを、私だけが知っている。
そんなお兄ちゃんに私は、恋をしている。物心が着いた時にはもう好きだった。でもその気持ちにお兄ちゃんが気付いてくれることは、ない。
お兄ちゃんはずっと、私を可愛い妹だと思ってるから。現に私がいくら好きって言ったってお兄ちゃんは『兄弟のような存在として』好きだと解釈されて相手にしてもらえない。
きっとこれから先もずっとお兄ちゃんとの関係は変わらないんだろうな。そんなことを思って見上げた月は私の心を表すかのように欠けていた。
――今日も、私は三日月だ。
陰から見ているだけでよかった。
たまに言葉を交わすだけでよかった。
連絡が取れるだけでよかった。
仲良くしてもらえるだけでよかった。
一緒にいられるだけでよかった。
君の笑顔を見られていればそれでよかった。
……はずなのに。
もうすぐ虹の橋を渡っていく君と、
もっとくだらないことで笑い合いたいと思ってしまった。
もっと色んな景色を見たいと思ってしまった。
もっとずっと過ごしていきたいと思ってしまった。
もっともっと、君が望まない延命治療を施してでもおじいちゃんおばあちゃんになるまで一緒に過ごしていきたいと願ってしまった。
でも、それを願うことすらもう、難しいのだといつもに増して弱々しい君の鼓動がいっている。
だから、さよならの前に言うね。
『今まで一緒にいてくれてありがとう。君と出会えてからずっとずっと幸せだったよ。だから、ゆっくり休んで。』