「この前貸したあの小説読んだ?」
休日のガヤガヤとうるさい昼下がりのフードコートに少しハスキーなよく通る声が響く。
「読んだけど……」
「感想は?」
「あの……あれだ。最後、ハルが世界に色が戻ったみたいっていうところ、よかった。感動した。」
「だよね〜〜。あなたがいない世界は色褪せて見えるってハルが言ってるシーンあるから際立つよね〜。」
ハスキーな声の女が、シェイクのストローを弄びながら、ポテトを口に運ぶ。
「なんかありきたりなセリフとシチュエーションだったけど、面白かったよ。」
「でしょ?あの作家さん、そういうのが得意な人なんだよね。」
おれが言ったことがお気に召したのか、食べていいよ、というように自分の分のポテトの容器を俺の方に向けて女は喋り続ける。
「でさ、」
おれが食べようとすると女はポテトを自分の方に引き、まるで話を聞け、というふうに爪で机をこつ、とつつく。
「私はね、〝あなた〟がいない色褪せた世界の色じゃなくて、〝あなた〟がいる色鮮やかな世界の色が好きだよ。」
「……おれにあの小説貸したの、それ言いたかったから?」
「……さぁね。」
好きな色
相合傘
「ごめん……傘、持ってなくて濡れちゃって…..」
雨に降られてびしょびしょになった私があなた越しに待ち合わせ場所のショーウィンドウにうつる。
街の風景に透けて、何だか幽霊みたいな私は不恰好な笑みを浮かべて濡れ鼠みたいになってて、すごく見窄らしかった。
今日は、あなたとの初デート。
気合を入れて、新しく買った青みがかったグレーのシャツワンピースは家を出る時はおしゃれで素敵に見えたのに、今は〝濡れ鼠〟っていう名前が似合う要素の一つになってしまっている。
あなたは少し戸惑ったようにこっちを見て、動かなかった。
あぁ、やっぱりこんなんじゃデートどころじゃないよな、こんな不恰好な人と、隣歩きたくないよな。
「ごめ……今日、もう帰る…ね…」
すごく恥ずかしい。初デートでこんな恥を晒して、こんな、こんな……
「走ろ!!」
「え」
あなたに手を引かれて、ショーウィンドウの雨除けから飛び出す。
鮮明に、明確に、あなたが、あなたによく似合う濡れ羽いろの綺麗な髪が濡れていくのがわかる。
なんで、そんなことしたらあなたまで濡れ鼠になってしまう。
あなたまで好奇な目を向けられる対象になってしまう。
「お揃い…!!」
あなたがほぅっと息を吐きながら、呟くように、この街の雨に濡れてしまった空気を溶かすように小さく私にささやく。
あなたのしっとりした温かい手のひらと私の手首の間に冷たい雨が染み込んで、私とあなたが一つになっていくような感覚に落ちる。
にこにこと雨の日にとてつもなく似合わない、あったかい、ひだまりのような笑みを浮かべるあなたに釣られて私も微笑む。
あなたがキラキラして見えた。
もうすっかり取れてしまった、鼻の低さを隠すメイクとか、額に、頬に張り付いた髪とかどうでもよくなって、そのまま笑うとどんなに不細工かってことも忘れて二人で笑いながら雨の中を駆け抜けた。
「走る?」
「いや、折りたたみ傘持ってきてるから。」
「……相合傘になるじゃん。」
「…そうだね。」
幽霊みたいな私を映すあの日のショーウィンドウみたいなガラス越しにであなたが傘を広げる。
その綺麗な姿が、びしょ濡れだったあの時よりずっと汚く見えて、嫌だった。
あの日のことを忘れてしまったのかな。
…私を忘れてしまったのかな。
……こんな嫌な相合傘、この先ずっとないだろうなぁ、そう思いながらあの日よりずっと綺麗であの日より私に目を向けてくれなくなったあなたの傘に入る。
二人とも濡れない傘を差し出すんじゃなく、一濡れてしまう、一緒に濡れてくれる手段を選ぶあなたが好きだったよ。
あいまいな空
夏が霞んだみたいなあいまいな空を見た。
時刻は21時52分で、8月の真ん中で、蝉の声がうるさかった。
強く握りしめた拳が少し痛い。
制服のネクタイがいつもよりきつく感じて、首が縛り付けられているような感じがする。
いつも通りの赤いチェックの入ったスカート、少しくたびれたワイシャツ、スカートと同じ柄のネクタイ。
どこもかしこもいつも通りなのにうまく動けなかった。
夏祭りですくった金魚の入った夏を閉じ込めたみたいな爽やかな水槽からエアストーンがちゃぽんと音を立てて空気を吐き出す。
あなたから奢ってもらった握りしめすぎて少しへこんでしまった缶コーヒーがごとんと音を立ててフローリングに落ちる。
夏の湿気がこの空気感を逃すつもりもないっていうみたいに私にまとわりついて、離れなかった。
冷房が静かに角度を変える機械音、弱い春雷の日に似た低い換気扇の音、微かな夏の残響の中で私はただ泣いている。
あいまいな空を見てる。
こうしていると改めて思う、空って綺麗だ。
今日、初めてあなたと夜遊びと言っても差し支えないほどの時間まで遊……ぼうとしてた。
そんな時間まで遊べなかったのは、私があなたに言った、ぽろっと口から出てしまった『好き』っていう二文字にあるんだろう。
自動販売機の前だった。
私に間違えてボタンを押して買ってまった忌まわしき缶コーヒーを押し付けて、あなたが他の飲み物を選んでいる時に、夜みたいで、でも夕方のみたいな、夏の終わりかけのまだ少し明るい時間帯のオレンジのような、青のようなそんな夕日に照らされるあなたがとても綺麗で、つい、口から出てしまった。
その言葉に明らかに悪いほうに動揺するあなたを見て、言っちゃダメだったなって思った。
だから、逃げた。
走って走って走って、家にたどり着いた時、玄関を開けた時、一人暮らしでよかったって思いながら、失恋を、さっきの夕暮れみたいな夜を吐き出した。
そして、もうすっかり夜になってしまった、でも少し夕暮れを帯びている空を見て、もう一度、涙がこぼれてしまった。
あなたが好きだっていってた夏祭りのいちご飴のような甘さを含み、でも少し酸っぱい感じのする空は私の涙で覆われてしまっていた。
涙で掠れてしまった空だった。
〈街〉
潮とガソリンと煙とほんの少しの花の匂い。
この海辺の街からするのはいつもそんな匂いだ。
母親のすすめで自分の家から離れて母方のおばあちゃんの家に帰省する事になって、この街に来てからかれこれ3ヶ月くらいが経つんじゃないだろうか。
ここは学校とは違ってのどかで人間関係とかもあんま気にしなくていい所だ。
なんせ僕ぐらい、中学2年生ぐらいの年代の人が少ないから、何を話しても珍しい、面白い話題になるからだ。
何故、海辺の街で3ヶ月も過ごしているかって?
…人と話したあと、疲れたなーとかって感じることってあるだろ?なかったら想像してみて欲しいんだが。
僕が普通の人よりそれを感じやすくて、心のキャパシティが少なかっただけだ。
少し疲れすぎたなっていうのを母に話したらあれよあれよとここに連れてこられたってだけだ。
当初は僕の家との距離が遠すぎてあまりこれていなかったせいで母方のおばあちゃんとの付き合い方があまりわからなかったけど、今となっては家族、っていうよりは友達みたいに仲良くできてる。
「行ってきます。お昼ご飯までには帰るから。」
ぎぃ、と潮風で少し錆びついたドアの音を朝の静かな玄関に響かせ、家を出る。
そして、お気に入りの堤防で冷蔵庫からくすねてきたサンドイッチを頬張る。
遅めの朝ごはんだ。
カモメが空を舞い、僕の足元からは細波が鈴のように音を立て、空は淡い水色に光っている。
僕はそんな薄いターコイズブルーの空を睨みながら、学校にいる奴らは二学期の中間テストに追われている頃だろうと思い、心の中でほくそ笑む。
ここは学校を休んでる時の家の中とは違って、学校のチャイムも聞こえないし、一人で孤独を味わうこともないし、僕ぐらいの子供が歩いていても漁師のおじさんとかがたまに好奇な目を向けて来るだけで、買い物帰りとかであろうおばちゃんとか、ちょっとした路地でタバコを吸っている30代後半の人たちの集まりとかはちゃんと挨拶してくれるし、何なら世間話もしてくれる。
世間話ってのはやれここの路地で三毛猫を見かけたとか、やれあんたのとこの爺さん婆さんは元気かとか、そんなものだ。
同級生と話すこととは違うベクトルの話題が少し楽しかったりする。
僕はこの街のテストの心配とか、明日も学校行けないのかなとか不安をぶっ飛ばしてくれるような大きな船の汽笛が好きだ。
それにたまに漁師釣れたての魚を刺身にして猫にあげているところに通りかかると「坊主もあげてみっか?」って笑いながら聞いてくれるおっちゃんが好きだ。
そのおっちゃんのおかげで将来、漁師やってもいいかもなって思えた。
この街の花独特の甘ったるくてでも少し酸っぱいような、例えるなら初恋の匂いだろうか、そんな匂いが鼻を掠める。
「ずっとこのままがいいな………。
…………戻りたくねぇ……。」
ため息を吐くような僕の声がカモメの鳴き声と共に空に響く。
食べかけのサンドイッチを片手に僕は海を眺める。
……多分この先もずっと。
朝日の温もり
朝特有の少しモヤが浮かんだような澄み切ったような独特の空気と布団を剥がされた事による寒さで目を覚ました。
寒さで意識が冴えていく中、結構近くに昨晩まで隣の布団にいたはずの異性の友達の顔が目に入る。
ここで重要なのは〝異性〟の友達という事だ。
まぁ、こいつは女っ気なんてどこかにおいてきたってくらい男勝りな女だか、体つき、こえ、顔つきは女そのものだ。
こいつとは男女の友情とやらを築けるかなと思っていた自分の心が揺らいだのを感じて少しおれヤバいななんて思いつつ隣の布団も枕も置いてけぼりにして主人が出ていった布団に潜り込む。
女特有の花のような清潔感のある匂いがして、あ、これヤバいって反射的に脳で理解して布団を抜け出す。
どくん、と胸の奥の方から音がする。
自分の周りに甘ったるい、でもどこか柑橘系の酸っぱさを含んだ空気が流れ出したのを悟って、その空気を吹っ飛ばすように大きなため息をつく。
朝日に照らされた、異性の友達の顔。
寝癖でボサボサの髪にだらしなく開けられた涎を垂らす口。
お世辞とも綺麗とも可愛いとも言えないその表情がなんか輝いて見えた。
なんかベリーショートって言われるくらい短い髪も、全然長くない短いまつ毛も、涎でカピカピになってるいつもはぷるんとした唇も愛おしく思えてきて、これダメなやつだな、手遅れだなって火照った顔を手で隠す。
どくんどくんと聞いたこともないくらい大きく音を立てる心臓に呆れながら胸が締め付けられるような苦しいような甘酸っぱいような背筋をスッとかける違和感とかがなぜか心地よくてこれ、恋かなって思った。
朝日の温もりとほんの少しの恋情で火照った頬を手の甲で冷やしながらだらしない寝顔を見つめる。
「……不細工だな…。」
これ、やっぱり恋かな。
火照った頬はあいつが起きるまでそのままだった。