「他に好きな人ができたんだ。別れよう」
ついにこの日が来てしまった。私はこの提案を受け入れるしかない。分かった、と頷いた。いつかこんな日が来ると思っていたという諦念、こんな日々も終わりだという安堵、これで良いのかという疑問、彼への未練、その他諸々の渦巻いた感情が溢れそうで、思わず俯いた。
*
その知らせが届いたのは突然だった。
「恋人の沙月さんのお電話でお間違いありませんか」
「はい、そうですが……?」
恋人からの電話に少し浮かれながら出ると、知らない人の声が耳に入った。
「郁人さんが事故で……」
「えっ」
必要最低限のものをかばんに詰め込んで、家を飛び出す。恋人の郁人が事故に遭ったというのだ。まるで心臓を掴まれたように痛くて、呼吸が乱れ冷や汗が流れる。大丈夫だ、と何の根拠もない言葉を自分に繰り返し唱え、郁人が運ばれたという病院へ向かった。
「郁人! 大丈夫!?」
息を切らしながら病室へ駆け込むと、きょとんとした恋人が私を見つめた。
「ええと、どちらさまでしょうか」
「え……?」
恋人から発せられた言葉が信じられずに聞き返す。ベッドの側に立っている医者が痛ましそうな顔で私を見た。
「残念ながら、郁人さんは……」
郁人は記憶喪失になっていた。幸い身体はそこまで酷い怪我を負っていなかったが、頭を強く打ったらしい。頭に包帯を巻いた彼は、不安そうに私を見つめていた。彼は両親と絶縁しており、孤独の身だ。友人もいるが、恋人である私が世話をしなければ、他に頼れる人がいない。私は覚悟を決めた。もしかしたら、そのうち記憶を思い出して、また昔のように戻れるかもしれない。
郁人が入院している間は問題がなかった。
「沙月さん、いつもありがとう」
「……どういたしまして」
沙月「さん」という呼び名に、少し距離を感じて寂しくなった。でも、これから関係を戻していけばいいのだ。また昔のように「沙月」と呼んでもらえるように頑張ろう。
郁人が退院した後はまた一緒に暮らし始めた。元々は結婚を前提に同棲していたのだ。入院中は郁人に会うために病院に通っていたが、これからは郁人と一緒にいられるようになると思うと嬉しい。でも、それが間違いだったかもしれない。
郁人はアニマル映画が好きだった。特に犬が好きで、一緒に見て可愛いねと笑い合っていた。だから犬が出る映画を見ようと再生しても、彼はつまらなそうに画面を見ていた。
映画を見終わった後、つぎはこれが見たいと示したのはアクション映画。私はアクション映画も嫌いではないので一緒に見ていた。が、ふと見た彼の表情に驚いた。
記憶を失う前の彼はビビリだったので、アクション映画で主人公がピンチに陥るたびに「ヒィ」と情けない声を出してそわそわとしていた。しかし今横にいる彼は、身体を前のめりにして目を夢中になって映画を見ていた。目の前にいる彼と私の記憶の中にいる彼があまりにも違いすぎて、目の前の彼から目を背けてしまった。
他にも緑茶好きだった彼が毎日コーヒーを飲み、趣味だった写真に目もくれず、絵を描き始めた。味の好みも変わってしまったようで、夕飯を作っても「おいしい」と言ってくれなくなった。
彼がもう別人であるという現実を少しずつ突きつけられていくような感覚だった。それでも「沙月」と笑って私を呼ぶ彼に、私は過去の彼を重ねて希望を捨てられなかった。
「他に好きな人ができたんだ。別れよう」
そう言われるのも、時間の問題だったのだ。今の彼はもう別人である。最初に見た人間だったから、記憶を失う前に恋人だったと私が言っているから一緒にいただけで、彼から私への好意は無かったのだろう。別の人を好きになったとしても、おかしくなかった。
私は頷き、俯く。もうこれ以上、郁人が変わってしまった現実を見なくて良いんだ。彼が俯いた私を心配そうに覗くので顔を上げると、頬を掻きながらあさっての方向に視線を向けた。その仕草にハッとする。記憶を失う前の郁人も同じ仕草をしていた。これは嘘をつくときの郁人の癖だ。
私は気付いてしまった。もしかしたら彼に好きな人なんていないのかもしれない。退院してから私とずっと一緒にいたのだから、他の人と会うなんて時間はなかったはずだ。
私のためなのだろう。過去の彼と今の彼を比べてしまう私のため、勝手に比べては「もう知っている彼ではないのだ」と眉を下げてしまう私のためだ。
今更知りたくなかった。あなたは記憶を失っても、前と変わらない優しさを持っているなんて。
「うん、そうだね。別れよう」
私の恋は、あの事故で“彼”とともにとっくに死んでいた。頬に伝った温かさがその証拠だった。
『愛−恋=?』
いつまでも“俺”に縛り付けるわけにはいかないから
何の変哲もない思い出話は
小学校低学年の頃、遠足で梨狩りに行ったことがあった。梨の木の果樹園に入り、木に実っている梨を自由に取るというものだ。1人3個までと先生に言われ、前の子に続いて中に入ると、視界の先まで梨の木が広がっていた。その木に梨の袋が点々とぶら下がっている。私は広がる枝を見上げ、気付いた。梨の位置が高すぎる。もしかして、梨まで手が届かないのでは?
「もし届かなかったら先生を呼んでね」という先生の言葉が遠くで聞こえた。
一緒に梨取ろうね~と言っていた友達とは早々にはぐれた。私がどの梨と取ろうかと上をガン見しながら歩いていたため、友達がいつの間にかいなくなっていることに気付かなかった。上を見ながらしばらく歩いた後、どれにする?と振り返ったら誰もいなかったのだ。まあ後で合流すればいいかと、梨に視線を戻す。特に梨が好きなわけではない。むしろ若干苦手だったが、どうせ取るなら大きいものを取って家族にあげれば喜ぶし、褒めてくれるだろうという小学生の単純な動機だった。
ふと、1つの梨の袋が目に入る。他の梨よりも大きい。なんかずっしりしている。気がする。たぶんいいやつだ!
そう思った私は、意気揚々と手を上げて梨を取ろうとした。が、届かない。つま先立ちをしてみた。しかし届かない。ジャンプしてみた。ギリッギリ指先が紙についた。が、掴むまでには至らない。もう一度ジャンプしてみた。さっきよりも紙を触る面積が増えたが、ギリギリ指先しかつかないのは変わらない。
誰かに協力してもらって取ろうとあたりを見渡すが、何故か1人も見当たらなかった。さっき友達を置いてきたからだ。少し後悔した。どうしようと1人で悩む。私が誰かを探しに行ったら、たぶんこの梨の元には戻ってこれなくなるだろう。見渡す限り梨の木、似たようなたくさんの木の中から再び特定するなんて無理だ。そうだ、助走をつければ高く飛んで、梨を掴めるかもしれない。少し離れて助走をつけてジャンプしてみた。ただ梨に指でハイタッチをして、地面に着地しただけだった。手のひらがつかないことには梨を掴めない。
遠くから「とれた!」という言葉が聞こえた。え、こんなに高いのにどうやってと耳を澄ませると、どうやら果樹園の外は果樹園の中より地面が高く崖の行き止まりになっており、ゆるやかに地面が盛り上がっているところがあるようだ。崖は登れないが、盛り上がっている地面は上ることができるので、梨に近づけるのだ。
私もそっちに取りに行こうか。しかしここまで頑張ったし、私が見つけた梨のほうが絶対に美味しいという謎の自身があった。梨が苦手の癖に。ということで、ジャンプを再開したのだった。
最終的に、何度もジャンプをしている私を見た先生が、梨を取ってくれた。ずっと目指していた梨は手に入れたが、なんだかやるせ無い気持ちになった。自分で取りたかったな。梨狩りから時間が経ってもまだ1つしか取れていなかった私を憐れんだ先生が、残り2つも取ってくれて無事に家に持って帰った。何となく取れた梨については何も言わずに母に渡したが、大きい梨が取れたねと褒めてくれたような記憶がある。
母に向いてもらった梨は何故かとても美味しく感じ、苦手だったのが嘘かのようにぱくぱくと食べていた。
私はあれ以来梨狩りに行っていない。もう私は大人になった。あの頃手が届かなかった梨に簡単に手が届くだろう。それに、あの頃と違って「諦める」を手段として知ってしまった。だからこそ梨を見るたびに、意地になって梨を取ろうと頑張ったあの出来事を思い出すのかもしれない。
「梨」
また梨狩り行きたいな〜 っていう話です
まだ少し肌寒さが残る春の朝。青年が1人、村の小道を歩いていた。青年にとっては何度も通った見知った道である。一面の畑や草原、どこからか聞こえてくる家畜の鳴き声。穏やかな日常の風景だ。少し歩いていると、知り合いの男性に声をかけられた。
「よお、アレン。今日も散歩かい?」
「おはよう、おじさん。いつものところに行こうと思って。そういえば昨日は風が強かったけど、大丈夫だった?」
「ああ、うちはなんともなかったよ。昨日は1日風が強かったからなあ。ありゃ春一番かもな。これから暖かくなるぞ」
「そうだといいけど。寒いのは苦手なんだ」
「はは、若者が何言ってるんだ。おじさんが若いころは寒い中でも遊びまわってたもんだよ」
「俺は暖かいのが好きなの! それじゃあまたね、おじさん」
「おう、気を付けていけよ」
「はーい」
アレンと呼ばれたその青年は、男性の元を後にして、村の外れにある丘へと向かった。
小さい村の気の知れた住人に、見慣れた風景はとても心地よい。しかしその生活にどこか退屈さを感じていた。村の外に出てみたい。そんな欲求は膨れ上がるばかりだが、この居心地のよい村を気に入っているのも確かだ。
村外れの丘に着くと、アレンは近くの切り株へ腰かけた。小高い丘のため、障害物もなく村の外の景色がよく見えるのだ。村の外には森や草原が広がり、その間をあまり広くない道がひっそりと通っている。村の外に行くにはこの道を通るしかないが、村の人々は外へ出ていかないし、外から来る人も滅多にいないため、草原の草に侵食されかけている。その風景を見ながら、アレンはため息をついた。
今から十数年前、アレンがまだ小さい頃、珍しく1人の旅人が道に迷ってこの村へと辿り着いた。その旅人は路銀や物資が底をついていたため、この村で物資の補充をするために短期間留まり、仕事を引き受けていた。子供だったアレンは、その旅人から外の世界を教えてもらった。それがこの丘だった。その旅人から、ドラゴンが棲む山脈や水没した滅びた文明の廃墟、他の町の様子など、村では聞けない様々な話を聞かせてくれた。小高い丘からある方向を指差しながら自分の経験を語る旅人に、幼いアレンは夢中になって話を聞いていた。村を出ていく旅人の背中を見送りながら、自分も成人したら村を出て旅人になり、世界を見て回るのだと心に決めるほどに。
そして明日、アレンは成人する。この世界では4月1日になれば一定の年齢を迎えた人間は、成人とみなされ、親の庇護から離れるのだ。あんなにも世界を見るんだと心に決めたはずなのに、いざとなって迷ってしまっている自分がいる。この居心地の良い故郷を出るのが不安なのだ。ぼーっと見えない外の世界を眺めていると、背後からガサリと草を踏む音がした。
「ねえ君、何か迷っているみたいだね?」
「っ!?」
振り返ると、1人の少女が立っていた。小さな村だから住人はみな顔見知りだが、この少女は見覚えがない。外から来た迷子だろうか。困惑しながらその少女になんて声をかけようか迷っていると、少女はアレンの顔を覗き込んだ。
「ねえ、行かないの? この丘の向こう」
少女の瞳は、しっかりとアレンの瞳を見つめていた。今の悩みを見透かされているようで居心地が悪くなり、アレンは少女の瞳から逃げるようにそっぽを向いた。
「行きたい、んだけど……」
「だけど? 何か怖いことがあるの?」
少女の言葉にアレンは少し考える。旅に出ることに不安はない。というより、多少のリスクがあることは承知の上だ。本当に怖いものがあるとすれば……。
「この村を出たら、自分の居場所が無くなってしまうような気がして」
「ふうん?」
言葉にするとしっくりと心に沈んだ。漠然とした旅立ちへの不安が形になっていく。この居心地のいい村での自分の居場所がなくなることが怖かったのだ。
「今まで築いた君の足跡は消えない。君の帰る場所は間違いなくここだよ」
「でも」
「でもじゃない! ほらほら、ちょっと村の外まで散歩してみようよ!」
「え、ちょっと」
少女に腕を取られ、強引にグイグイと引っ張られる。あっという間に村と外の境界まで来てしまった。そこでピタリと止まる。今までも村の外に全く行ったことがないわけではない。しかし今は、この境界を越えるのが無性に怖かった。
「もー! 何でそこで止まっちゃうの!」
少女が頬を膨らませる。
「ほらほら、もう一歩だよ」
少女の言葉に合わせて、後ろからびゅうと強い風が吹いた。
「うわっ!」
強風に背中を押されてよろけたアレンは、一歩境界を踏み出した。境界を超えても、何もない。ただ前に道があり、後ろにはただ村があるだけだ。
「ね、帰る場所は変わらずに後ろから見守ってくれるよ。でも前の景色は、一歩踏み出さないと変えることはできないんだよ」
少女の言ってることは分からないが、何を言いたいのかはよく分かる。
「……そうだね、行くよ。やっぱり僕は色々な世界を見てみたい」
「ふふ、やっと決めてくれたね」
「君のおかげだよ。ありがとう」
「どういたしまして!」
じゃあまたね、と言って少女は村の外へと軽やかに歩いていった。やっぱり村の外から来た迷子だったのかもしれないとアレンが少女に声を掛けようとした瞬間に突風が吹き、思わず目を瞑る。慌てて目を開けると、既に少女の姿は無かった。
*
「じゃあ行ってくるよ、母さん」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
「いつでも帰ってきていいんだぞ」
「ありがとう、父さん」
あの後、いくら探しても少女の姿は無かったため、きっと彼女を待つ人たちの元へと帰ったのだろうと思うことにした。そうして帰宅し、家族へ旅立ちの話をすると、やっと言ったかと呆れたように笑って準備してくれていた旅道具を渡してくれた。幼い頃ならともかく、ある程度成長した後は旅へ出る話なんてしていなかったのに、余程顔に出ていたようだ。
家族と別れを済ませた後、最後にもう一度だけとあの丘に向かった。眺めていただけの景色にこれから自分も向かうのだと思うと鼓動が高鳴った。それもあの少女が背中を押してくれたおかげだ。
「そういえば、そんな御伽話があったな」
春になると、新しく旅立つ若者の背中を押す春風の妖精の御伽話。春風の妖精は、可憐な少女の姿をしているとか。
「いやいや、そんなまさかね」
自分らしくないロマンチックな想像に笑っていると、あの時の強い風がびゅうと吹いた。
「春風とともに」
今年度も今日で最後ですね。
明日から新天地へ向かう方は頑張ってくださいね!
特に何も変わらない方も頑張ってくださいね!
夜も更けた頃、ふと目が覚めてしまった。暗闇の中近くの時計を見ると、短針が「2」を指していた。なんだ、まだ寝てからそんなに経っていないじゃないか。明日も学校なのだから、さっさと寝直そう。そう思いながら寝返りを打つと、カーテンの隙間から覗く2つの点と目が合った。まるで目のような配置、じっとこちらを見ている、と気付いた瞬間、俺は反射的に声をあげようとした。
「っぎゃ」
「ストップ! 僕が悪かったから大声を出さないで!」
俺が上げようとした声よりも大きな声で悲鳴を遮ったソレは、あっけにとられている俺を余所に、窓の隙間からにゅるんと室内へ入ってきた。まるで子供がシーツを被ったような、エジプト神話に出てきそうなシルエットの謎の生物だ。しかしシーツとは似ても似つかないほど真っ黒で、なんかモヤみたいなものが漂っている。そんな真っ黒の中、まんまるい目だけが光を放っていた。なんだこれ。俺は寝ぼけているのだろうか思い、目を擦ってみた。全然消えないソレは、俺の前までトコトコと歩いてくると、ニコッと笑った。(ように見えたが、何も変わらず丸い目だけが光っていた)
「初めまして、僕はテク。君は人間さんだよね?」
「あ、ああ、そうだけど」
「わあ、僕、初めて人間さんと話したよ!」
「え、あ、そうなんだ」
ご機嫌に話すテクと名乗った黒いやつは、俺を無視して話しだした。動揺しすぎて普通に返事をしてしまった。表情は分からないが、俺から返事をもらって嬉しそうだということは何故か分かった。ウキウキと話す黒いやつに返答するたび、俺も気持ちが落ち着いて打ち解けていった。そんな中、黒いやつは名案を思いついたというように俺に提案をしてきた。
「そうだ、人間さんも一緒にナイトマーケットに行こうよ!」
「ナイトマーケット?」
「そう、今日は1ヶ月に1回、お化けたちが集まるナイトマーケットの日なんだよ。僕はそこに行く途中だったんだ」
「へえ、何も分からん」
要領を得ないこいつの話をまとめると、こういうことだ。人間が寝静まると、昼間は姿を消しているお化けたちが活動をし始める。人間社会と入れ替わるようにお化けの時間が始まるらしい。そして今日は、お化けたちが集まって祭りを開催する日なのだそうだ。地元のお祭りのような感じだろうか。そんなものを1ヶ月に1回も開催するなんて、お化けの社会はなんとも気楽なものらしい。人間社会も見習ってほしいものだ。
俺は考えた。今日初めて知ったお化けという存在を見てみたいし、そんなやつらの生活も見てみたい。このテクとかいうお化けも悪いやつには見えないし、危険はなさそうだ。しかし明日は学校――いや、好奇心には勝てない。
「それ、俺も行ってみたいな。人間も参加していいなら」
「大歓迎だよ! じゃあ、早速出発しよう。テレポートでね!」
「テレポートとかあんの!?」
カッと目の前が光ったかと思うと、目の前には賑やかな景色が広がっていた。色とりどりの飾りに様々な屋台。地元の祭りよいうより、海外の祭りといわれて想像しそうな光景だ。違うところがあるとしたら、それを楽しんでいるのが全員人外というところだけだ。本当にこんなところがあったのか。まだ目の前に広がる風景を信じ切れなかった。
「す、すげえ……この世界には知らないことがこんなにあるんだな」
「お祭り初めてなの? 初めての人間さんもすっごく楽しめると思うよ! 早くいこうよ!」
「別に祭り自体は初めてじゃないんだけど……っておい! 置いてくなよ!」
ぴょんぴょんと跳ねていくテクを追いかける。周りのお化けたちは、人間の俺が珍しいのか、少し驚いたような表情やリアクションをしていた。しかし俺も驚いている。お化けと言ってもたくさんの種類がいるのだ。人間の一部が変化しているだけのお化け、人形のようなお化けに、ほぼ木のお化け、俺が知っている生物のどれにも似ていないお化け。一番驚いたのは、人間の足に足が生えたお化けが数体、楽しそうに走って行ったことだ。どういうことだよ。夢に出そう。いやそもそもこれが夢かもしれない。
そんな中を、テクと俺は一緒に歩いて回った。人間と違うというだけあって、屋台の内容も独特だ。そのどれもが興味深く、つい周りを観察してしまう。まるで新聞を切って貼ったような看板に「修理屋」と掲げられている屋台には、二本足で立つ犬が大事そうに割れた皿を屋台の主人に渡していた。
「これ、ご主人の大切な皿なんです。でも、私が走ったときに棚にぶつかって割ってしまって」
「これくらいならすぐに直せるさ」
すぐに直せるといった屋台の主人が、割れた皿の破片を元の形と同じように並べると、その上に手を翳した。すると、みるみる皿の破片がくっついていき、1枚の皿になった。2本足で立つ犬は、喜んで手?前足?を叩いた。
「わあ、ありがとうございます! これでご主人も元気になってくれます!」
「いいってことよ。じゃあお代は諸々のサービス込みで……」
また別の屋台には、読めない文字が掲げられていた。アレはなんと読むのだろうか。絡まった糸のようなあの文字は、人間の世界にはない文字のような気がする。
「夢、夢はいかがですかー! 採れたてほやほやの悪夢、喉越し抜群ですよー!」
悪夢なのか、しかも夢に喉越しとかあるのか。しかもそれ、売り文句なのか。お化けとのカルチャーショックに打ちひしがれながら屋台を眺めていると、吸い寄せられるように1匹の獏が屋台へ寄って行った。
「その悪夢をひとつください」
「お買い上げありがとうございます!」
「ふう、助かった。最近の人間は睡眠時間が短いから、食べられる悪夢も少なくなっちゃって」
「うちも仕入れ自体が――……」
雑談を始めた獏と屋台の主人から視線を逸らし、テクの方へと目を向けた。テクも屋台の一箇所に釘付けになっている。そんなに熱心に何を見ているのかと覗き込んでみると、人間の雑貨が並んでいた。その中にふたつ、人間が使えそうなブレスレットが飾られ、テクはそのブレスレットに興味があるようだった。
「あ、人間さん! これキラキラしていて、とっても綺麗だね! 何に使うの?」
「これはブレスレットだよ。人間の腕に付けるんだ」
「へえ〜! つけてどうするの?」
「どうするって、周りに自分を綺麗に見せる、とかかな? 俺はよくわかんないんだけどさ」
「自分を飾りつけるってこと? 人間って面白いことをするんだね!」
お化けにはアクセサリーをつける感覚がないのか、それともお洒落への考え方が違うのか。お化けには色々な種類がいるようだし、人間のアクセサリーなんか見たことがない者もいるだろうな。
それにしても、テクはこのブレスレットを気に入ったらしく、商品の前から動かなかった。俺は屋台の主人に尋ねる。
「なあ、これっていくらなんだ?」
「このブレスレットかい? 50ウルだよ」
「……ウル?」
そんな通貨は持っていない。というか、そういえば円すらも持っていない。寝起きのパジャマのまま、何も持たずにテレポートしてきたのだから当たり前か。ベッドから起き上がった時に室内用スリッパを履いていなければ裸足だった。
「ねえねえ、僕がこれを人間さんにあげたら、つけてくれる?」
「ん? テクが欲しいんじゃないのか?」
「うん、今日の記念に、何かプレゼントしたいなって!」
「記念なら、2つ買って一緒につけるのはどうだい? 人間は仲のいい友達と同じ物をつけて、『おそろい』ってやつにするのが好きなんだろう?」
「おそろい……!?」
相変わらずテクの表情はわからないが、衝撃を受けたようだということは分かった。期待に満ちた(ように見える)瞳で、テクはこちらをみる。この主人、なんて商売上手なんだ。
「確かにおそろいにするやつらはいるし、おそろいにしようか」
「ほんと!? やったあ!」
「でも俺、金持ってきてないぞ」
「僕が2つ買うよ!!!!!」
毎度あり〜! と上機嫌な店主が机にブレスレットを置くと、テクはにゅるんと横から触手のような腕を伸ばして、ブレスレットを受け取った。
「お前腕あったの!?」
「いつもは仕舞ってるんだよ。これ、人間さんの分!」
にょろ……とブレスレットを差し出してきた触手……いや腕からブレスレットを受け取った。
と同時に、カーン、カーンと何処からか鐘の音が聞こえた。
「おっと、もう夜明けか! 店仕舞いだな」
「本当だ! 人間さんはもう帰らなきゃ!」
「は? どういうことだよ?」
賑やかだった祭りから、お化けたちが1体、また1体と姿を消していく。あれだけあった屋台も、最初から何もなかったかのように次から次へと消えていく。まるで夢から醒めようとする光景に、俺は周りを見渡した。
「夜が明けたら、人間さんの世界になるから。また会おうね!」
「ちょっと待、」
ここへ来た時と同じように、突然カッと目の前が光に飲み込まれて行った。
ふと、目が覚めた。先ほどまでの喧騒とは真逆の静けさに寂しさを覚える。……喧騒? 何を考えたのだろう、俺はさっきまで寝ていたというのに。俺の目覚めより一歩遅れて鳴り出した目覚ましを止め、部屋のカーテンをあけた。
半分顔を出した太陽の光が、いつの間にか付けていた見覚えのないブレスレットに反射していた。
『静かな夜明け』
目の前に境界線がある。境界線からこちら側には日が当たらない。境界線から向こう側は、煌々と太陽の恵みが降り注いでいる。手持ち無沙汰につっ立っている私は、その境界線をじっと見ている。視線を上げ、向こう側を楽しそうに歩く人々をぼーっと眺め、また境界線へと視線を戻した。
向こう側に憧れる者は多い。誰しも暗い場所より明るい場所の方がいいだろう。それは私もそうだ。しかし向こう側も、ただ良い場所だというわけではない。何せ暑い。陽の光を浴び続けるのがつらい。陽の光に耐えるためのケアがしんどい。向こう側の人もよくやるなあと常々感心する。
引き続き境界線を見ている。この境界線を越えれば、私も向こう側に行けるのかもしれないが、越えた後は向こうで耐えられるのだろうか。人には向き不向きがあるのではないか? この境界線を越えることは簡単だ。でも行かない、行けないのは、やっぱり向こうでやっていく自信がないからなんだ。
『日陰』
場所の相性もあると思うんだよね。
自分の人生や立ち位置は日向ではないが、マイナスな意味での「日陰」だとも思ってはいない。日陰だって涼しくて落ち着く良い場所だからね。結局は自分の考え方次第で世界の見え方が変わるんだよなあと思う日々です。