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 まだ少し肌寒さが残る春の朝。青年が1人、村の小道を歩いていた。青年にとっては何度も通った見知った道である。一面の畑や草原、どこからか聞こえてくる家畜の鳴き声。穏やかな日常の風景だ。少し歩いていると、知り合いの男性に声をかけられた。
「よお、アレン。今日も散歩かい?」
「おはよう、おじさん。いつものところに行こうと思って。そういえば昨日は風が強かったけど、大丈夫だった?」
「ああ、うちはなんともなかったよ。昨日は1日風が強かったからなあ。ありゃ春一番かもな。これから暖かくなるぞ」
「そうだといいけど。寒いのは苦手なんだ」
「はは、若者が何言ってるんだ。おじさんが若いころは寒い中でも遊びまわってたもんだよ」
「俺は暖かいのが好きなの! それじゃあまたね、おじさん」
「おう、気を付けていけよ」
「はーい」
 アレンと呼ばれたその青年は、男性の元を後にして、村の外れにある丘へと向かった。
 小さい村の気の知れた住人に、見慣れた風景はとても心地よい。しかしその生活にどこか退屈さを感じていた。村の外に出てみたい。そんな欲求は膨れ上がるばかりだが、この居心地のよい村を気に入っているのも確かだ。
 村外れの丘に着くと、アレンは近くの切り株へ腰かけた。小高い丘のため、障害物もなく村の外の景色がよく見えるのだ。村の外には森や草原が広がり、その間をあまり広くない道がひっそりと通っている。村の外に行くにはこの道を通るしかないが、村の人々は外へ出ていかないし、外から来る人も滅多にいないため、草原の草に侵食されかけている。その風景を見ながら、アレンはため息をついた。
 今から十数年前、アレンがまだ小さい頃、珍しく1人の旅人が道に迷ってこの村へと辿り着いた。その旅人は路銀や物資が底をついていたため、この村で物資の補充をするために短期間留まり、仕事を引き受けていた。子供だったアレンは、その旅人から外の世界を教えてもらった。それがこの丘だった。その旅人から、ドラゴンが棲む山脈や水没した滅びた文明の廃墟、他の町の様子など、村では聞けない様々な話を聞かせてくれた。小高い丘からある方向を指差しながら自分の経験を語る旅人に、幼いアレンは夢中になって話を聞いていた。村を出ていく旅人の背中を見送りながら、自分も成人したら村を出て旅人になり、世界を見て回るのだと心に決めるほどに。
 そして明日、アレンは成人する。この世界では4月1日になれば一定の年齢を迎えた人間は、成人とみなされ、親の庇護から離れるのだ。あんなにも世界を見るんだと心に決めたはずなのに、いざとなって迷ってしまっている自分がいる。この居心地の良い故郷を出るのが不安なのだ。ぼーっと見えない外の世界を眺めていると、背後からガサリと草を踏む音がした。
「ねえ君、何か迷っているみたいだね?」
「っ!?」
 振り返ると、1人の少女が立っていた。小さな村だから住人はみな顔見知りだが、この少女は見覚えがない。外から来た迷子だろうか。困惑しながらその少女になんて声をかけようか迷っていると、少女はアレンの顔を覗き込んだ。
「ねえ、行かないの? この丘の向こう」
 少女の瞳は、しっかりとアレンの瞳を見つめていた。今の悩みを見透かされているようで居心地が悪くなり、アレンは少女の瞳から逃げるようにそっぽを向いた。
「行きたい、んだけど……」
「だけど? 何か怖いことがあるの?」
 少女の言葉にアレンは少し考える。旅に出ることに不安はない。というより、多少のリスクがあることは承知の上だ。本当に怖いものがあるとすれば……。
「この村を出たら、自分の居場所が無くなってしまうような気がして」
「ふうん?」
 言葉にするとしっくりと心に沈んだ。漠然とした旅立ちへの不安が形になっていく。この居心地のいい村での自分の居場所がなくなることが怖かったのだ。
「今まで築いた君の足跡は消えない。君の帰る場所は間違いなくここだよ」
「でも」
「でもじゃない! ほらほら、ちょっと村の外まで散歩してみようよ!」
「え、ちょっと」
 少女に腕を取られ、強引にグイグイと引っ張られる。あっという間に村と外の境界まで来てしまった。そこでピタリと止まる。今までも村の外に全く行ったことがないわけではない。しかし今は、この境界を越えるのが無性に怖かった。
「もー! 何でそこで止まっちゃうの!」
 少女が頬を膨らませる。
「ほらほら、もう一歩だよ」
 少女の言葉に合わせて、後ろからびゅうと強い風が吹いた。
「うわっ!」
 強風に背中を押されてよろけたアレンは、一歩境界を踏み出した。境界を超えても、何もない。ただ前に道があり、後ろにはただ村があるだけだ。
「ね、帰る場所は変わらずに後ろから見守ってくれるよ。でも前の景色は、一歩踏み出さないと変えることはできないんだよ」
 少女の言ってることは分からないが、何を言いたいのかはよく分かる。
「……そうだね、行くよ。やっぱり僕は色々な世界を見てみたい」
「ふふ、やっと決めてくれたね」
「君のおかげだよ。ありがとう」
「どういたしまして!」
 じゃあまたね、と言って少女は村の外へと軽やかに歩いていった。やっぱり村の外から来た迷子だったのかもしれないとアレンが少女に声を掛けようとした瞬間に突風が吹き、思わず目を瞑る。慌てて目を開けると、既に少女の姿は無かった。



「じゃあ行ってくるよ、母さん」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
「いつでも帰ってきていいんだぞ」
「ありがとう、父さん」

 あの後、いくら探しても少女の姿は無かったため、きっと彼女を待つ人たちの元へと帰ったのだろうと思うことにした。そうして帰宅し、家族へ旅立ちの話をすると、やっと言ったかと呆れたように笑って準備してくれていた旅道具を渡してくれた。幼い頃ならともかく、ある程度成長した後は旅へ出る話なんてしていなかったのに、余程顔に出ていたようだ。
 家族と別れを済ませた後、最後にもう一度だけとあの丘に向かった。眺めていただけの景色にこれから自分も向かうのだと思うと鼓動が高鳴った。それもあの少女が背中を押してくれたおかげだ。
「そういえば、そんな御伽話があったな」
 春になると、新しく旅立つ若者の背中を押す春風の妖精の御伽話。春風の妖精は、可憐な少女の姿をしているとか。
「いやいや、そんなまさかね」
 自分らしくないロマンチックな想像に笑っていると、あの時の強い風がびゅうと吹いた。

「春風とともに」

 

 今年度も今日で最後ですね。
 明日から新天地へ向かう方は頑張ってくださいね!
 特に何も変わらない方も頑張ってくださいね!

3/31/2025, 8:37:39 AM