真夜子

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9/10/2022, 8:49:16 AM

【この世界に一つだけ何か出来るとしたら】

『三神、この世界に一つだけ、何か出来るとしたら何をする?』
 月を背景に白衣を着た女にそう聞かれて、三神はポケットから煙草を取り出して火をつけた。
 吸う間に少し考え、ふぅと紫煙を吐ききってから再度口を開く。
「ふむ、この世界とそっくりなコピーを作るのも良いし、良い出目が出るまで無限に世界をループさせるのも有りだね。それに、ある場所をこの世界から切り離したり、閉じこめるのもいい、この世界を自在に作り替えるのも良いですね」
「彼女のために?」
 女の赤い髪が夜風に揺れる。女もポケットから煙草を取り出すと口に加えた。
「いや、自分のために」
 ん、と顎をしゃくる女に三神は火を貸してやった。
 紫煙を噴き出すと女は三神を見やって薄く笑う。
「珍しいな、彼女の為と思っていたが、ちゃんと加害者意識を持っているんだな」
「当たり前です。彼女の幸せな恋を捩じ曲げ、自分の物にしようと言うのですから、彼女の為ではない、が……たかが片思いで世界の理まで捩じ曲げる羽目になるとは思わなかった」
 そうやって世界をいじくり、捩じ曲げても、今だ彼女は彼のものだった。
 どうやっても彼女は彼を好きになり、三神には憧憬以上の気持ちを持つことは無い。
「恐ろしい片思いだな」
「ええ、何万と繰り返しても彼女はあの御曹司と必ず恋仲になって死ぬ運命だ。私を選べば死ぬことも無いのに」
 煙草の灰を携帯灰皿に入れ、三神はその場に立ち尽くした。
 月は明るく、いつもより少し大きく見える。
「好きな男と居られるなら、例え死んでも構わない。楽しい恋の内はそう言うもんだ」
「それ、前回の死に際に彼女に言われましたね……妙に心を抉られました」
「好きで好きで仕方ない内は、生きるも死ぬも飯食って寝るのもずっと一緒がいいもんだ。好きには隙が無いな」
 はっはっは!と女は笑って細い紙巻き煙草を三神の灰皿に押し込んだ。
「本当に願えるなら、あの御曹司がいない世界を願うよ」
 少し寂しげに、三神は呟いた。

9/9/2022, 9:40:24 AM

【胸の鼓動が踊るように、きみと紅茶を】

「大変結構ですよ」
 執事の三神がティーカップを置いた。
 メイドの聖良は合格点を貰った事に一瞬ホッとはしたものの、自信を持てずにメモを取り出す。
「基本は湯温95℃以上で一人分2から3グラムを150㏄ほどのお湯で抽出、茶葉が……」
 ブツブツと呟きながらメモを見直し、自分のカップに注いだ紅茶の色や香りを確かめて、一口啜った。
「これが基本のアッサムティー、なんでしょうか……。三神様が淹れた時はもっとコクも香りもこんなものでは……。色もブランデーの様に煌めいて、とても感動したのに……」
 なのにコレは地味で普通の味。不味くは無いが感動するほど美味しいとは言えない。
 三神は片眼鏡の位置を直すと、金色の紅茶缶を手にしてカパッと開ける。
「香りを立たせるなら、沸騰したらすぐに湯を注ぐ。その時にもっと茶葉を踊らせるように意識して、高い位置から注いでみてはどうでしょう──」
 そう言うと手際良く茶葉を温めたポットに入れ、沸騰したお湯を高い位置から注ぎ入れる。注がれるお湯は太く勢いがあり、トポポとポットが小気味よい音を立てていた。
「──このように、私は高い位置から太めに勢いよく注ぐようにしますが、聖良さんは細く繊細に水飴を引くように注ぎながら高く上げて行きます。いろんなスタイルがありますから、もしかしたら同じ淹れ方でも味が変わるのかも知れませんね」
 茶葉がポットの中で踊るように対流し、ジャンピングする。
 その花が舞うような水の流れは美しく、見ていて飽きることがない。
「頑張れば、三神様の様に美味しく淹れられるでしょうか」
 ぽつりと呟くと、聖良は落ちていく砂時計を眺めて肩を落とした。
「何を言うのですか、とても美味しく淹れられていますよ。同じ淹れ方でも微妙に味が違うのは、私はそれで良いと思うのです」
「そうでしょうか……」
「そうですよ、貴女の味がするのですから」
 そう言って三神は聖良に笑いかけ、聖良は胸を押さえて顔を赤くした。

9/7/2022, 6:57:01 AM

「時を告げる香り」

「さあ明石、新造出しも終わったんだ、今日から一本立ち出来るよう、気張るんだよぉ」
 煩い遣り手婆がニヤニヤしながら言うもんだから、引きつる笑顔で「あい」返事をした。
 一本立ちの意味は分かるが、一本って何の一本なんだろう、まさかアレじゃないよな。
「ねぇ、東雲姐さん。一本立ちの一本って何?」
 そう聞くと、昼見世を終えて一息ついてる姐さんは、煙草の煙を外へ向かってふぅと細く吐いて口を開く。
「『東雲姐さん、聞いてもようござんすか? 一本立ちの一本とは何でありんすか』と、聞けぬ妹女郎に、わっちは頭が痛ぅなってきんした」
 はぁ、と小さな溜息を吐いて眉を下げる姐さんは、カンカンと煙草盆に火種を落として、私に向き直る。
「あ、ご、ごめんなんし……」
 姐さんがきっちりと座り直すので、私も崩した足を直して姐さんの目を見る。内心、やっちまったと反省した。
「明石どんや、主は新造出しも終えた立派な女郎でありんす、しっかり廓の流儀は守らねばなりんせん。後に続く禿のためにも、わっちが教えささんした事はきちんと──」
「し、東雲姐さんっ。わっちが悪ぅござんした。長いお説教は堪忍しておくんなんし。わっちが知りたいのは一本でありんす」
 眉間の皺を押さえて東雲姐さんは、ふぅと呆れた様に息を吐いて「禿を呼びなんし」と呟いた。
 私は禿のイトとコトを呼ぶと「あい」と二人がやってくる。
「ちょんの間で使う香を持ってきなんし」
「あい」
 そう言われて二人はキビキビと動いて言われた物を持ってくる。
「良いでありんすか。明石、イト、コト。ようお聞きなんし。一本立ちの一本はこの線香一本の事じゃ」
「線香一本、でありんすか……わっちはてっきり、マ……」
「明石どん、姐さんの話は黙って聞きなんし」
 キッとイトが睨む。
「そんな下品で、東雲姐さんの名を貶めるのはやめなんし」
 コトがやれやれと呆れて見せた。まだ何も知らないロクにアレも見たことも無い禿の癖に分かったような口を聞く。けれども、今回ばかりは自分でも品が無かったと私は顔を赤くして頭を垂れた。
「ごめんなんし……」
 東雲姐さんは言い得て妙だと少し可笑しかったのか笑いを噛み殺し、咳払いをして話を戻す。
「良いでありんすか、この線香一本の間に客を満足させたら一人前。かように短い間にお客様を持てなし、尽くすのは簡単な事ではありんせん。ようく精進しなんし」
 あい、と私達は返事をした。
「でも、東雲姐さんは線香を使っておりんせんが……」
 ハテと思いついて口にしてしまった。すると、今日一番の深い溜息を吐いて、東雲姐さんは呆れ果てて力が抜けたと笑った。
「わっちらのような座敷持ちは、客の方が線香一本の儚い時間では足りんせんと、一晩に銀を払う遊び方をするもんじゃ。どれ、遣り手婆に話をつけて、ちぃと灸を据えてやろう」
 イト、コトと呼んで、東雲姐さんは眉間の皺を揉みながら、また煙管を手にした。二人は頬を膨らませて怒っている。
「いらぬ口を申しんすな。東雲どんをちょんの間と同格にみるなど、なんたる不届きモンでありんすっ」
「それでも東雲どんの妹女郎でありんすかっ。お大尽様が線香一本などしみったれた遊びなどしませぬ。遣り手婆に言いつけささんすっ」
 ああ、余計な事を言っちまった…。
私は思いつきで言ってしまった自分を馬鹿と罵って、真っ赤になった遣り手婆からどう逃げようかと考えるのに忙しくなった。

9/2/2022, 5:16:50 PM

「日暮花魁、入りんす」
 私は返事を待てずに襖を開ける。
 暮れ六ツ前の忙しい時間だと言うのに、日暮花魁は既に身支度を終えて物憂げに格子戸から外を眺めていた。
(やっぱり休まないのか……)
 キュッと締め付けられる胸を押さえて部屋に入る。
 黄昏時に染まった白鷺の打掛が、暗がりに白く浮かび上がって綺麗だった。
「あれ、小菊さん所の小鈴どんでありんしたか」
 勝手をしたのに怒りもせず、日暮花魁は他の部屋の妹女郎が入って来たからと上っ面だけの笑みを浮かべる。
「秋鈴でありんす。もう禿ではありんせん。萩野どんも小萩と呼ばれるので文句を言っておりんした」
 日暮花魁の前に座り、顔色を見る。
「わっちにはまだ、可愛い童に見えんすよ。尊く浄い、穢れない者でありんす。して、何用でありんす」
 恋を知らない苦界の女を羨んでいるみたいに、日暮花魁は視線を落とした。
「朋輩の萩野どんが遣手婆に呼ばれんして、かわりにお使いの吸い付け煙草を預かりんした」
 そう言って自分で買ってきた煙草の葉を渡すと、日暮花魁は儚げに笑みを浮かべて礼を言う。
「ありがとうござりんした、なれど……わっちの煙管はもうありんせん。これは小菊花魁に差し上げささんす故、お持ちなんし」
 そっと白い指で私の手に煙草を握らせる。その指先は力もなく血も通わない冷たい手だった。
 いつもなら指先まで芯が通って綺麗な所作で動くのに、今夜は少し震えているようにさえ感じる。
「日暮花魁の煙管は梶原様がお借りんしたと……」
 ある小大名のお付きで来ていた貧乏浪人は、昨日限りでお江戸での勤務を終えて国元に帰ると言っていた。
 萩野どんの話だと貸したと言っていたが、あの貧乏浪人では返しに来る旅費すらも難しいだろう。身請けなど到底無理だ。
「あの雁首で幾人もの客を引っ掛けんしたが、好いたお人は引き留められもしぃんせん」
 悲しげな目が、会えない人を想ってじわりと潤んだ。それを誤魔化そうと窓の外に沸き立つ鬱陶しいまでの喧噪を眺める日暮花魁を見て、私は堪らなくなる。
「わ、わっちの煙管を差し上げささんす故……あんな無粋な侍などお忘れなんし。日暮花魁には煙管がありんせんと、どうも締まりが悪ぅござんす」
 先刻煙草と一緒に買ってきた煙管を取り出すと、私は日暮花魁に差し出した。
「秋鈴どん……」
 日暮花魁の愛用していた美しい紅色の煙管は姐女郎の形見だと聞いている。
 こんな安物とは比べることも出来ないが、これが自分の精一杯だった。
「かようにも──」
 日暮花魁は新品の煙管を見つめて申し訳なさそうに眉を下げ、困ったように首を振った。
「──かような事をささんすと、小菊花魁に悪うござんす」
 差し出した煙管を指でそっと押し返された。
「小菊姐さんは大事な姐女郎でありんすが、わっちにとっては日暮花魁も大事でありんす。梶原様が居らずとも、そのお心の灯火に水をかけるのはお止めなんし。この苦界を花魁が仄かにも照らしてくれなけりゃ、わっちらは望みも何も潰えてしまいんす」
 好きな人が出来たらこの苦界が地獄になるなんて、そんなの余りにもあんまりだ。それなら梶原様は日暮花魁を責め立てる獄卒も同じ。そんな奴こそ地獄に落ちりゃあいい。
「なれど……」
「わっちは梶原様が憎らしいっ。煙管と一緒に日暮花魁の灯まで盗みおって……! 妹女郎でもないわっちでは、何の役にも立ちんせん……!」
「秋鈴どん……」
 私はぐっと力強く煙管を握らせ、ワッと泣き出した。すると日暮花魁が煙管を握り返し、おろおろと顔を覗きこむ。
「泣くのはお止しなんし。秋鈴どんの気持ち、嬉しゅうござんす」
 そう言って、日暮花魁は煙草と煙管を受け取ってくれた。